かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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トルコ・キプロス新婚旅行二日目・イスタンブール旧市街

イスタンブール街歩き―歴史編

あれ?メトロの駅は??

この日は7時前に起き、身支度をします。窓の外にはまだ少し眠そうなイスタンブールの街並みとマルマラ海が。外気も割とひんやりしています。

バイキング形式の朝食を摂って9時前に出発。細君は「CALL SHOP」なる店で日本の実家に国際電話をかけていました。何でも2回かけて料金として請求されたのが1TLだったとか。ホントに確認した値段なんでしょうか?

この日は、昼間イスタンブールを観光し、夜行バスでエフェソスに近いセルチュクを目指す目論見です。しかしもちろん予約があるわけではありませんので、まずはチケットの確保に動きます。

街中を歩いてアクサライのメトロ駅へ。

おっ、あったあった…って、あれ?改札ないよ??

あ、こっちなんですね。紛らわしすぎでしょww 30分ほど歩きましたorz

バスチケットを確保

そして大バスターミナルのエセンレルオトガルへ。

この建物の中に、たくさんのバス会社のカウンターが並んでいます。私達も、全国展開するバス会社「メトロ」で午後9時半発セルチュク行きのチケットを押さえることができました(60TL)。

仮面としてのサル真似?

そして再び中心部へ。乗り換えたトラムの車窓からは、1453年のビザンツ帝国オスマントルコの攻防戦で威力を発揮したというテオドシウスの城壁も見られます。「これがそうなんじゃないの?」なんて話しながら車内外を見渡してみると、これまた5歳ぐらいの男の子と目が合います。何が楽しいのか、こちらを見てにこにこしているので、ちょっと頬を膨らませたりすぼませたりして笑わせにかかります。するとこれがなかなかのウケ具合。そのうち目を逸らせて合わせるたびに別の顔をすることを要求されるようになり、あのネタこのネタと繰り出していきます。そうなると彼の反応も様々で、下唇を押しだす「たらこくちびる」なんかは「何それ?」というようなリアクションだったので須賀、やはり鉄板ネタはあれでした。サルです(笑) これをやると彼は毎回大笑いで、しまいには母親の隣の席を飛び出して通路に仁王立ちし、何かの単語*1を叫びながら勢い良く胸を叩き始めます。これには母親も周りの人も笑いを禁じ得ないといった風で、私もそれ以降、他のネタを繰りだすことは事実上できなくなりました。
親子はスルタンアフメット駅で下車。私達もそこで降りたので須賀、降りる前に男の子が(母親に言われて)「バイバイ」と手を振ってくれたので、「また会いましたね」というのもなんだか具合が良くなくてその場でお別れしました。
この話を、ちょっと心温まる面白エピソードとして扱うのも、それはそれでいいと思います。むしろ私も、初めはそのつもりだったので須賀、こうして振り返ってみると、自分の取った行動はある種の仮面をかぶることだったのかな、という気がしてきます。一番初め、彼が私の顔を見て笑っていたのは、私が変顔をしたからではありません。それは外国人の異質な風貌や挙動への笑いだったかもしれませんし、あるいは遠来した客への親しみの表現だったのかもしれません。それは分かりません。ただ、その笑顔を見た私が「笑わせるための表情」になったのは、昨日のトラムで(恐らく)そうであったように、自分ではよく分からない自分の何かが異質であるとして笑われ続けるのが嫌だったからでもあったのかもしれません。真顔で笑われる理由は分からないが、変顔で笑われる理由は相当程度分かる。なら、そっちの方が安心だ―奇しくもこれは、自分自身の行動原理を説明する、かなり妥当性の高い仮説であるようにも思えてきます。ここでそんなことを言ってしまうと仮面の意味がないとも言えるで生姜、形に残すことで自分がそのことをはっきり認知することの方が有益だろうと思い、消さずに残しておく次第です。

会話を楽しむ「難しさ」

さてさて、こうしてスルタンアフメット駅に降り立ったのが11時ごろ。広場の方へと歩こうとすると、若い男性が話しかけてきます。日本から新婚旅行で来た、なんて言うと祝意を示してくれ、親戚が日本にいることなどを話し始めます。「へえ」なんて言って何の気はなく聞いていると、「近くにお店がある、ちょっと来ないか」と誘い水を向け始めます。なるほど、そういうご用件だったんですね。先を急ぐからと謝絶させていただきました。
先回りして言うと、このエリアにはそういう客引きをしようとする人が結構たくさんいます。大抵英語で須賀、日本語で話しかけてくるパターンもありました。まあ話は話としてコミュニケーションを楽しんで、きな臭い誘いは断ればいいだけの話なので須賀、本当に外国人(日本人)と話がしたくて話しかけてくるような人もいるので、そうは言っても行うは難しという側面も否めません。実際にこの日、日本語で話しかけてきたある男の人が、
今度は何を売りつけようとしているのかと警戒心ありありな細君に向って「トルコ人と話すとき、そんなに警戒しない方がいいですよ。ただ話をしたいだけなのに、あなたがそういう態度だと、日本人はそういう人たちだと思われますよ」とたしなめていました。その辺の差配は難しいにしても、ちょっとまあ、顔に出過ぎだよね(笑)
ついでにもう一つ言うなら、この界隈では水売りの少年やおじさんもよく見かけました。暑い中で冷たい水を売ろう、というのは商売上は極めて自然な発想で驚くに値しませんが、この日はラマダンの真っ最中です。まあ確かに旅行者は断食しなくてもいいとされているわけで須賀、この辺もいい感じで緩いというか、世俗的な印象を受けました。

重厚かつ繊細なブルーモスク

そんな中向かったブルーモスク。

「スルタンアフメット・ジャーミィ」というのがその正式名称だそうで、17世紀初頭のスルタン、アフメット1世の命で建てられたものです。6本の尖塔(ミナーレ)が特徴の巨大モスクで、「世界で最も美しいモスク」とも評されているとか。外観はイメージよりもシックというか重厚な雰囲気でしたが、
*2
内部はそれを基調にしながらも、装飾に繊細な美しさが感じられます。

ステンドグラスもきれいですね。
まさにイスタンブールのシンボル的な観光名所ですので、各地から多くの観光客が訪れています。とはいえここは現役のモスク。イスラームの教えによって、女性の髪などは備え付けの青い布で覆わねばなりません。そして内部にはこんな掲示も。

私が見る限りでは、見向く人もあまりないといった状況でしたが、あくまでもここは信仰の場なんだ!というモスク自身の叫びが聞こえてくるような気がしました。

ヌシはメデューサ?それとも魚?

お次は地下宮殿です。ただ、ここは宮殿というより古代の貯水池で、ローマ〜ビザンツ期に造られ、長く使われてきたものだそうです。


内部は若干、というかかなり湿っぽくて、暗くてジメジメした場所はお前にぴったりだと細君にいびられます。

お魚さんもいますね。彼らが外から泳いで(流れて)来たのか、あるいはここで代を継いできている「地下宮殿のヌシ」なのかはよく分かりませんでしたが、こちらの方は相当昔からいらっしゃったようで、1984年に深さ約2メートルの泥の中から姿を現したそうです。

ちなみに地下宮殿内にはカフェもあります。さすがにこれはローマ時代のものではないと思料されま須賀、なぜここに造ろうと思ったのかは分かりません。

昼食はキョフテ

地下宮殿見学後は昼食へ。細君の意向で、キョフテ*3の専門店にお邪魔しました。

細君は満足げでしたが、店の近くで会った男の人の「あそこのキョフテは、人気が出てからは手抜きをして作っている。焼いておいたのをレンジで温めるから、頼んだら1分で出てくるよ。個人的には薦めないなあ」という言葉が妙に頭に残っていた私は、本当に1分と待たずに出てきたミートボールを心から楽しむことはできませんでした。。。まあ、肉を焼いている様子は店内でも見られたんですけどね。2人で34TLでした。

アヤソフィア1800年

時刻は午後1時半。暑い盛りで須賀、観光を続けましょう。


この建物の現在の呼び名は、アヤソフィア博物館。その名の通り、現在は博物館になっているので須賀、その歴史はまさに、この街の代表的建造物とされるにふさわしいものです。ちょっと歴史の話をしますね。
アヤソフィアのもととなる教会の建築がはじまったのは、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世の時代。当時ビザンティウムと呼ばれたこの街に遷都した人物です。ビザンツ時代にはユスティニアヌスの命で大規模な修復が行われ、いわゆる東西教会の相互破門の舞台ともなるなど、東方教会の総本山としての地位を守ってきました。1453年5月29日、ビザンティウム改めコンスタンティノープルが陥落すると、メフメト2世はその日のうちにここを訪れ、モスクへの転用を宣言。オスマン朝のスルタンが毎週礼拝に訪れる、格式高いモスクとして遇された一方、教会時代のモザイク画は漆喰で塗り消されてしまいました。そして20世紀、それらのモザイク画がアメリカの調査隊に「発見」され注目される中、トルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクが世俗化し、博物館となっていまに至るということです。
能書きはこれくらいにして、中に入りましょう。

ビザンツ時代は皇帝しか出入りできなかったという入口を、多くの観光客に紛れてくぐると、こんな光景が。

おお、なんかすげえ! もちろんそれも偽らざる私の感想であったわけで須賀、ただのビザンツ教会でもモスクでもない、「アヤソフィアらしさ」を感じさせる個所など「すげえ」ポイントを、私の脳みそに入った範囲でご紹介しましょう。

ジャイアンツショップに六甲おろし


内部の随所に飾られているこの額には、ムハンマドやカリフなどの名が記されています。19世紀半ばの補修で取りつけられたのだそうです。ちなみにこれは第4代カリフ、アリー。こうしたカリフの名前が飾られているのは違和感なく受け止められるので須賀、中にはシーア派イマームのものもあるそうで、スンニ派を擁したとされるオスマン朝の首都にある重要なモスクで、なぜ彼らの名前が掲げられたのか、誰かご存じの方がいらっしゃれば教えてください。そして、すごくがっかりすることを言うと、裏側はこうなっています。

顔のない天使

さらに視線を上にやると、こんな絵が描かれています。

色合い的にあまり納得がいきませんが、左右に描かれているのは天使、それも天使として最上級ともされる「セラフィム」なのだそうです。そして、これは気付かれた方も多いと思いま須賀、左側の天使の顔が潰れていますね。これは恐らく、偶像崇拝を忌避するイスラームの教義の影響でしょう。というよりむしろ、近年の修復作業でこの顔が出てきて話題を集めた、なんて話も聞きますので、右側はその修復を経たものなのかもしれません。

マリアとメッカ

キリスト教イスラームの交差。そうした観点で見るならば、これに勝るものはないでしょう。

中央下にあるのは、メッカの方向を示すミフラーブ。その右側にある説教壇は、イスラームのものです。そして中央上を見てください。言うまでもなく、これはキリスト教の聖母子像です。まさに同じ場所にキリスト教イスラームの最重要というべき要素が刻まれていることに、軽く身震いがしました。

2階のモザイク画たち

ここいらで2階に上がってみましょう。

2階では、キリストやマリアがビザンツ皇帝らと並んで描かれているモザイク画を複数見ることができました。それらでは往々にして、皇帝らがお金だなんだを寄進する様子が描かれていたのが印象的でした。

ちなみにこれもその中の1枚なんで須賀、最も左上の文字部分に削られた形跡があるのにお気づきでしょうか。これは11世紀の「キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ」として残っている作品なので須賀、もともとは「キリストと皇帝ロマノス3世、皇后ゾエ」とでも呼ばれるべきものであったらしく、ゾエの2度の再婚に際し、顔と名前が書き直されたとされています。自分も顔を削り取られないように気をつけたいです。ちなみに言うと、理由には諸説あるそうなので須賀、ゾエ自身の顔にも修正が施されているそうです。

アヤソフィアで出会った人たち

キリスト教教会からイスラームのモスク、そして世俗化された博物館。まさにこの街の歴史の証人のようなアヤソフィア。日本語の音声ガイドも借りて回ったこともあり、2時間ほど見学させてもらいましたが、その間にも英語や日本語で話しかけてくる人は多くいました。訪れてすぐに出会ったあるおじさんとは、見学中何度も顔を合わせました。彼は、私たち2人が並んだ写真を何枚も撮ってくれ、会う度毎に館内の見どころや「お菓子を買うならバザールよりも直営店の方が安いからそっちに行きな」なんてことを教えてくれます。そして、これからあちこち回ってキプロスにも渡る予定だと話すと、「自分はキプロスで兵役に就いていたことがある。海がいいよ」。この時は、そういう経験がある人に会えたことにある種の感慨を覚えすらしたので須賀、その後の旅の中では、「自分は兵役でキプロスに行っていた」「自分はトルコの○○から兵役で(キプロスに)来ている」と話す人に少なからず会うことになります。このおじさんとは本当に何度も出くわしたので須賀、親戚という若い男性と、その奥さんという日本人女性を伴っていたこともありました。横浜に住んでいるという彼は、全く以って流暢な日本語で「カッパドキアに行くつもりならトルコ航空のカウンターなりで予約しといたほうがいいよ」とアドバイスしてくれましたが、旅の最終盤に訪れる予定*4の場所に関して予約をしてしまうのはなかなかリスキーなことです。その意味では、逆回りで人気観光地から先に行かなかったのはやや反省すべき点かもしれません。
さて、そろそろアヤソフィアを出ましょうw

イスタンブール街歩き―(ウィンドウ)ショッピング編

ここで会ったが百年目?

スルタンアフメット地区を半日も歩けば、イスタンブールの有名なバザールの評判はあれこれと聞こえてきます。あれを買うならあそこ、そこはいいけどあっちは高い…。もちろん、それらは私達にとって有益な情報と思われるわけで、何も知らずに高値で買ってしまうというのも避けうるならば避けたいので須賀、逆にそれだけ毀誉褒貶のあるバザールなら、ちょっと行ってからかってくる価値はありそうです。観光地としてバザールを楽しんで来よう。そんなわけで、まずはブルーモスク横のアラスタバザールに足を向けます…と、目の前には駅を降りてすぐに話しかけてきた男性が。彼はすかさず「また会ったね!是非うちの店に!さあ、こっちだよ?」と声をかけてきま須賀、彼に真にその気があってもなくても、辞書の例文に出てきそうなくらい典型的な「ここで会ったが百年目」的シチュエーションに恐れをなした私達は、頑なに拒絶してその場を歩き去るのでした。

アラスタバザール

本題のアラスタバザールはかなり整然とした一本道の商店街で、いわゆる中東のバザール!みたいな雰囲気を味わうには物足りないかもしれませんが、ウィンドウショッピングを楽しむには快適な空間です。

私が一番興味を持ったのはいくつかの店に置かれていた(またもや)チェス盤で、「オスマントルコVSロシア」「オスマンVS十字軍」「オスマンVSビザンツ」「エジプトVSローマ」など、さまざまなバージョンが並んでいます。もし前日のモスクワで買っていなければ、どれか一つを買ってしまっていたことでしょう。やはりオスマンVS十字軍あたりが乙な感じで須賀、そもそもそんな顔合わせあったっけ…? ちなみにここでは、ピンク基調のテーブルクロスを2枚買いました。

グランドバザールへ

そこからトラムでグランドバザールに転戦。こここそ最も毀誉褒貶が激しい、というか「高い」と悪名高かったわけで須賀、まさに見物のために入ってみましょう。

「ベヤズット門」より中へ。どの門から入ったかを把握しておかないと、後で若干大変な目に遭います*5。中はこんな感じです。

いろんな人がいろんなものを売りつけようと、あれこれにかこつけて話しかけてきます。ただ、旅の序盤からそう荷物を増やす気はない私は、よっぽどのもの(かつ値段)でないと買うつもりはありませんでしたので、目の前にいる彼らの熱心な誘い文句に「ちなみにこれはおいくら?」なんて一応の応対はしながらも、さながら窓の外で声を枯らすリンゴ売りを眺めているかのような引きっぷりだったように思います。ただ、「見つけたら買ってきて」なんて頼まれてきたものもあるので、値段を聞いて事も無げに立ち去ると「じゃあいくらなら買うんだ!」と折れてくるパターンを把握した私は、そうしたものの一つだったハードロックカフェのTシャツ*6がある店で、この「手口」を「悪用」し、25TLを15TLで購入したりはしました。まあ言うほど値切ってもないんでしょうけどね。

なんで「なんで、ししゃも?」

まあ、このように外国人(日本人)と見るや話しかけてくる人がやたらと多いこのバザール。英語はもちろん、片言の日本語も多く飛び交っています。それらの多くは自分が売っている製品の日本語だったり「こんにちは」とか「安いよ」とかだったりするわけで須賀、たまに驚くべき言葉を発する人がいるというのです。これは細君に向けて発せられたもので、私が直接聞いたわけではないので須賀、彼女が何のことはなく通路を歩いていると、突如として日本語でこう声を掛けられたというのです。
男性「なんで、ししゃも?」
細君「( ゚Д゚)ハァ?」

その言葉をそのままお返ししたいものです。しかもさらに悪いことに、「日本人がグランドバザールで「ししゃも」と声を掛けられた」という被害(?)は、どうやらそう珍しいものではなさそうなのです。嘘だと思うなら「トルコ ししゃも」とでも検索していただければと思うので須賀、あの(?)Yahoo!知恵袋でもこんなやり取りがなされています。リンク先とは重複しま須賀、「小柄な人がそう呼ばれる」なんて説まで唱えられているのです。そうだとすると、我が細君はその男性に「なぜあなたはそうも小柄なのか?」と質問された、ということなのでしょうか。
それにしても、少なくとも複数の日本人に「ししゃも」と言って回っているのが同一の男性あるいは何らかの結社的なもののメンバーでないとするならば*7、このバザール界隈に出入りする人間に通用するある種の業界用語*8であるのか、あるいは教育やマスメディア、著名な口承などによる全国的な拡散・継承の効果であるのかなど、考えられる可能性はいくつかありま須賀、遭遇情報がこのグランドバザールに集中しているようだということを勘案すると、何らかの経緯で業界用語的に広まっていったのではないか、という可能性は検討に値するでしょう。てかその「何らかの経緯」が何だったのかが一番気になるわけで須賀www

「ししゃもショック」に打ちひしがれた私達は、15世紀半ばにメフメト2世が建設したというオールドバザール*9の見物もそこそこにバザールを脱出、隣接する古本市に向かいます。

古本市


本を中心に、雑貨なんかも置かれています。トルコ料理の本や、日本語とトルコ語のポケット辞書などもあって、それらは細君が購入していきましたが、なんとヒトラー『わが闘争』トルコ語版と思しき本が、転倒に堂々と鎮座していたのは衝撃的でした。あと、キーホルダー大のコーランなんてものもあって、お土産に三つ12TLで購入しました。

こちらは出がけに通った「天幕屋通り」。布製品を売る店が多かったです。

ロカンタで夕食

時刻は午後6時。そろそろ今日の見物は切り上げましょう。荷物を預けてある宿のアクサライまではトラムで2駅の距離。ふらふらと店などを物色しながら西に向かいます。アヤソフィアで会ったおじさんが教えてくれた菓子の直営店「Koska」は、確かに悪くないお値段で、買い物もしやすい雰囲気。道端でピンクの時計を売っていたので、適当に値切って15TLで買いました。言い方は悪いで須賀、私の左腕で2週間、時を刻んでいてくれればいいのです。途中、バナナならぬカバンのたたき売りのような風景にも出くわしました。

宿近くに戻ってきたのは7時前。昨晩もにぎわいを見せていた近くのロカンタ(大衆食堂)で夕食をいただきます。

屋外の席で注文したのは、レモンの添えられたスープとナストマト煮、鶏肉の野菜煮などとでも呼ぶべき料理。ちなみにトルコではパンは無料で、これがまた他の料理にも合っておいしい!日本では、誇張でなく95%以上米食で通す私がパンを褒める日が来るとは想像していませんでした。これで34.5TL。ごちそうさまでした。

イスタンブールとしばしの別れ

食後は宿に戻り、預けていた荷物をピックアップしてしばし涼んで出発。夕暮れの中、メトロの駅を目指します。

その道中にも服や時計を売る人がいて、あるポロシャツの前で足を止めます。デザインが気に入ったので、おどけまじりにサイズを合わせる真似事をしながら「これいくら?」と聞くと、「お前には大きいべ?ふざけろよ!」という仕草。売らんかなならホイホイおだてて売りつければいいとも思うんで須賀、どこの国にも真っ当なというか、堅気の商売人というのはいるものです。
朝来たオトガルに戻ってきたのは、午後8時45分ごろ。細君の提案で、次のチケットを求めます。8月16日午前9時半、つまり2日後にこれから向かうセルチュクからパムッカレに近いデニズリに向かうバスの切符を、1人頭22TLで押さえることができました。これによって(そのチケットを行使する限り)自動的に、セルチュクでの滞在は1日間となります。
それでもってバスに搭乗。バスの最終目的地がセルチュクではないことを知り、細君が「セルチュクには何時に着くんだ!(=セルチュクに着いたかどうかどうやって判断すればいいんだ!)」としきりに訴えたため、このバスの乗務員はこのうるさい日本人2人組のため、セルチュクに着いたら個別に知らせるという任務をも帯びることになりました。
バスは午後9時半を少し過ぎて発車。最初はガラガラでしたが、近場と思われるいくつかの停車場所に停まるたびに人が増えていきました。車内では蝶ネクタイを締めて服装を整えた乗務員さんが、飲み物やお菓子などを差し入れてくれます。この辺はイランを思い出しますね。それにしても、そもそも夜遅い時間の運行なわけで、寝ている人はどう処遇するんだろうと思ったのもつかの間、自分の隣に座っている人も、アイマスクをして寝入ってしまったのでした。
イスタンブールとは、これでしばしお別れです。順調にいけば、約1週間後に再びこの街に入る予定ではあるので須賀、2人はその時どんな表情でその土を踏むのでしょうか。旅はまだまだ始まったばかりです。

*1:恐らく「サル!」か「ゴリラ!」

*2:中庭

*3:ミートボール

*4:ここが初出なので説明すると、イスタンブールからトルコの西半分を反時計回りに回ってくるイメージを目論んでいました

*5:実際に苦労しました

*6:ハードロックカフェ イスタンブール」と書かれていましたが、それが真正品であるのか、さらにはイスタンブールハードロックカフェがあるのか、私は把握していません…というのも無責任なので公式サイトで調べてみたら、少なくとも今は検索しても引っかからないですね

*7:そう仮定する明確な根拠があるわけではありませんが

*8:例えば新聞記者で言うところの「抜き抜かれ」「暇ネタ」「夏枯れ」「サツ回り」など

*9:ちょっと通路が細くなり、貴金属を扱う店が集まっています