ペトロパヴロフスク要塞―サンクトペテルブルク誕生の地
サンクトペテルブルクへ
ペトロザヴォーツク発サンクトペテルブルク行きの1等車で目が覚めたのは午前6時半。6時にモーニングコールを頼んだと聞いていたので須賀どうなったのでしょうか。列車はこちらも定刻の午前7時7分に到着。その辺はすごいですね。
そこから通勤時間帯と思しきメトロを乗り継いで、モスクワ駅*1近くの宿を目指します。この後の時間帯も含めて確かに人は多いので須賀、日本のように来た電車に無理矢理体をねじ込むような輩はつい見かけませんでした。電車の運行間隔が短いというのもあるのかもしれませんが。あとそう言えば、いわゆるサラリーマン風のというか、スーツ姿の人はあまり見かけませんでしたね。改札のところではフリーペーパー*2が配られています。
このサンクトペテルブルクの地下鉄駅には駅名や行く先の英語表示があり、モスクワのそれと比べれば外国人にも幾分使いやすかったです。いわゆるホームドアのついている路線もありましたが、なんとこれが一面真っ黒。ホームに電車が来ているのかどうか、視覚情報だけでは分からないというシロモノでした。
人工都市の300年
午前8時過ぎにホテルへ。と言ってもまだチェックイン時間ではありませんので、とりあえず荷物だけ預けて再び町に出ます。
さて、このサンクトペテルブルクという町についても、少しだけ能書きを垂れることをお許しください。この町は1703年、ピョートル大帝が沼地から拓いた都市で、1712年からロシア帝国の首都となりました。バルト海に開かれた地理的要件もさることながら、大帝には「権謀術数が渦巻くモスクワを離れたい」という意図もあったとかで、桓武天皇の平安遷都のような話でもあります。当初ドイツ語風に「サンクトペテルブルク」と呼ばれたこの町は、第一次世界大戦でドイツと交戦状態に入るやロシア語風の「ペトログラード」に改名。さらにソ連時代にはレーニンにちなんで「レニングラード」と改称されます。ちなみに、崩壊後に行われた住民投票で都市名は「サンクトペテルブルク」に戻ったものの、州名として「レニングラード」が残り、今日に至るそうで、この改名の多さも、300年ほどの間にこの町がくぐりぬけてきた歴史の濃密さを物語るかのようです。
町が生まれた場所で
カフェでブランチをいただいた後、アレクサンドロフスキー公園を通ってペトロパヴロフスク要塞を目指します。この要塞はネヴァ川に浮かぶ小さな島に築かれたもので、当初は(要塞ですので)もちろん軍事的な意味合いが意図されたそうで須賀、実際には監獄としてその名を馳せることになりました。ドストエフスキーも投獄されていたそうです。
こちらは島に渡るための橋から見た光景です。奥に見えるのがネヴァ川の対岸。右側にちょっと城壁が見えます。
二つの門をくぐって城塞内に入ると、左手にピョートル大帝像が鎮座しています。
大帝と呼ばれるような人物は大抵ド派手な像を作らせそうなもので須賀、意外とこじんまりしてますね。
そして、その先で威容を誇っているのがこちらのペトロパヴロフスク聖堂。
鐘楼の高さは122メートルもあるんだそうです。
内部はこのように、華美の一言に尽きます。
モスクワ・クレムリンのアルハンゲルスキー聖堂に続いて、ここにはピョートル大帝以降の歴代皇帝が埋葬されています。
右奥の胸像があるのがピョートル大帝の棺だそうです。そしてこれ。
ロシア革命後、エカテリンブルクで殺害された最後の皇帝・ニコライ2世とその家族らが埋葬されています。その亡骸がこの場所に納まったのは、ソ連崩壊後の1998年のことだったそうです。
聖堂の端の方にはちょっとした展示室もあり、ロシアの歴代皇帝を描いたと思しきこんな絵も飾られていました。
まさに、イスタンブールのトプカプ宮殿でも同じ構成の絵を見ました。当時は、「これがオスマン朝の家族観・王統観を示唆しているのかなあ」などと述べていましたが、どちらにせよ、まさか両者が無関係に生まれたなんてことはありますまい。
川のビーチ?
要塞内を散策後、城壁の外縁へ。この日は水曜日で、要塞内の多くの施設は休館日になっていました。ネヴァ川に面した側を少し歩いて行くと、なんとそこにはビーチが。
ビーチの対岸に町があるというのは、川ならではの光景でしょう。河口に近いとはいえ川ですので、水はしょっぱくはありません*3。ちなみにこのネヴァ川、川底が結構深いそうで「あまり遊泳には適さない」んだとか。
そこからヴァシリエフスキー島の先端をまわって対岸へ。
*4
宮殿橋から見えてくるのがこの建物です。
エルミタージュ美術館。今日のハイライトです。
エルミタージュで美術鑑賞
まずは宮殿建築を
「エルミタージュ」は「隠れ家」の意味。ピョートル大帝時代の冬の宮殿から発展したもので、エカテリーナ2世時代から収集が続けられてきた美術品の数は約300万点に上ります。第二次世界大戦中のレニングラード包囲では、少なからずの作品がウラル方面に「疎開」した、なんてこともあったそうです。
館の入り口に着いたのがちょうど正午ごろ。カメラの電池が切れるという非常事態*5や、ロシア人の4倍となる400Pという入場料*6にもめげず、ここからは美術鑑賞としけこみましょう。ちなみにここから、写真はスマホ撮影のものになります。日本では不具合ばかりのIS04で須賀、この時ばかりは大活躍を見せてくれました。もちろん画質などは落ちま須賀、ご勘弁ください。
まずは宮殿建築を楽しみながら中へと入って行きます。
「大使の階段」から。
「玉座の間」。
光の調節が…
そうしたエリアを通り抜け、まずはイタリア美術のコーナーへと入って行きます。ここから先は完全な美術鑑賞のお話なので、全体を通して印象に残ったことや、気に入った絵のことを少しだけ。
最初に言わなければならないのは、ちょっと残念な話です。前述の通り、この美術館はそもそもが宮殿の建物なので須賀、それゆえということもあってか、絵を展示するにおいての外の光の調節にかなり難があったように思います。展示作品の中には、絵の中で絶妙な光の強弱を表現しているようなものも多数あったので須賀、そうした作品が窓の間近に置かれてしまったが最後、光のアクセントがぼやけてしまうばかりか、正面からでは何が描かれている絵であるのかすら分からず、それこそ絵の前を右往左往して、多少マシに見える角度を探さなければならなくなります。例えば、名画とされるレンブラントの「放蕩息子の帰還」でも、正面からだとこんな見え方になってしまうのです。
美術鑑賞を趣味としない私でも、日本国内で外光の制御の仕方や照明の当て方への配慮が行きとどいた美術館に出会うことは少なくなかったように記憶しています。っていうか、それは絵を見せる場所なら当然の配慮だと思います。世界有数のコレクションを誇るとされる美術館のこの展示方法には、率直に言ってがっかりでした。
「キリストとおっぱいはスルー」その2
とかいいつつじっくりと鑑賞させてもらったので須賀、やはり私にとってある絵を気に入るかどうかというのは、「確かにオレにもこう見える!」と共感できたり、「こういう場所なんだろうなあ」とすんなり想像できたりするかどうか、まとめて言えば、その絵の世界の捉え方や表現の仕方への共感なのだと思います。その点で、「モンジェローヌの池」をはじめとするモネの作品は圧巻でした。例によって近づいたり遠ざかったりしながら眺めていたので須賀、絵から遠ざかって行くと霧の中から橋がぼんやり浮かび上がってくる「霧のウォータールー橋」も感動的でした。ルノワールもよかったと思いますけど、それこそ予習のつもりで日本で見てきたプーシキン展の作品の方が好きでしたね。
逆に言うと、現時点では基本的に神様を信じていない私にとって、残念なことに、この美術館にも多く収蔵されている宗教画というのは、およそ理解できない世界観に基づいて描かれたものであり、いつものことながらなかなか心に響いてきませんでした。
本物の森の暗さ
新たな出会いを感じたのは、オランダの風景画家ヤーコプ・ロイスダール。暗いタッチの森の絵などが多かったんで須賀、その真に迫る感じというか、なぜか「彼の描く森の暗さは本物だなあ」と感じさせられ、いくつか探して眺めていました。彼に限らずオランダやスペインの画家の作品は、先ほど述べたような光のアクセントが効いたものが多かった気がしました。
*7
逆に、正直言って、ここに飾ってあったセザンヌやゴーギャン、マティス、ピカソあたりの絵はピンときませんでした。と聞いて、「何こいつピカソのよさが分からないの?」と嗤う方も多くいらっしゃると思いま須賀、それは甘受します。自分でその絵をどう感じたか/解釈するかということこそが重要で、それは練習すれば逆上がりができるようになるように、たくさんピカソを見ればそのよさが分かるようになる…わけではないんじゃないかと思います。むしろ、いつか、この時とは違う心持ちの時にまためぐりあい、感激するのかもしれませんし、しないのかもしれません(笑) 折角美術館まで絵を見に来たなら、世間的評価どうこうじゃなくて絵そのものと対峙しる、と言いたかったので須賀、まあ当たり前のことですねww ダヴィンチ作品をロクに見もせずに、写真だけ撮って行くツアー客を多く見ましたが、「ダヴィンチの絵を見た」という事実をつくった以上に得たものはあったのでしょうか。
さて、こうしてごく簡単ながら館内を見て回って、出てきた時間がなんと午後4時半。ゆっくり見ようとは思っていたので須賀、この4時間半というのは想定外でしたw
ネフスキー通り散策
美術館を出た先は宮殿広場。
この界隈はどことなくウィーンに似ている気がします。どちらも皇帝の居所ですし、偶然ではないかもしれません。ここからネフスキー大通りを通って宿を目指しましょう。
ストロガノフ宮殿。帝政ロシア時代の名家・ストロガノフ家の宮殿です。ビーフストロガノフはこの家の家庭料理だったそうです。
カザン聖堂です。ソ連時代には「無神論博物館」だったそうで須賀、無神論の博物館って一体何を展示するんでしょうかねww
そしてエカテリーナ2世像です。啓蒙専制君主の代表格で、定刻の版図拡大に貢献しながらも、孫に「玉座の上の娼婦」と評されるような私生活を送っていた人物です。
宿に戻ってきたのは午後5時半。チェックインを済ませてしばらく休憩。シャワーと洗濯を済ませます。諸事情により詳しくは述べませんが、2日連続で寝台列車で夜を明かした私達にとって、このシャワーは非常に重要なものでした。
バー・ラスコーリニコフ
再出撃は7時過ぎ。夕食を摂りに出かけます。目指したのは、
ドストエフスキー像、の近くにある、
ホテル・ドストエフスキー。
このホテルの7階にお目当てのバーがあります。それは…
ぴっ、ぴかちゅう!…じゃなくて、「バー・ラスコーリニコフ」。ラスコーリニコフはもちろん『罪と罰』の主人公の名です。こんな顔だったんですね。
2人でビールやウォッカベースのカクテル、つまみなどを堪能。値段も2440Pとまあお手頃で、楽しい時間を過ごさせていただきました。ドストエフスキー云々に興味がなくても*8、なかなかいい店なのではないでしょうか。
宿に戻ったのは日付が変わるころ。明日は早いのでさっさと寝ようと、部屋のカギ穴にカギを入れてひねったら…「ポキっ」
細君&私「えっ?」
なんと、部屋のカギが真っ二つに折れてしまったのでした。まあとりあえずフロントに行って予備のカギで開けてもらいましたけどね。そんな椿事が締めくくった一日でした。