ハロー、レーニン
「カクテル全くアルコールん」
起床は午前7時ごろ。しばらくすると、各乗客に簡単な朝食セットが配られます。これは3度の寝台列車で初めてのこと。さすがは赤い矢号といったところでしょうか。
8時前にモスクワ着。この旅において、ロシアの鉄道の到着時間の正確さは最後まで抜群でした。
モスクワを飛び立つフライト時間は午後3時15分。このまま空港に直行するのはちょっともったいない気がします。そして、私には一つだけ、モスクワでやり残したことがありました。それは、レーニン廟を訪ねることです。レーニンの遺体が永久保存されているとなれば、モスクワに着いたらすぐにでも訪ねるべき場所とも思えたので須賀、市内観光に充てた29日は月曜日でお休み。そこで、この旅行での最後の訪問地として、満を持してこの場所を選んだのでした。
ガイドブックによるとオープンは午前10時。近くの日本料理屋でその時を待ちます。そんなテンションですので、特段飲み食いをしたかったわけではないので須賀、店のメニューが面白過ぎたので(笑)、
*1
「BANBOO」なるビールを注文することに。
もちろん竹の味ではなくして、ちょっと緑茶を混ぜたのか、そんな感じでした。
他に面白かったのは寿司のネーミングですね。サンクトペテルブルクでも食べたような巻き寿司を揚げたようなものがこちらにもたくさんあったので須賀、具材ごとにということなのか、日本の地名を冠したさまざまなネーミングがなされていました。「富山」「沖縄」「北海道」「大阪」…。見る限りにおいて唯一、具材と名前の関連を理解できたのはウナギを用いた「浜西」でしたが、なぜストレートに「浜松」にしないのかなど、突っ込みどころは尽きません…
大行列に加わって…
そんなことをしているうちに10時が近づいてきました。窓の外にはツアー客でしょうか、集合場所にでもしているのか、列をなすかのようにたむろしています。
大荷物ではレーニン廟に入れないと聞いていたので、荷物はごっそりクレムリン入口で預けてから赤の広場へ。ビールのせいか、ちょっと尿意を催したので百貨店「グム」でトイレを借りて*2、いざ入口へ…。と廟に直進したので須賀、どうにも入口らしいところが見当たりません。えいままよ、と鎖を乗り越えようとする細君。私があわてて追随しようとするや否や、警備員に早速警笛を鳴らされて「あっちへまわれ」と追い払われます。当たり前です(笑) しかし、まわれと言われて行った先でも「もっとあっちだ」と向こうを指さされ、戻ってきたのはさっきの店の前。つまり、ツアー客だろうと思っていた人の群れは、レーニン廟への入場を待つ人の列だったのです。
「横入り*3すんな!」
時刻は10時半。11時には見学を終え、空港に向かう算段だったので、この行列は絶望的です。とりあえず加わったものの案の定なかなか進まず、焦りというより慧めに近い心境で「残念だけど引き返そう」と促したので須賀、「あんたがトイレになんか行くせいだ。その分を含めて11時10分まで待とう」と諌められ、じりじりしながら列に残ることにしました。しかしまあ、そういう状況下だと横入り*4する輩を放っておくなんてのはもってのほかなわけで、列が動くのに合わせてしれーーーっと前に入ろうとする若い男女の中国語話者を、割と思いっ切り怒鳴りつけておきました。糾弾されるのは想定外だったのか「いや、家族がそこにいて…」なんて弁解していましたが、さすがに最後まで私の前に入ることはありませんでしたね。
結局11時10分、まさにその時間に一番外の入場制限をくぐり抜けます。ここで人数調整をしていたようです。本来、引き返すべきタイミングで須賀、どのみち倒れるなら前に倒れてやりましょう。そこからはそう時間をかけず、敷地内に入ることができました。
自分の遺体を晒す「屈辱」
クレムリンと広場を隔てる壁面に葬られる人々の墓を横目に、暗い廟の中へ。そこには青白く、しかし90年近く前に死んだ人の遺体とは思えない、作り物のようにキメ崩れのない彼がいました。しかしその瞬間、私が真っ先に思ったのは「こんな姿を晒されて、かわいそうだな」ということでした。少なくとも死後の世界とか輪廻転生とかイエスの復活とかを信じていない私からすれば、「死んでいる姿」というのはその人にとって最も無防備な姿です。その姿を自分の意思によって変えることはできませんし、しばらくしてその有様について弁明することもできなければ、そもそも「自分がどんな姿で死んでいるのか」を認識することはできません。そんな状況下で、自分の骸を永久に晒し、不特定多数の人間の視線を浴び続けるというのは、自らの権威付けどころか、むしろ屈辱的なことに感じられたからです。
その点、似て非なるというか、対照的ですらあるのが「自分の銅像を(自分の思うように)作らせる」という行為でしょう。もし自分という存在を何らかのイメージ戦略に使いたいなら、もちろん変造されたり、物好きによって一か所にかき集められて、尊敬ではなく嘲笑を受ける可能性はありながらも、自己イメージを操作する可能性が開かれている銅像を作りこそすれ、その可能性が原理的にない遺体の永久保存という手段は採らない気がするのです。もっと突き詰めて言えば、自分の存命中に造れる銅像は自分の認識や意思と一時期なりとも共存し得るけれども、遺体を永久保存するのは自分が遺体になることが前提であって、死後の世界を信じない限り、その意思とは原理的に共存しえない*5わけです。
永久保存は社会主義的?
そう考えると、誰が、何のために遺体を永久保存して展示することを思いついたのでしょうか。現在永久保存自体を目的として*6そうされている政治指導者は、死去順にレーニン、ホーチミン、毛沢東、偉大なる首領様、親愛なる将軍様で、いずれも(旧)社会主義圏のリーダーです。それこそ「オレたち宗教なんか信じないぜ、遺体も物質だ!」という発想が作用しているのかもしれませんが、そういった社会主義のイデオロギーから演繹された結論というより、むしろ「レーニンがそうしたんだからそうしたい」というような、ある種経路依存的な部分もあるのかもしれません。何れにせよ―そういう可能性を指摘するならなおさら―レーニンが死んでから遺体が永久保存されるに至るまでの政治過程がポイント、ということになりましょう。それにしても、生きている人間の細胞が一定期間で入れ替わっていることはよく知られていますし、死んでしまえば腐敗が始まるわけで、その点物質としての人間すら常に変化しているのに、その「流れ」に人間が手を入れ、永久にストップさせてしまおうというのはいかにもスゴイというか、前後で言っていることが矛盾し始めましたが、やっぱり社会主義と神話的な発想なのかなあという気もしなくはありません。
廟を出ると、さらに壁面に葬られた人々の墓が続きます。
*7
ここにはスターリンも。ここに並ぶ中では、最も多くの花が供えられていました。
超バタバタの帰国劇
高速鉄道もお昼休み
さて、11時半です。急ぎましょう。荷物を受け取って地下鉄に乗り込み、高速鉄道「アエロエクスプレス」との接続駅へ。雑談に応じたらついてきて、乗り換えを教えてくれた代わりに金銭を要求してきたちょっと身なりの汚いおじさんにも、申し訳ないが構っている余裕はありませんでした。その駅から空港までは約45分。早めに乗れれば大丈夫かな…と駅舎に駆けこんだところ、なんと次の発車まで約1時間との表示が。通常30分間隔で運行しているので須賀、12時半の便は「昼休み」でないんだとか。タクシーに乗る、という案もありましたが、土曜の昼下がりのモスクワの道路がどのくらい混雑しているか全く分からない以上、それはリスクが高すぎます。となると、高速鉄道で空港に着くのがフライトの1時間半前。これはシビレル展開です。
別に早く乗ったからって発車時刻は変わらないのに、開くと同時に車両に飛び込みます。無駄にジリジリしながら発車を待ち、到着を待ちます。
繰り返される横入り*8
午後1時45分。予定通りに空港駅に到着します。荷物検査をくぐって、航空会社のカウンターで手続きを済ませます。出国審査のため2階に向かうと…
100メートルはあろうかという大行列。ここで、フライトまで1時間を切ってしまいます。これでは到底間に合いません。「前の様子を見てくるから、ちょっと並んでて」と細君。ほどなく、切迫した表情で戻ってきます。「フライトが迫っている人は航空券を見せて先に入れてもらってる!私達も頼んでみよう!」
恐らくそれしかなかったでしょう。私達は列を離れ、係員や前列の人たちに航空券のフライト時間を見せ、先に通してもらいます。審査の次には航空券に出国スタンプを押され*9、万歳スタイルでのボディーチェックを受けさせられます。これらは全て大行列…というよりもはや列にならない人混みによって塞がれていて、結局「時間がない」という泣き落としで横入り*10を繰り返し、なんとか2時半に搭乗口に辿りついたのでした。ってか搭乗時間はとっくに過ぎてたんですけど、時間の設定がやや早い分、時間きっかり*11にはならなかったということでしょうか。その合間に、こっそり最低限のお土産を買うこともできました。
アブダビに向けて飛行機が飛び立ったのは3時半前。最後のドタバタ劇のせいか、「ロシアを離れる感慨」にはどうもうまく頭が行きませんでした。それにしても、何時間前に空港に着けば余裕を持って乗れたんだろう? そんな疑問がよぎったのは覚えています。
飛行機がアブダビ空港の滑走路に滑り込んだのは、午後8時20分ごろ。また1時間半で離陸です。ターミナルに移動するバスがなかなか来ず、来たら来たで結構な距離を走っています。大き過ぎる空港も困りものだなあ、と思っている間もなく、またもや日本行きの便の搭乗時間に。「モスクワはまだしも、ここで乗り遅れても絶対オレたちのせいじゃない!」と凄んでも、飛行機が行ってしまえば詮無いことです。ターミナル内のこれまた結構な距離を走り抜けながら、最後の最後まで強行軍だったこの旅行をちょっぴり、微笑ましく思ったのでした。
<糸冬>
あとがき
バタバタとした旅行のことを、バタバタと書きつけてしまいました。
ロシア国内で6泊したうち、3泊は寝台列車。4都市を巡った国内の移動距離はざっと2500キロという、まさにヨーロッパ・ロシアを強行突破したような旅でした。その旅程を、時には私より力強く引っ張ってくれた細君には敬意を表したいと思います。
ただ、こうやって振り返ってみて思うのは、少なくとも私においては、ロシアに行ってきたというより、旧ソ連に行ってきたという表現の方が近いのではないか、ということです。これまで(旧)社会主義圏の国や都市をいくつか巡ってきましたが、まさにここがかつての「社会主義国家の祖国」であり、「社会主義国家とはどのような国家であるのか」*12を知る上での好例を示している(た)と言えるでしょう。もちろんソ連崩壊から20年の時が流れ、ロシア国内にも「ソ連を知らない大人たち」が登場しつつあるわけで須賀、肌でその雰囲気を感じてくることができたことは、また別の社会主義圏国家を見る上で有益だと思いますし、さらに、そうすることで、私がこの旅で見たある特徴が「ソビエト的」であるのか、あるいは「ロシア的」であるのか*13…などと考えるきっかけにもなっていくんだろうと思います。
…いや、私は別に社会主義マニアでもなければ、そうなる気もありません(笑) ただこうしてロシアにも行って来られましたので、ここいらで一つ原点(?)回帰を図っていきたいという気持ちは持っています。旅行のことだけではなく、横に横にと幅を広げていくことも大事なことで須賀*14、人生のステージということを意識しても、そこから何かを選びとっていくというか、そういう努力も今の自分には必要かなあと感じる今日この頃。
あまり旅行と関係ない独白をしても仕方ありません。物価はやっぱり高かったで須賀、じっくり美術鑑賞も楽しめましたし、ちょっとだけ白夜の雰囲気も感じられましたし、赤の広場前でスターリンと握手できましたし、総じて楽しかったです。それにもまして、こちらが申し訳なくなるくらい世話を焼いてくれた細君の友人の先生はじめ、ペトロザウォーツクの青年や安田美沙子、列車内で面倒を見てくれた乗客の方々など、今回も多くの人にお世話になり、相互作用というとなんだか偉そうで須賀、コミュニケーションを取れたことが一番うれしかったですね。旅行する上での制約といい、どうしても「ロシア恐ろしあ」という印象は持たれがちで須賀、そういうものを雨だれ石を穿つように砕いていくのは、こうした人と人との交流であり、それを少しでも広げていくことなんだと思います。ありがちで陳腐なお説教のように聞こえるかもしれませんが、間違っていないはずです。
もうちょっとまとめめいたことを言ってもよかったかも知れませんが、今回はこの程度にしておきましょう。いろんな場所に連れて行ってくれ、また付いて来てくれた細君と、また性懲りもなく(笑)こんなくだらない雑文を読んでくださった皆様に感謝を申し上げ、おしまいとさせていただきます。
(2013年8月31日*15、自宅の寝室にて)
*2:最上階の端にしか見つけられず(というよりかなり少ないようで)、行って戻ってくるのに10分はかかりました
*3:え?「横入り」って普通に使うじゃん?
*4:え?「横入り」って普通に使うべ?
*5:一時レーニン廟に安置されたスターリンの遺体も、後にクレムリンの壁に埋葬されることになりました
*7:敷地の外から撮影しました、念のため。
*8:え?「横入り」って普通に使うじゃん?
*9:北朝鮮以来です。そう言えば、サンクトペテルブルクでお世話になった細君の友人は、日本人が瀋陽経由で北朝鮮に出入国する際のスタンプの押し方に興味を示していましたが、こっちも航空券に押すんじゃないですかw
*10:え?「横入り」って普通に使うべ?
*11:え?「きっかり」って普通に使うじゃん?
*12:「社会主義とはどんな主義主張であるのか」とは別の命題です
*13:無論、社会主義圏におけるソ連の地位ゆえ、この用語法に則れば「ロシア的」であったものが「ソビエト的」と見なされていく/そうなっていく、という過程を辿ったものも大いにあるでしょう
*14:体型に関してはご免蒙りたい
*15:なんと8月中に書き終わった!