かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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釜山ショートトリップ三日目・慰安婦像と通信使

交流と相克の現場を訪ねる

そして最終日。もう日本に帰るので須賀、午後便なので午前中は有効に使いましょう。
この日は朝食を摂りにチャガルチ市場へ。

3階に「市場メシ」が食べられる食堂があると聞き、チェックアウト前に向かいます。分かりやすい場所にはないとは知っていたものの、そもそも市場内の別棟で探し回ったりしてしまったので結構時間がかかりました。

こちらがお目当ての食堂。真ん中の一番大きな建物にあります。1人6000ウォンで、カタカナ語を使えばバイキング形式。エゴマの葉など、キムチの種類が豊富だったのが印象的でしたが、さすがに魚市場内にあるだけあって煮魚のチゲがおいしかったですね。ただ、魚介のメニューは他には見当たりませんでした。
たらふく食ったところで宿に戻り、支度をしてチェックアウト。ここからは徐々に、空港の方へ向かいましょう。
まず見に行ったのは、これです。

説明するまでもないかもしれませんが、少し前に話題になった、在釜山日本総領事館近くに設置された「少女像」というやつ*1です。以前ソウルでもお会いしてきましたので、個人的には2人目になります。ちなみにこの場所は、釜山中心部を南北に貫く幹線道路の歩道で、地下鉄草梁駅の出口のすぐ近くです。

ご覧のように、日本総領事館の敷地に隣接しており、それを見据える位置にありま須賀、いわゆる建物の正面にあるわけではないようです。詳しくはhttp://www.atosaki.com/entry/2017/01/30/071010などをご参照ください。先ほど「領事館前」と言わなかったのはそのためではありま須賀、じゃあ裏手にあるからといってウィーン条約が言うところの在外公館の威厳の侵害に当たらないと主張できるかどうかは別の問題だと思います。
さてこの少女像、ソウルの例*2からしてもまた独特な空気に包まれているんだろうなと思っていたら、格段そうでもありませんでした。本当に「一応います」という感じで、遠巻きに警官が(確か)2人いるくらいです。iPhoneでカシャカシャ写真を撮っていても、咎め立ててくるわけでもありませんでした。まあこちらも早々に退散するようにはしましたが、率直に言って拍子抜けした感は否めませんでした。そういえばなんですけど、私は初日のタクシーでもこの道を通っていました。地下鉄駅の出口を通り過ぎた際に「あ、もしかしたらこの辺にあったのかな」と思ったくらいだったので、言ってしまえば街中でそのくらい存在感の薄いモニュメントなのかもしれません。穿った見方をすれば、今はソウルで見た時と違って、慰安婦問題で日本に比較的強硬な文在寅政権ですので、政府なりに強制撤去される可能性は低い、ゆえにわざわざ座り込みをして守らなくてもいい、という雰囲気があるのかもしれませんですね。
さて、ここからはタクシーを利用して、最後の目的地「朝鮮通信使歴史館」に向かいます。これは読んで字の如く、江戸時代に朝鮮王朝から日本側に派遣された朝鮮通信使について解説する施設です。

こじんまりしてはいるので須賀、漢陽(現在のソウル)からここ釜山を経て、江戸に至るまでの道のりとその苦難をジオラマや映像で紹介しています。

これがその船の模型です。

正使の服装だとか。

これらは、日本各地に伝わる朝鮮通信使を模したとされる人形だそうです。江戸時代の日本人たちにとって、将軍の代替わりに合わせて隣国からやってくる行列は格好のオリエンタリズムの対象であったことは想像に難くありませんが、その発露がこうした形で残されているわけです。特に興味深かったのは、東北や信州北部など、朝鮮通信使のルートではない地域にもこうした人形があるという点。朝鮮通信使という存在のインパクトの強さが窺い知れます。
30分ちょっと見学して、再びタクシーに乗り込みます。行き先は金海空港。ものの30分で着いてしまい、空港でゆっくり昼食を食べ、日本へと飛び立つことができました。
<糸冬>

あとがき

2泊3日の家族旅行にあとがきもへったくれもない気がしま須賀、一つだけ。釜山に遊びに来て感じたのは、やはり日本との近さを感じられる街だなということです。そういう場所を選択的に回ってきたというのは事実で生姜、私がこの短い旅行で見てきた中だけでも、秀吉の大軍がこの街で戦い、その後の朝鮮通信使はこの街から江戸に向かい、その間数百人の日本人がこの街で商売などに従事し、植民地時代には日本風の目抜き通りをこの街に整備し、そして今でも、天気が良ければこの街から日本の島が見えるわけです。
ちょっと紹介したヒット曲「釜山港へ帰れ」は、日本語では男女の仲を歌っていま須賀、韓国語では「釜山港から行ってしまって帰ってこない兄弟」へ向けた詞になっています。その兄弟はどこへ行ったのか。歌詞の中で明言されてはいませんが、彼の行き先は日本であると広く理解されているようです。関釜フェリーの例を出すまでもなく、歴史的に*3釜山にとって身近な外国は日本であり、特に北部九州や対馬にとっては、当然逆も然りだったということは言ってよいのだと思います。特に対馬からは、釜山の夜景が見えたりするそうですね。
冒頭で少し触れましたが、私の釜山への関心もそこにありました。例の「少女像」をこの文脈のどこに位置付ければいいのかは悩みま須賀、「日本から最も近い外国」たるこの釜山に、今度は対馬から渡ってみたいです。
 
最後までご覧いただいた奇特な方がいらっしゃったなら、本当に感謝申し上げます。ヤマなしオチなしでお恥ずかしいで須賀、今回はこれにて。
(2018年3月27日午前11時半、自宅書斎にて)

*1:像の左下の地面には「平和碑」と刻まれています

*2:像の隣に「守備隊」の学生らのものと思しきテントがありました

*3:現在の釜山は国際的な海運の拠点だそうなので、この断りはあった方がよいでしょう