エフェソス遺跡探索
セルチュクへ
午前3時ごろ、バスが停車してふと目が覚めます。停まったのはサービスエリアのようなところ。用を足しに外に出たので須賀、結構肌寒かったのに驚きました。
空が白んで来たのは午前6時ごろ。大きなターミナルに停まって、さらに南下します。車内サービスも再開です。車内にはお湯のポットもあって、粉末タイプのスープも楽しめます。これがまたなかなかおいしかったので須賀、手渡されると同時にセルチュクのオトガルに到着。隅っこで啜る羽目になりましたw
この日は、セルチュク近郊のエフェソス(エフェス)にある遺跡見学が予定。と言っても大荷物で見学するわけにもいきませんし、今晩の宿を求めます。チェックインしたのは、民芸品に彩られた民宿風の宿。部屋自体は夕方からとのことでしたが、荷物は預かってくれるとのことでお願いすることにしました。朝食もふるまわれ、
さまざまな果物を堪能。特にメロンが非常に美味でした。
まずは聖ヨハネ教会
一休みして態勢を整え、9時半過ぎに出発。まずは宿近くにある聖ヨハネ教会を訪ねます。
ここはエルサレムを追われたヨハネが晩年を過ごした場所なんだそうで、私達が行った時も調査をしている人がいました。
…すみません。正直言ってピンときませんでした。
エフェソス遺跡へ…
エフェソス行きのバス停には10時半ごろ到着。東洋人ばかりを乗せて発車します。遺跡までは15分ほど。著名な観光地とあってか、入口には結構な数の観光バスが停まっています。先取りになりま須賀、観光客は欧米系が多かったです。
土産物屋もたくさんあり、我々を日本人と見るや「はい、どうぞ」「さらばじゃ」といった日本語が浴びせられます。恐らくこの「さらばじゃ」というのは何らかのメディアコンテンツの影響でしょう。
エフェソス遺跡の起源は紀元前6000年ごろまで遡り、かつては港町として繁栄したそうです。紀元前2世紀ごろにはローマの支配下に入り、第2回三頭政治のアントニウスがクレオパトラと過ごした地としても知られています。キリスト教の教義に関するエフェソス公会議でも有名ですね。ここでは、かつての街の様々な構造物を見ることができるので須賀、特徴的なものを中心にハイライトでご紹介します。
決闘ショーと大劇場
いきなりご登場いただいてしまいましたが、女性の踊りや剣士の決闘といったショーの再現が行われていました。
入口近くにはトルコ語と英語、そして韓国語で書かれた案内板が。「第3の言語」が韓国語である理由は、右下を見れば大体察しが付くとは思いま須賀、この形式の案内板を遺跡内のほかの場所で見つけることはできませんでした。
ご存じ大劇場。約24000人が入ったそうです。段差が結構急だったので、下から見るとせせり立つような圧迫感があるのではと思って降りてみたので須賀、さほどでもありませんでした。
大劇場と港を結んでいたというアルカディアン通り。今は海を見ることはできません。
「泉」と泉
図書館です。直感的には、別に図書館をこんな派手に作らなくてもいいような気もしま須賀、逆に言うと、図書館やそこにある書物、さらには知というものへの住民たちの敬意の表れ、と見てもいいのではないでしょうか。
ここが何であるか、ご説明申し上げた方がよろしいでしょうか?
トラヤヌスの泉。ローマ皇帝トラヤヌスに捧げられたもので、当時はトラヤヌス像の足元から水が流れていたそうです。しかしこの順番で写真を紹介すると、次はこれをうpせざるを得ない気がしてきますwww
馬車が走れないようせまく作られたヘラクレスの門。
最後にしましょう。これが市役所です。
ローマ時代に脳内変換
…とまあ、うだるような暑さの中、2時間以上かけて遺跡巡りをしたわけで須賀、危うく一番大事なことをし忘れるところでした。それは、ここが「遺跡」ではなく「街」だった頃の様子を脳内で復元してみることです…
もちろん想像するのは各人の脳の働きによるものですから、それがうまく像を結ばなくてもあなたの想像力が貧困なわけでも、私の写真の腕が悪いわけでもありませんwww
エフェスでエフェスビール
昼食は入口近くのカフェで。
*1
(ラマダン中なのにあろうことか)真っ昼間からビールで乾杯させていただきました。ちなみにここで飲んだのは「エフェスビール」という銘柄で、「エフェス(エフェソス)」の名を冠しているだけに地ビールの類かと思ったらさにあらず。全国各地で看板を見られる全国区のビールでした。飲み口も爽やかでおいしかったです。一杯ずつと食事で46TLというのは観光地過ぎると思いま須賀。
現代文明を「発掘」したら…?
むしろこうやって振り返りながら思ったことではあるので須賀、この遺跡を掘り返し、調べ、かつてあった姿と思われる様子を復元するという(広義の)私達がしていることを、どのくらいか先に私達の社会に対して行う存在があったとするならば、彼ら/それらは私達の社会についてどう思うんでしょうか。それを案じるのは「予測」や「想像」というより「予言」に属する行為には思えま須賀、どうも「複雑で高度な社会生活を営んでいた」というよりは「錯綜した社会だった」と言われそうな気がします。こいつらはどんな商売や意思決定のやり方をしていたんだと訝られるかもしれませんし、そもそも観察者と異質過ぎて、そのあり方が「発見」すらされないかもしれない。「理解不能」どころか「認知不能」というのは確かにあり得そうな話で、翻ってみれば、こうした遺跡にもまだまだ大きな「未発見」があるかもしれません。
シリンジェに「文明の交差点」の影を見る
小村に転戦
セルチュク行きのバスに乗ったのは午後2時半ごろ。関西弁の若い女性3人は、待っている最中になぜだろうと思うくらい熱心にお金の話をしています。車内では、迷い蜂を見つけた近くの席の人たちが「ひと思いに殺してしまえ!」とけしかけあっています。細君は寝ています。僕もさすがに眠い。しかし、「小さい村に行ってみたい!」との(隣で爆睡している)細君の意向に沿い、バスを乗り継いで次なる目的地に向かいます。
シリンジェは、セルチュクから東に数キロにある小さな村。もともとは「ギリシャ系」とされたギリシャ正教徒が住んでいたそうで須賀、希土戦争(1919〜1922)後に結ばれたローザンヌ条約で住民交換が取り決められ、ギリシャのテッサロニキに住んでいた「トルコ系」とされたムスリムが移り住んできたという歴史を持っています。
今は、土産物屋なんかで賑わうteeny-tiny*2な観光地。
のびーるアイスも売っています。注文したら「差し出されたカップを取ってもその下からさらにカップが!」的なパフォーマンスでしばらくからかわれ、なかなか品物を渡してもらえませんでした。私は笑って受け取りましたが、これ、怒る人もいるんじゃなかろうかw
韓国ツアーに人気の秘密?
メインストリートの細い路地には左右に土産物屋が並んでいて、雑貨や布製品、フルーツワインなどが並んでいます。
この店では、20歳前くらいの男の子が「사과*3!」「맛있다*4!」などと片言の韓国語を発しながら、フルーツワインの試飲を勧めていました。なんで韓国語なんだろうと周りを見渡すと、明らかにツアー客といった風情の韓国の方々が店内をわらわらと埋めています。そう言えば、村のあちこちから韓国語が聞こえてきます。何かあったのだろうかと不思議に思っていたら、ある店に韓国KBSテレビのディレクターやツアー会社職員の名刺が貼られているのを発見。テレビで紹介されて話題になり、ツアーが組まれるようになったのでしょうか*5。何にせよ、「どでかい教会やモスクがあります」とか「世界最大の滝です」とか「抜群の知名度を誇る芸術都市です」というように、代替可能性の低い固有名詞的な観光地でないとするなら、その選ばれ方は多分に恣意的になるでしょうし、それはその場所の観光地としての「寿命」にも関係してくるでしょう。要は、モナリザを見たいなら(基本的には)パリに行くしかないし、38度線はどちらかからしか見ることができないわけで須賀、「日本の田園風景」を見るなら選択肢は一つや二つではないですし、そもそもどういう人たちがどこについてそういうイメージを持っているのかについて知識がありませんが、それが「ピラミッドを見るためにギザに行く」こととどちらが恣意的でしょうか、ということが言いたいんです(笑)
長旅の供を得る
それはいいとして。この村では、二つのものが旅のお供に加わりました。一つは帽子。カウボーイなんかがかぶるいわゆるテンガロンハットで、なんだか面白かったので10TLで購入。これ以降、実用的な意味も加味して常に行動を共にすることとなりました。
そしてもう一つが、この方。
何なのかは今以って定かではないので須賀、なんだか面白かったので12TLで購入。買った店のおじさんが言うにはトルコの人気者で、シリーズもので兄弟やら親戚やらがたくさんいるんだそうです。「Durdane」という名前だそうで須賀、日本に帰ってから検索してみてもよく分かりません。この先訪れるカッパドキアでも方々で売られていて、その知名度の差ゆえか、日本語社会で同種の人形が「カッパドキア人形」と呼ばれているケースを見つけました。
「住民交換」の暴力性
ショッピングを楽しみながら奥へ進むと、洗礼者ヨハネ教会が見えてきます。
恐らく彼は洗礼者ヨハネとは別人と思われま須賀、教会の前でガラス工芸の技を披露していたのでご登場いただきました。さて中へ。
「教会」と呼ぶべきなのか「かつての教会」と呼ぶべきなのか、一瞬戸惑います。
壁面にある人物の絵は、顔が削り取られています。見えにくいで須賀、顔の周りにはギリシャ文字が。聖徳太子、知ってる?イエスキリストでしょうか。絵の前に設けられた仕切りは、恐らく「事後」に、これ以上の損傷を防ぐために取り付けられたものでしょう・・・この絵を見た瞬間に、この教会の辿ってきた運命と村の歴史とが、頭の中で急速に繋がり始めます。ギリシャ正教の教会だったこの場所は、住民交換によってキリスト教徒が去ることで言わば宗教的行為の場ではなくなり、後に入ってきたムスリムたちがその建造物の中にあった偶像を破壊した。教会の前の説明書きにそうは書いてありませんでしたが、その想像は自然なものだと思います。
しかしもしそうであって、さらに、この現状について責めるべき相手がいるとして、それは顔を削り取ったムスリムでしょうか? 「住民交換」という、あたかも「物々交換」の上位にある経済学上の取引の一形態を示すかのような名*6の下に、具体的に行われたことを想像すると、私には到底そうは思えません。この時、トルコ語を話す正教徒は「ギリシャ人」、ムスリムはギリシャ系やスラブ系、ユダヤ系であっても「トルコ人」として処理*7されたといいます。民族自決の原則で国民国家を営むことが標榜された時代。その中で振るわれた暴力的な措置を、絵を通じて見せつけられた気がしてショックでした。
改めて偶像破壊を考える
ただ、実はここにはもう一つ論点があります。それはある種、トルコの歴史を見ていく上で不可欠な議論ではあって、ここまででもアヤソフィアではその点に触れるチャンスはありました。それは、ムスリムの偶像破壊は、宗教上の教義を度外視して見た場合にどう評価されるべきか、ということです。偶像の是非については立ち入らず、それをよしとする人もあるまじきと考える人も承認可能なルールはないのかという問題意識です。
タリバンがバーミヤンの大仏を破壊したのを、苦々しくご覧になった方も多いかもしれません。あれこそまさに、という事例と思われま須賀、まず、その行為を苦々しく思う理由は何でしょうか。価値ある文化財の破壊だから。それはその通りでしょう。そもそも破壊行為自体が好ましくない。それはどうでしょうね? 私はナチス政権を好ましくないと考えていま須賀、例えばそのフランス支配を「破壊」しようとするレジスタンスは、その意図を持った時点で「好ましくない」と評価されるべきでしょうか?
逆に、擁護する理由としては、恐らく「イスラームの教義上、ムスリムはそうすべきだ」ということになるのでしょう。恐らくそれはその限りにおいては間違っていなくて、要は「それを他宗教に対して主張できるか」という点に尽きるんだと思います。
そもそも偶像(アイドル)とは、宗教的なりなにがしかの崇敬を集めるがゆえに偶像たりえています。その点AKB48の主力メンバー*8が「神7」と呼ばれて板野もむべなるかなという気がしま須賀、そうならなおのこと、その偶像を破壊することはその神、と言うよりその神を信じる人たちへの冒涜となるのではないでしょうか。つらつらと書いてきて全く以って毒にも薬にもならない結論に至りつつあることに私自身が一番驚愕していま須賀、ここ数年は宗教のみならず広く価値観一般を指して「他人の神様を冒涜しない」ことを信条とする身として、一度基本的な考え方を整理したということでご笑覧くださいまし。
ちなみに二つ付け加えておくと、これは個別的な政治・歴史的背景を捨象して「偶像破壊はその時点でダメだ」と言っているわけではありません。私はこの文中で、タリバンの大仏破壊への全体的な見解を述べたつもりはありません。また、私は迂闊にも「ムスリムの偶像破壊」という語を用いましたが、この言葉はビザンツ帝国などキリスト教での論争でも登場することも合わせて指摘しておきます。
博物館で夕涼み?
思いがけず考えさせられることの多かったシリンジェを5時ごろ後にし、セルチュクに戻ってきます。オトガルに着いたのが半前。宿の部屋が開くのは6時との約束です。正直言ってそろそろしんどかったので須賀、「時間あるんだし博物館で涼みながら時間をつぶそうよ」との細君の言葉で、エフェス考古学博物館を訪ねることに相成りました。まさに婦唱夫随です。
館内は期待通りの涼しさでしたが、屋外の中庭のようなところにも展示が。
雑な写真で恐縮で須賀、割とこんな感じで展示物がポンポン置かれています。
エフェソスは女神アルテミス信仰で知られた土地だそうで、お2人いらっしゃいました。
これが何なのかはちょっと分かりませんが、細君はこれを見て3分ほどケラケラ爆笑していました。
2日ぶりの休息
午後6時半。博物館も閉館です。なんだかこれだけだと本当に遊んでいただけのように受け取られてしまうかもしれませんが、先述のシリンジェの歴史などについてもいくつか情報を得て、満を持して(?)宿へ。しかし部屋の準備は全然まだまだだったらしく、朝の食堂で30分ほど待ってからようやく部屋に通されます。2日分の汗を洗い流してから夕食。
だんだん暗くなる空に、また1日が経ったことを感じながら、どれもこれもおいしい料理をいただきます。配膳をしてくれた宿のおじさんは、私たちから習った「召し上がれ」という日本語をいろんなテーブルで連呼したり、細君とダンスを踊りだしたりと酔っているかのようなハイテンションぶり。しかし残念ながら、本当に文字通り2日間炎天下を歩き回った私達にそれに応ずる体力は残っておらず、そこそこで失礼してバタンキューさせていただきました。