かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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どちらも昭和な…/親子の2018年11月読書「月間賞」

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私はこちら。「象徴」であるはずの昭和天皇が、戦後日本の骨格が築かれた時期にこれほど政治的な動きをしていたというのは驚きでした。しかもそれが、『昭和天皇実録』からもある程度裏付けられているというお話です。戦後史のイメージが変わります。 

笑点五〇年史 1966-2016 (ぴあMOOK)

笑点五〇年史 1966-2016 (ぴあMOOK)

 

長男(4歳5カ月)はこれです。最近そこまで熱心に笑点の番組を見ている印象はないので須賀、図書館で見つけてきたこの本は熟読しており、よく前田武彦三遊亭小圓遊について質問してきます*1

まさに今日、貸出期間を延長してきたそうなので須賀、その際彼は「昔どんな人が笑点に出ていたか分かるから面白いのだ」と主張したそうです。

 

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*1:実は私もこの2人はリアルタイムで見ていない

掲載旅行記一覧【先頭に固定】

2005.10 北朝鮮(平壌へ板門店平壌帰国)

2006.03 韓国(ソウルへ顕忠院安重根紀念館板門店ロッテワールド帰国)

2007.08 中国(上海へ南京へ南京泰山へ泰山北京へ天安門抗日紀念館長城済南へ済南上海豫園上海外灘帰国)

2008.01 欧州(アムステルダムへアムステルダムブリュッセルパリリスボンへロカ岬リスボン郊外スキポール帰国)

2009.09 韓国&竹島(ソウルムクホ竹島鬱陵島独島博物館良洞マウル慶州白村江ソウル帰国)

2009.12 台湾(台北夜市九份淡水烏来帰国)

2010.08 イラン(中東へ ドーハとイラン入国 イスファハーンへイスファハーンシーラーズペルセポリステヘラン帰国)

2011.05 シンガポール(到着市内マレーシア)

2011.10 東欧(クラクフへアウシュビッツクラクフワルシャワスターリンワールドヴィリニュスウィーン帰国)

2012.08 トルコ(イスタンブールへイスタンブールエフェソスパムッカレパムッカレ発北キプロス南北キプロスアダナカッパドキアカッパドキア気球ボスポラス海峡イスタンブール帰国)

2013.07 ロシア(アブダビ空港 モスクワへモスクワキジ島エルミタージュノヴゴロドサンクトペテルブルク帰国)

2015.08 バリ(バリへクタタマンアユンブサキ寺院帰国)

2016.03 タイ(バンコクへバンコクアユタヤ週末市場帰国)

2016.08 済州島(済州市万丈窟潜水艦中文)

2016.11 ソウル(朴槿恵退陣デモ水原と大規模デモ慰安婦像)

2017.06 中朝国境(大連丹東から見る北朝鮮旅順帰国)

2018.03 釜山(中心部太宗台慰安婦像)

2018.04 豪州(シドニーブルーマウンテンズハンターバレー帰国)

2018.09 キューバ(ハバナへハバナゲバラビニャーレス渓谷コヒマルビーチメキシコシティ)

2019.07〜08 バハマアトランタ(バハマへビーチダウンタウンフラミンゴアトランティスアトランタへCNNMLBミッドタウン居住区地域図書館帰国)

 

当ブログ内の旅行記を探しやすいように、一覧を作りました。時系列に並んでいます。

こうしてみると、ちょっとした歴史を感じますね。これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

旅行記は随時追加しています

「戦後レジーム」形成過程と象徴天皇の政治的振る舞い/『昭和天皇の戦後日本』(豊下楢彦)他1冊

 

日本国憲法の誕生 (岩波現代文庫)

日本国憲法の誕生 (岩波現代文庫)

 
昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

 

 日本国憲法の成立過程、そして日米安保体制をも含めた(安倍首相が言うところの)「戦後レジーム」全体の形成に、昭和天皇自身はどのようにコミットしていたのかについて追ってみました。

1冊目*1をもとに憲法制定過程をきわめてざっくりまとめると、日本政府側で検討された松本案が明治憲法の微修正にとどまったため、GHQ案を土台に、それを「日本化する」*2形で条文づくりが進められ、有名な「芦田修正」*3など帝国議会での審議を経て公布・施行されました。

その後には、極東委員会の意向を踏まえたGHQ側から、日本国憲法改正の機会を与えられながら、当時の吉田内閣がその意思を示さなかったという歴史的経緯もありました。

一方の2冊目では、占領(憲法改正東京裁判)と冷戦という二つの危機から天皇制を守るため、昭和天皇自身が新憲法での象徴天皇制の下、いかに政治的に立ち回ったか(!)を『昭和天皇実録』も参照しながら論じています。

昭和天皇は、米軍による日本防衛や沖縄の半永久的使用について、米国に対し自ら求めました。さらに、国連による日本防衛や「極東のスイス論」に傾斜するマッカーサーを(共産主義勢力から天皇制を守るには)生ぬるいと見るや、彼の頭越しにワシントンのダレスらとのチャネルを築き、日米安保においてより日本に有利な条件を追求した吉田茂とは異なるメッセージを送り続けたのです。史料上の制約などから、そうした意図がどれほど成功したのかについては議論の余地はありそうで須賀、象徴天皇がこうした意図を持って行動していたということだけでも驚きに値します。

こうして歴史の経過を追っていくと、ただ「日本国憲法GHQに押し付けられた」と言うことにどのくらい意味があるのか、という感慨を覚えざるを得ませんでした。GHQの強い影響下で起草された政府案であることは間違いありませんが、東京裁判での天皇起訴や天皇制廃止を求める極東委員会構成国の厳しい目線が注がれる中、GHQも円滑な日本統治のために天皇制を保とうとした側面があり、占領側もそのせめぎ合いの中で出してきた憲法案なのでありました*4

このように、今では忘れられがちなさまざまなアクターの力関係の中で形成されてきた憲法であり、政治体制であることを認識すること、もっと言うと、その後にその中でどんな実行が重ねられてきたかを知ることが、「戦後レジーム」とやらを評価する上でも重要なのではないかと思うんですけど、どうなんでしょうね。

 

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*1:「他1冊」扱いですみません、こちらは再読本でした

*2:日本側として呑みやすいものとするよう、佐藤達夫らとGHQの間で、法技術的な部分を含めたせめぎ合いがなされました

*3:少なくとも当初は、芦田もその意味に気がついていなかったとされています

*4:「1条と9条がバーター」などと言われるのはその意味です

江藤新平を一喝した西郷隆盛/「西郷どん」第四十四話

www.nhk.or.jp

鹿児島に帰り、悠々自適の暮らしをしようとした西郷隆盛でしたが、桐野利秋中村半次郎)ら薩摩士族らも後を追い、不穏な雰囲気に満ちてきます。佐賀では江藤新平が決起するも敗れて斬首されました。西郷は高まる士族たちの不満を抑えるため、私学校を設立、彼らの教育・鍛錬に努めることにしました。

佐賀で敗れた江藤新平が鹿児島の西郷のところに決起を促しに来る、という展開はなかなかドラマチックでありま須賀、これは史実のようです。放送では自宅に来たことになっていましたが、実際には西郷は指宿の近くにある鰻温泉にいたそうで、現地の人が漏れ聞いた西郷と江藤のやり取りについての証言というのも残っています(以前どこかで読みました)。それによると、最後は西郷が江藤を一喝したのだそうで、その後江藤は土佐へ向かい、その地で捕らえられてしまうわけです。この時の大久保利通は自分で遠征して行って乱を鎮圧し、死刑にして梟首するところまでやってしまっており、この時期が「大久保独裁」と呼ばれた所以はこの辺にあるようです。

さてその大久保で須賀、ドラマのシーンにもあったように子煩悩であったそうです。登場した男の子(利武)の子供は国会図書館の憲政資料室開設に貢献した利謙で、1995年までご存命でした。ちなみに敢えて出していないのかもしれませんが、利武の一つ上の兄は内大臣として昭和初期の宮中を支えた牧野伸顕であり、そのひ孫に当たるのが現職の財務大臣であるのでした(この話は既出でしたかねw)。満寿とおゆうが実際にどんな取り決めをしたのかまでは存じ上げませんが、両家の子供たちの間では行き来があったそうですよ。

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柏木由紀の一言が示唆する日朝関係史/「西郷どん」第四十三話

www.nhk.or.jp

一度は決まった西郷隆盛の朝鮮派遣でしたが、岩倉具視が病に倒れた三条実美に代わって「太政大臣代理」となることで閣議はひっくり返り、西郷らは政府を辞職することに。そして西郷は大久保利通を訪ね、別れを告げます。

まずクライマックスの別れのシーンで須賀、帰国後人が変わったようだった大久保の情緒的な部分が表現されていて私はよかったと思います。上にリンクしたサイトでも、鈴木亮平瑛太コンビのアドリブで作り上げていったさまが紹介されていま須賀、大久保は後に西郷の訃報を受け、かなり動揺した様子であったとも伝わっていますので、当時の大久保利通自身の感情にも、近いものがあったかもしれません。

ただ全体として気になったのは、西郷が辞職して東京から遠く離れた鹿児島に帰ってしまうことへの周囲の危機感が、あまり描かれていなかった点です。唯一の陸軍大将であり、戊辰戦争の英雄として声望の高かった西郷隆盛が、士族の不満渦巻く真ん中に投げ込まれてしまうというのは明治政府としてかなり危険な事態だったはずですが、辞めると言った西郷をほとんど誰も引き止めなかったのはかなり異様に映りました。

あと小ネタかもしれませんが、鹿児島の園(柏木由紀演じる吉二郎未亡人)が朝鮮半島の地図を見た際に発した「短刀のようだ」という言葉は、この先の歴史を見ていく上でシンボリックな意味を持ってきます。「日本列島に短刀を突き立てたような位置にある半島である」=「朝鮮半島が列強の支配下に入れば、日本は一刺しでやられてしまう」という認識は、後の山県有朋の「主権線と利益線*1」の議論に通じるもので、日本が朝鮮半島への影響力拡大を目指すようになった土台にあったものと言えます。そんな言葉がシレッと出てきたことには、かなり驚きました。何かの伏線…とも考えにくいので須賀。

 

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*1:朝鮮半島はその間にあるとみなされます。自国領ではないが、自国の利益に非常に重要な関係がある地域だ、ということです

ハバナの恨みを福岡で?/キューバ大使宿泊、ヒルトン福岡が拒否

www.asahi.com

キューバだけに限ったことでもなく、しかも前回は泊まれていたとのことで須賀、事象として興味深いニュースにはなりましたね。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

この日のキューバ旅行記でも触れたので須賀、ヒルトンとキューバには60年越しの因縁があったりします。

キューバ革命で東部からハバナに攻め上ったカストロが、司令部を置いて接収したのが完成したばかりのヒルトンホテルでした。それが現在のホテル「ハバナ・リブレ」です。

www.sankeibiz.jp

3年前には、それぞれの子孫がそのハバナ・リブレで対面した、なんてシーンもあったそうで須賀、今回のヒルトン福岡の対応は、米国資本の他のホテルと比べても際立っているということです。

「江戸の恨みを長崎で」という言葉がありま須賀、「ハバナの恨みを福岡で」果たす意図があったのかどうか。

 

正面から「征韓論」を扱わなかったのは良い判断/「西郷どん」第四十二話

www.nhk.or.jp

留守政府を預かる西郷隆盛は、江藤新平らとともに国政改革を推し進めます。しかし朝鮮国への使節派遣をめぐり帰国した岩倉具視大久保利通らと対立することになってしまいました。

今回の話の展開は、薄味ながらお話として上手に作っていたと思います。

留守政府内の長州出身者である山県有朋井上馨がいずれも金銭がらみのスキャンダルで辞め*1、これまで脇役的な地位に甘んじていた土佐と肥前の出身者が西郷を抱き込むような形で実権を握る。これに対し、欧米から帰ってきた木戸孝允や大久保らが巻き返しを図るー。もちろん藩閥による権力闘争だけが当時の明治政府内の行動原理ではありませんでしたが、説明の仕方としては無難であったように思います。

当時の政界において、外政を重視するか内治を優先するかという路線対立を含んだいわゆる「征韓論」自体が、政策論として重要であったことは間違いありません。ただ、まさしくそれは「韓論」であった*2が故に、150年近く経った現在においても(むしろそうであるがこそ)、「近代日本の曙光」として放送されるNHK大河ドラマでその件を詳述するのは具合が悪かったのではないでしょうか。

穿った見方かもしれませんが、全体としてそこまで史実性を重んじてこなかった今作で、敢えてデリケートな政策論争を描こうとするより、その背後にある権力闘争に原因を求める方が格段に無難だったろうと感じました。これは古今東西の政治を分析する上で、難しい部分でもあるのだと思います。

 

しかし帰国した大久保卿の演技は迫力がありましたね。ネットでは「ダークサイドに堕ちた」なんて反響もあるようで須賀、何かをきっかけに(場合によってはそのきっかけすらなく)キャラが急変した、と見做されるのは、そこに至るまでの機微を筋書きとしてしっかり説明できていなかった、ということでもあります。

*1:司馬遼太郎に言わせれば、「薩摩出身者は女に、長州出身者は金に弱い」とされたそうです

*2:たまに「西郷さんは使者として朝鮮に行くと言っていただけであって、平和を望んでいたのだ」と真顔で主張する向きがありま須賀、さすがにそれは厳しいでしょう