かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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東経52度の旅―イラン・ラマダン紀行八日目

さあ、ついに旅行記最終日です。厳密に言えば21〜22日の2日間なので須賀、時差やフライト時間の絡みなので1日分にまとめてしまいました。まあ実質観光は終わったようなもので須賀、あともうしばらくお付き合いいただけると嬉しいです。

2日がかりの帰国

帰りがけにホメイニ廟

最後の朝は6時半の起床。荷物をまとめて8時に宿を後にします。行きは20万Rという大枚をはたいて、空港からエマーム・ホメイニー広場までタクシーに乗ったわけなんで須賀、いくら空港周辺の公共交通機関が整っていないとはいえ、初めっからタクシーというのもアホらしい。そんなわけで、地下鉄で行ける所まで行ってからタクシーを拾うことにしました。
30分ほど揺られて着いたのは、地下鉄1番線最南端のハラメ・モタッハル駅。降り立った早々、私を見て「こいつは空港に向かっているのだろう」と見立てたタクシー運転手から猛アピールを受けましたが、値段交渉に全く応じようとしない様子に不満を感じ、お断りをしておきました。それよりも、半ば偶然にして巨大なホメイニ廟を見ることができた喜びで、それどころではなかったというのが正直なところでしょうか。駅から廟の間近までは数分歩かねばならないので須賀、この廟の絵的な存在感は抜群であります。

今でも工事中なのがわかりますね。近づいていくとこんな感じです。


描かれているのはホメイニ師でしょうか?
中に入って行く人も少なからずいたので須賀、余裕はあるとはいえ、飛行機の時間が待っているということと、シーラーズのシャー・チェラーグ廟でのこと*1を思い出し、入るのはやめておきました。結局30分くらい駅と廟のあたりをうろうろして、別のタクシーに7万Rで空港まで乗せてもらうことになりました。そのタクシーではアフガン出身という2人の男性と乗り合い、彼らも空港を目指すのかなと思っていたら超短距離で降りてしまいました。

さよなら、イラン

これまた約30分で空港に到着。時刻は9時45分ごろで、午後1時のフライトまで約3時間あります。入ってすぐのところには売店が結構並んでいて、暇つぶしにはよさそうな感じだったので須賀、手続きを先に済ませてからゆっくりしようということで、まっすぐ荷物検査へと向かいます。
この検査を抜けた先に、各航空会社のチェックインカウンターがありました。ここもさっさと終わらせて、何か飲み物でも買おうと思っていたので須賀、探せど探せどカタール航空ドーハ行きのカウンターがありません。聞いてみると、まだ時間があるのでカウンターが開いていないとのこと。一度荷物検査を受けてしまった私は、そのエリアから戻るわけにも進むわけにもいかず、飲み物すら買うことのできない*2場所に留め置かれることになったのでした。
まあ仕方がありませんので三国志を読みながら時間をつぶし、11時ごろにチェックインを済ませることができました。中では余った50万R50QR*3と合わせて50ユーロに両替してもらい*4、空港価格の1万Rでピーチジュースを堪能。あとはフライトを待つだけ、と再びのんびり読書をしていたら、なぜか12時ごろに係員に「飛行機に乗りたくないの?」と急かされ、首をかしげながらも言われるがまま搭乗しました。それも何だか腑に落ちない話なので須賀、もっと驚くべきはこの飛行機、定刻の10分前、12時50分に離陸したことです。全員乗っていると確認した上で離陸した、と信じたいところで須賀、これは人生で初の体験でした。

灼熱と酷寒のドーハ

ペルシャ湾を南に飛び、再びドーハに到着。現地時間では午後1時15分です。ここでも行きと同様、次のフライトまで約半日あったので須賀、再びあの灼熱のドーハ市街*5に出て行く気にはなれず、空港内で過ごしました。例の「QUIET ROOM」で休んだり、本を読んだりしていたので須賀、空港内は肌寒いくらいに冷房が効きまくっています。街中もそうだったけど、ここの人たちはよくこれで体調崩さないですねw

空港税関にて

午前1時過ぎ。ドーハから日本に向かう飛行機が離陸します。本当に本当に気さくなイランやカタールの人々とも、そしてこの信じられない蒸し暑さともここでお別れ。行きと同じく飛行ルートを眺めながら、今回訪ねた都市をざっくり貫く東経52度線が遠ざかり、日本の日常が近づいていくのを感じていたので須賀、飛行機が中国大陸の東部に差し掛かったあたりから、まるでどこかの国を避けるかのように、急に不自然な南下を始めたのがとても印象的でした。
日本に着いたのは、日本時間ではもう1日の終わりでした。いつものように入国審査を終え、預けていた荷物を受け取って税関の窓口に向かいます。
税関職員「おかえりなさい。どちらからですか?」
私「イランです」
職員「そうですか。ちょっと荷物の中を拝見してよろしいですか?」
私「構いませんよ、どうぞ」
職員「この缶の中身は何ですか?開けてみても?」
私「どうぞ。お土産で買ったクッキーですけど…」
私「税関で荷物検査をされるのって初めてなんですけど、やっぱ行き先が関係あるんですか?」
職員「まあイランだとねえ…(笑)」
(糸冬)

あとがき

あれ?ラマダンは?ww

毎度のことながら、こんなだらだらした駄文を読んでいただきありがとうございました。ワードによるとこの旅行記はすでに6万字を超えているそうで、2009年の韓国・竹島を分量で超えたというのは私としても驚きであります。とにかく本当にありがとうございました。
まとめっぽいことを言う段になるといつも途方に暮れているので須賀、やはり一番初めに指摘しておきたいのは、イラン、そしてカタールの人々の親切さと気さくさです。街を歩いていたら車の中から手を振られ、話しかけられ、果物を分けてもらい、バス代をおごってもらい、家に招かれてご法度のはずの酒まで飲ませてもらいました。これまでの旅では、実はそこまで現地の人々とコミュニケーションをとってきていなかったので須賀、今回その点では質・量ともにダントツだったと言い切れると思います。2人のRさんに加え、「ムハンマド」と名乗った人も3人いましたね。彼らと生で話をして、こっちの話もするけどあっちの話も聞いて、聞きたいことを聞いてみたり、あっちが言った何気ない一言に内心「へぇ〜」ボタンを連打したり… そういう肌感覚で彼らと付き合い、彼らのことを知るチャンスを得られたことは、私にとって実に得難い経験だったと思っています。ここで言っても仕方ないのかもしれませんが、私に絡んでくれた全ての人たちに、改めて感謝の気持ちを表したいと思います。
また一方で、まえがき*6で書いたとおり、イランといえばアメリカ前大統領曰く「悪の枢軸」であり、核開発問題に揺れ、政情不安定な「アフガニスタンイラクの間」にある国です。確かにお目当てのTwitterにはアクセスすることができませんでしたし、エスファハーンのエマーム広場で出会ったムハンマドさんは、タリバンのせいで祖国アフガンを離れてきたと言っていました。観光地として興味はあったので須賀、日本人誘拐事件のあったイラン東部の州に足を延ばすことは控えました。こう言うと「やっぱりイランは危ないところなんだね」という理解に落ち着いてしまいそうで須賀、ちょ、待てよ!と言いたい。ペルシャ語が全くできない私がこうやって、本当に現地の皆さんに助けてもらいながら旅程を全うできたこと。そして、冗長ながらもその仔細を書き連ねたこの旅行記こそが、「イランは危ない」という先入観に抗いうる、私の持つ最大の武器なんだと思っています。冒頭では、「別にイランを庇うような言われはそもそも私にはない」と書きましたが、旅した時のことを思い出しながらこれを書き進めていると、その「言われ」は十分にあるような気がしてきました。
エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン」。最後に、この言葉に触れないわけにはいきません。エマーム広場の美しさと、出会った人との交流。シーラーズからテヘランに向かう夜行バスの中で、図らずもエスファハーンの夜景を目にしたときは、まだまだこの町からは逃げられまい、と確信に近い実感がありました。
さて、そろそろホントに終わりにしましょう。締めは、今回の旅行を計画する際にいろいろとアドバイスをいただいていた、大学時代の先輩の一言です。
悪の枢軸の割にはいいところでしょう?笑」
(2011年1月5日午前2時、自宅書斎(笑)にて)

*1:旅行記6日目を参照

*2:自販機らしきものはあったので須賀なぜか使えない

*3:既出で須賀カタールリアル

*4:ドルだとうまく払えなかったようです

*5:今度ここでワールドカップやるんですよねwww

*6:で何を書いたかというのも読み返して思い出しましたがw