かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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竹島・韓国一人旅八日目 百済古都・扶余

【目次】

 
 

百済古跡巡り

扶余への強行日程

話も終盤に差し掛かってまいりました。実は観光をするのはこの日が実質最後なので、悔いのないように(?)筆を進めてまいります。
先に言っておきますと、この日は午前中に扶余を訪ねたあと、夜6時からソウルで焼き肉会の予定です。この焼き肉会というのは日本でセッティングをお願いしていたもので、ソウルに留学経験のある友人に、現地の知人を紹介してもらって酒でも飲もうという魂胆です。焼き肉を一人でつつくのはなかなかハードですからねww
そんなわけで、この日は5時半起床と気合の入った観光客ぶりを発揮し、7時過ぎには扶余行きバスの出る南部バスターミナルへ。バスは日曜とあって流れの悪い高速を2時間半ほど走り、10時半に扶余のバスターミナルに到着しました。運賃は12800ウォン。帰りはギリギリ、3時発を押さえました。
この扶余というのは行政的には扶余郡扶余邑*1にあって、郡全体を合わせても人口8万人にも満たないのだそうで須賀、百済最後の都がおかれた場所として知られています。そして私のお目当ても、そこにあるわけです。何としても百済の都を見ておきたい。特に定林寺址の石塔を見たい。そんな思いで、半ば強行的な日程を組んだのでした。

「大唐平百済国」


降り立った扶余の街には、日曜だからかあちこちに出店のようなものが出ていました。あ、上の写真にはありませんからねw
早速向かったのは定林寺址。隣に小さな博物館が新設されてはいま須賀、名前の通り寺跡ですので、光景としてはこんな感じです。

じゃあここは何なのかというと、名前の通り寺跡ですので、かつてお寺があった場所です。百済時代には大きなお寺だったそうなので須賀、百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた際に破壊されたとされています。

この石塔の焼き焦げた跡もその時のものと言われていて、見にくくて申し訳ないので須賀、この塔には「大唐平百済国碑銘」なるものが刻まれています。

右側上から「大唐平百」なんですけど、「百」は分かりますか?
要するに「やったぜ!」って書いてあるわけで、もともとこれを見に来たわけなんですけれど、それにしてもショッキングではあります。古代において国が滅ぶとはこういうことだよ、と言われればそうなのかもしれませんけれども。

発掘史と日本

そこから国立扶余博物館へ。寺跡にいた日本人女性2人組に声を掛けられ、どうせ一緒ならと博物館の前までエスコート同行しました。2人は旅仲間のような関係だそうで、この後ベトナムに行くんだとか。私は韓国とベトナムを一回の旅行で消化する自信は全くないので須賀、その辺の感覚はかなり恣意的なものなのかもしれません。私がオランダとポルトガルを何の疑問もなく行き来したほどなのかは分かりませんが、例えば恐らく西洋人にとっては平気なのでしょう。
そもそも人間という存在への関心が薄い私は、博物館の敷地に入ったあたりで2人の前から姿を消し、そそくさと館内に入ります。すると館内にはご高齢の日本人ツアー客たちが。倭国とつながりが深かったとされる百済の古都だけに、日本人の関心も高いのでしょう。ただまぁツアー参加者のおじいさんが、扶余の発掘史みたいな展示の前で「日本人がやったんじゃないか!」と得意げに放言していたのにはピクッと来てしまいましたねww 「墓荒らし同然じゃないか!」という言い方をすると「歴史の所有(者)」みたいなナイーブな話になってしまうのでそれもちょっとパスしたいところで須賀、植民地として入ってきた経緯を知っていてその口振りかよとは言ってやりたかったです。
展示は当然この周辺の出土品が中心になるので須賀、ハイライトはやっぱり「百済銅大香炉」でしょうか。

ちなみにこれは本物をかなりの倍率(たしか11倍)で引き伸ばしたレプリカで、当然本物の香炉ではありませんよwww
あと「新羅渤海南北朝時代」論についてコメントするつもりはありません。

扶蘇山城、そして白村江

見学後は再び市街地を北上し、百済の王宮があったとも言われる扶蘇山城へ。

王宮跡との説のある更地を通り抜け、ハイキングコースのようになっている木陰の道をズンドコ歩いていきます。そろそろ時計を気にしながら、当時の軍倉跡などの横を通り抜け、頂上付近の百花亭に辿り着きます。ここは百済滅亡の折、百済の女官たちがここから川に身を投げたことから名のついた落花岩にあり、千数百年経った今でも現代の百花たちが…(笑)

さらに進むと川が見えてきます。

百花たちが身を投げた川というのがこれで、この地域では白馬江と呼ばれています。さらに言うならこの川が、百済に援来した倭国の軍と、唐・新羅連合軍が戦った白村江の戦いの舞台なのだそうです。千数百年の時が経てば当然かもしれませんが、それにしても静かな川です…と感慨にふけっている時間の余裕がないのが残念なところ。時刻はすでに午後1時半を回っています。出来れば3時の出発前に、夜のための最後のメールチェックと腹ごしらえがしたい。てな訳で帰り道はショートカットしながら早足で坂を下り、なんとか両方の用事を済ませることができました。しかもなぜかネカフェはタダにしてもらってしまいました。バスターミナル前の食堂の冷麺もうまかったです。

ソウルで焼肉会

ちょwwっw渋滞www

バスは3時に出発しました。いつものように居眠りをこいていると、なんだか胸騒ぎがして何度か目が覚めてしまいます。というのも、どうやらこのバス、行きにも増して動きが悪いようなのです。やはりもう1時間早いバスだったか、と思っても後の祭り。ここはもうしばらくの不貞寝を決め込んで、事態の推移を見守るしかない。そう思って寝たり起きたりを繰り返していたので須賀、どうやら高速に乗るための道が混んでいるようで、延々と田舎道で行ったり止まったりを繰り返しています。この分だと6時にバスターミナルに着けるのかどうか。そんな不安までがよぎります。

「ケータイ貸して」

案の定、やっとで乗った高速道路も流れがよくありません。となると、最悪間に合いそうにないことだけでも先方に伝えねばなりません。さて。周りを見渡すと、まず隣に茶髪でぱっつん髪の高校生くらいの女の子。この子はさっきから寝ています。通路を挟んだその隣には、稲穂らしきものを大事そうに一本だけ手に持ったおじさんが、そのまた隣のおじさんと何やら話しています。外見で人を判断するのはよくないことかもしれませんが、この人は無理でしょうwwww
5時を過ぎました。隣の女の子が目を覚まし、携帯電話を一通りいじったのを確認して、逡巡の末こう尋ねてみました。
カナリヤ「ねぇねぇお嬢ちゃん。ケータイ持ってるかい?*2
すると彼女は何をためらう様子もなく、持っていた携帯電話を私に手渡してくれました。こうして私は、無事に先方と連絡を取ることが出来たのでした。まぁ申し訳ないことに変わりはないので須賀w
ちなみに言っておくと、韓国ではこうした高速バスの中でも「携帯電話を使ってはいけない」というような規範は存在しないようです。これは身をもって確かめたというよりは、ここまでの旅程で数多くの先人が証明してくれました。
通話を終えて彼女に携帯電話を返す時に、何かお礼が出来ないかと思ってカバンの中をあさったので須賀、そんな急に人にあげられるようなものなんてないですねw こういう旅行のスタイルを続ける以上、次どこかに行く時はちょっとした日本のお土産を携行しているといいかもしれません。
そしてこの話にはオチがあって、彼女は私から携帯電話を受け取った直後から、必死にティッシュで通話画面を拭きはじめたのでしたwww

新林でお肉&スイーツ

バスは6時前にターミナルについて、結局20分の遅刻*3。新林というソウル大近くの繁華街*4で焼肉をつつきました。彼らがこっちで知り合った友人という人たちも一緒だったんで須賀、彼女らの日本語>>私の韓国語だったので甘えてしまいましたね。話題的には、竹島問題よりはソウルにおける茶髪の女子高生の割合について話していたような気がします。
しかしすごいなと思ったのは、今日は私がお願いした会だし(遅刻もしたので)、とりあえず気にせず酒を飲みたかったので皆さんにごちそうするつもりだったので須賀、気付いたら誰が最年長かがしっかり判明していて、気付いたらその年長者がしっかり全額払っていたということです。なかなかちょっと待てとは言えません。
その後みんなでスイーツを食べて宿に戻ります。このスイーツ屋さんの窓際席にはブランコのカップルシートがあって、誰かが座るたびにみんなで寒月君並みににやにやしていました。
宿に戻ったのは午後10時ごろ。ちょっとテレビを見て就寝しました。

*1:町に相当

*2:脚色200%

*3:ご迷惑をおかけしました

*4:ソウル大に留学している人たちが中心だったもので