かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
ブログランキング・にほんブログ村へ

竹島・韓国一人旅二日目 ソウルからムクホ港へ

【目次】

 
 

ソウル早朝散歩―宗廟、避馬通り、仁寺洞

「神路」踏むべからず

7時半に目覚まし時計が「アイーン、アイーン、アイーン…」と鳴り始め*1、あわてて起床します。朝食は宿のトースト。素泊まりがでふぉなのであるとなんだか得した気分ですね。夫がカリフォルニア、妻がスペインという夫婦*2や、「お金がなくなるまではソウルにいるつもりですよ」と話す日本人男性とおしゃべりしながらいただきました。
身支度を済ませて、8時半ごろまた散歩へ。この日はあいにくの曇り空で、肌寒いくらいでした。今度は宿から東進し、まだ店の開ききらない仁寺洞や懐かしの鍾路3街の駅を通り抜け、朝鮮王朝時代の王や王妃の位牌が祀られる宗廟を訪ねます。
ソウルには昨日スルーした徳寿宮をはじめ、いくつかの大きな宮殿があるので須賀、東アジア儒教圏の宮殿建築は一昨年の紫禁城でお腹いっぱいという事情もあり、今度はちょっと趣向を変えて廟に参ろうという魂胆でした。宗廟は廟というだけあって、日本人ツアーの周辺30メートル以外は静かな趣です。ここは時期を選んで来れば伝統的行事なんかも見られたそうで須賀、朝の冷気とマッチしたパリッとした雰囲気だけでも悪くはなかったような気がします。正殿という建物がこちら。

あと、敷地内の道の中央には「神路」と称する石畳が敷いてあって、魂が通る道としてその上を通ってはいけないことになっています。そういうことを言われると踏みたくてウズウズする性分なので須賀、他人の信仰を冒とくしてまですることではないと思い直し自重していました。写真の中央がそれです。

朝の避馬通り

大体宗廟の建物を見たあたりで建物見物はお腹いっぱいになってきたので、隣接する昌徳宮は恐れ多きためごく遠くから拝見し(笑)、帰路に着くことにしました。そこでぜひとも立ち寄りたかったのがピマッコル(避馬通り)。朝鮮時代の高官の馬を避けるための道に庶民向けの居酒屋が集まったエリアで、前回もそこの居酒屋にお世話になりました。そんなピマッコルなんで須賀、こんなニュースを聞いていたので心配になり、立ち寄ってみることにしたのでした。

鍾路ピマッコル“味の横丁”が消える
ピマッコルはソウル鍾路(チョンノ)1〜6街にわたって鍾路から18メートル北へ伸びた幅2〜3メートル程度の路地を指す言葉だ。朝鮮時代「庶民たちが(高官大爵の乗った)馬を避けるための道」(避馬路)に由来する。道の左右を含む周辺一帯をピマッコルといい、道だけを指してピマッキルという。朝鮮時代、ソウルの東西の軸となる中心道路だった鍾路とともに形成され、600年の風霜に耐えてきた。最近になってピマッコル一帯に大規模再開発事業が始まり、歴史の中に消える危機に処している。
◇消えるピマッコル=先月某不動産開発会社はソウル市に「清進(チョンジン)洞清進区域12〜16地区をまとめて統合開発する」と事前諮問を要請した。“清進洞ヘジャンクク(*)路地”とピマッキルが含まれた4107平方メートルの広さに24階建てのツインタワー2棟を作るという内容だった。ここには70年の歴史の清進屋を含む“ヘジャンクク路地”と、同じく70年の歴史をもつ“韓日館”(ハニルグァン)、そしてピマッキルが含まれている。
ソウル市は先月27日、都市建築共同委員会を開き、この事案を審議したが諮問を保留した。匿名を要求したある委員は「歴史深いピマッコルとソウルの名所として位置づいているヘジャンクク路地が消える開発計画なので、委員の大部分が決定をためらった」と伝えた。事前諮問を要請した事業者にソウル市が特別な指摘事項を提示しなければ「関連法規内で開発してもよい」という回答になる。
開発事業が進み、韓日館は5月まで、清進屋は7月まで営業をして移転することにした。35年の歴史のソウルホテルは昨年末閉鎖、現在は“撤去予定”という案内文がかかっている。
ソウル市がピマッキル保存のために2004年12月“建築誘導指針”を作ったが、実効がないという指摘も出る。指針は「ピマッキル一帯を開発する場合、最小4メートル幅でピマッキルを残し、道路の上は採光・換気を可能にせよ」という内容を記している。事実上、物理的形態の道だけ残しておけばよいことだ。昨年7月末、ピマッキルに建てられたル・メイエール鐘路タウンの場合、ソウル市の指針を反映し、ピマッキルを歩道の形態で残した。しかし底は大理石で道の両側がガラスで囲まれ、昔の道の趣は消えた。ソウル市の関係者は「ピマッキル保存指針を作ったのが遅すぎた」とし「それに内容がとても包括的かつ法的根拠が貧弱で、拘束力を発揮しにくい」と話した。
清進洞周辺のピマッコルでも続々と再開発事業が予定されている。大韓教保生命ビル東の清進2、3地区は民間開発業者が2区域をまとめ24階程度の建物を建てると1月に区域変更を申請した状態だ。仁寺洞方面の公平(コンピョン)15、16地区もすでに建築審議を通過して事業施行あるいは申請を残すだけだ。指針が出る前に建てられていたYMCA、三星証券、SC第一銀行の建物はピマッキルの上に建てられ、ピマッキルを切断している。
◇ピマッコル、ヘジャンクック路地の元祖=朝鮮時代には下位職官吏たちもピマッキルをよく利用していた。彼らは馬に乗っていて鐘路で高位職官吏に会うと馬から降りて地面にひれ伏せなければならなかったからだ。庶民たちの歩行空間なので庶民を相手にする居酒屋やクッパ(ぞうすい)の店が多かった。ここの料理が人気を集め、ピマッキルの外の現在の清進洞一帯に“ヘジャンクク路地”が広がった。
ピマッコルには現在も懐事情が厳しい庶民がよく訪れる居酒屋がまだまだ残っている。雨が降る日なら路地の奥のビンデトクのにおいが、酒飲みと文人画家を誘っている。
(2008年3月5日、中央日報)

そんなわけで入ってみます。

相変わらず雑然とした感じで、現在進行形で壊されたりはしていなかったのでちょっと安心もしたので須賀、どう考えても朝の10時に来る場所じゃないやねwww

そのあとは店が開いた仁寺洞に寄り、自分と他人の土産用に名刺入れと手鏡を購入。27000ウォンを24000ウォンまでまけてはもらったので須賀、イマイチでしたかね。他の店でも同様以上の値段だったので、仁寺洞自体がこういう値段なんだと悟りました。

ムクホ港へ半島横断

バスで東海市

宿に戻ったのが10時半。オーナーのおばちゃんに勧められコーヒーをいただいてから、この宿とはお別れです。光化門駅から地下鉄を乗り継いで、3号線の高速バスターミナル駅に向かいます。ちなみにこのソウル地下鉄、いちいち切符を買って乗る場合、一旦保証金として500ウォンを上乗せして払わなければならない制度にいつの間にか変わっており、はじめは結構戸惑いました。まぁ降車駅の改札出たところに返金マシーンがあるんですけどね。
江南にある高速バスターミナルは、ソウルと韓国各地を結ぶバスが絶えず発着し、多くの旅人が行き来します。ターミナルは二つあり、私が目指す日本海側の江原道方面は’Central City’なるターミナルだとガイドブックにはあったので須賀、受付で聞いてみると逆の京釜線ターミナルとのことでした。この二つのターミナルは雰囲気も結構対照的で、京釜線ターミナルは古くからあるようなたたずまいであるのに対して、’Central City’の方はかなり清潔感もあり、オシャレな雰囲気です。それはさておき、12時10分発の東海市行き切符(15300ウォン)をうまいこと手に入れた私は、古くからあるようなたたずまいのターミナルにある食堂の冷麺を大急ぎで掻き込んで、バスに乗り込みました。
ちなみにこの東海市というのは、鬱陵島、さらには竹島行きのフェリーが発着する墨湖(ムクホ)港のある都市です。「東海市」という名前は多分に日本海の韓国呼称である「東海」を意識したものと想像せられま須賀、1980年に墨湖邑と北坪邑が合併したときに採用された名称であるということ以外、詳しいことはよくわかりませんでした。
さて、定刻に出発したバスは、一路東に向かいます。ソウルの郊外には高層マンションがドカドカ建っていて、都市インフラはどのように整備しているのかよそ者ながら大いに不安になってきます。1時間ほどすると田んぼや山が見えてきて、こういう風景は日本の田舎と大差なさそうです。
午後3時半に東海の高速バスターミナルに着きます。着いたターミナルもこじんまりで、英語表示もソウルに比べて格段に減ったあたりからも、地方都市に来たということが感じられます。

一人旅における出口戦略論

しかしここでそんな感傷に浸っているわけにもいきません。こうして一人旅で来ている以上、明日、そして鬱陵島から戻る予定の17日以降の出口戦略を練らねばなりません。確かに本当に何もかもを行き当たりばったりで決める旅というのも楽しそうではあるので須賀、基本的に貧乏症が抜けない私は、なるべくミスやロスを減らしたいと。例えば明日の竹島行きフェリーを逃すとか、今日泊まる場所がないとか、17日にぼーっとしていたせいで東海市発が一日遅れるとか、極端なことを言えば、ここまで来たはいいものの、帰国日までにソウルに戻ることができないとか、そういった事態はなるべく避けたい。そのための「出口」をしっかり確保していくことが、現地手配で個人旅行をするときに一番大事なことだと、浅い経験に基づいて私は考えています。
そんなわけで出口戦略のその一は、いつこの東海市を離れるかです。ガイドブックとターミナルの案内板を首をダチョウのように動かして見比べた結果によると、17日夜のムクホ港到着以降、このバスターミナルを発着するバスで慶州ないし釜山に抜けることはできないということが分かりました。市内にはもう一つバスターミナルがあるらしいので須賀、降り立ったターミナルがより長距離ということで、恐らくあちらに行ってもないだろうと、万物に必要な安心を得るためそう考えることにします。
その二は宿です。この東海市について、ガイドブックには非常にあらあらの地図しか載っておらず、またバスターミナルで現地地図を入手できなかったため、安全策を採ることにしました。それは、バスターミナルから近く、最も目立つモーテルに泊まるという判断です。一応30000ウォンと、高からずの値段であることを確認してチェックイン。部屋は結構広々で快適でした。そしてここで、三つめにして最重要のムクホ港です。チェックイン時にフロントのおじさんに尋ねたところ、ここからタクシーで5分ほどとのことだったので、こちらも最低限の目途がついたわけです。
なぜこんな話をくどくど書いたかというと、一度書いておけば他の場所で書かなくて済むと思ったからです。

散歩と称してひたすら歩く

こうして4時過ぎに宿に落ち着いたわけで須賀、ガイドブック曰く、この時間にここを出て楽しめる観光地は近辺にはなさそうです。でもまあ宿にこもっていても仕方がないと、散歩に出ることにしました。この東海市というところは本当に何の変哲もない(ように見える)地方都市で、下校中の学生たちは制服の胸の部分に名前を書いた布を縫いつけられていたりするわけなんで須賀、方角的にはこっちが東かしらんと大通り沿いに歩いて行くと、なんと30分ほどでムクホ港に。これならまっすぐ向かえばタクシーなんか必要ない*3と、大喜びで今度はもう一つのバスターミナルを見に行きます。そちらにもほどなくついたので須賀、午後6時にして子供の遊び場になっている有様で、17日の夜にここから南へ向かうことはできないことも確認できました。

多分これが高速バスターミナル周辺で一番の大通りです。

こうして図らずも全ての「出口」を確認してきてしまったわけなんで須賀、なんだかんだで2時間歩き続けていて、結構お腹もすいてきます。夕飯は上の大通り沿いの食堂で、プルコギご飯を頂きました。これまたおいしく頂いたので須賀、やはり海の近くとあって、練り物やイカコチュジャンをかけたおかずが印象的でした。近くのテーブルでは女子高生(多分)たちが、トッポギと海苔巻をほおばっていました。
夕飯後はネットカフェにお邪魔しました。小心者の私は、海外旅行中にも自分の担当エリアで何か起こっていないか確認してしまいますw 上の書き込みもその時のやつですね〜 あと覚えているのは、ネット中に室内に響き渡った誰かの着メロが中島美嘉*4の「雪の華」だったことです。1時間ちょっといて、コンビニで朝食用のパンと黒豆牛乳を試しに買って宿に戻ります。
まだ8時半にもならんのに、することがありません。読書もそこそこにテレビを眺め、番組によって対象年齢のレーティングがあることを発見してベッドにもぐりこみます。しかし、明日の行程を考えるとそう簡単に寝つけるはずもないのでした…

*1:志村けんのバカ殿様の目覚まし時計です。旅行中もなんだか和んでよかったので須賀、さすがにかさばったw

*2:夫婦喧嘩は米西戦争ですね

*3:これはタクシー代をケチりたいと言っているのではなくて、タクシーの場合、ディスコミュニケーションあるいは運転手の意図によって、思った通りに目的地に着くことができない可能性を危惧して言っています

*4:字は検索して調べましたwww