アイーンから日本へ
シュテファン寺院再び
最終日の朝は8時過ぎに起床。9時過ぎには宿を出て、地下鉄で再びシュテファン寺院を目指します。またぞろ内部を見学。陽が差し込んでいる様子もなかなかの趣でありました。
そしてついに(笑)、塔を登る時がやってきました。途中の見張り台まで、343段*1の階段が続いています。
しかしこの階段のしんどさというのもありませんでしたね。写真のように、ほとんどが窓もないような石段をぐるぐる回りながら上っていきます。今、大体どのくらいの位置にいるのかも分からない。階段の幅が狭いので、すれ違うのにも一苦労。ですから疲れたからといって途中で佇めるようなところもほとんどありません。加えて閉所の圧迫感と、何よりも前日のアルコールです(笑) そんな三重苦、四重苦に苛まれ、気が狂いそうになりながら登りおおせたのでした。
そのご褒美はもちろん上からの眺めです。
うん、なかなかの眺めではあるので須賀、その時の私にはこれはどちらの方角で、眼前にあるランドマークの名は何であるのかについて確認する余力はありませんでした。
あとがき
どこかを旅行してその時のことを書くというときに、一番億劫なのはこのあとがきを書くことです。一応締まりのいいことを言わなきゃいけない(気がする)反面、数万字レベルの冗長な駄文を数カ月かけて*3書き足していますので、書いている本人が全体の流れを把握するのに骨が折れてしまう。なら書かなきゃいいじゃないかというご指摘もあり得ると思いま須賀、改めて言いたいこともあるのでちょっとだけ。
特に今回、あとがきを書くのが億劫なのは、旅程の断絶性故かもしれません。この旅行に際して、アイーンウィーンは「おまけ」としての位置づけでよいと思うので須賀、やはり不可解さが思考を覆ったアウシュビッツと、スターリンワールドをはじめとするリトアニアで見た諸々のものを一つのストーリーで理解することは、今の私にとっては容易ではありません。もちろんアウシュビッツとヴィリニュスのKGB博物館には共通性があるでしょう。それでも、私はKGB博物館をアウシュビッツよりスターリンワールドと結び付けて捉えたい。
スターリンワールドとKGB博物館、それに「人間の鎖」についての展示があったゲディミナス塔。これらはモスクワに抑圧されたリトアニアの人たちの抵抗の形を、それぞれ違った色で描いている気がします。まさに政治犯と見なされ、拷問・処刑された人々の存在を告発する怒りのKGB博物館。街に出て手をつなぎ、独立の意志を示したことを誇る連帯のゲディミナス塔。そして、レーニンやスターリンの像やグッズを集め、旧ソ連時代を皮肉るスターリンワールド。しかしそれも、完全なおふざけではありませんでした。このように振り返ってみると、三者三様のそれらは、20年前までリトアニアの地に刻みつけられた、癒えない傷跡なのかもしれません。
しかしリトアニアは、モスクワの影響という過去を完全に捨て去ることはできません。約5%とバルト三国内では最も低い割合で須賀、リトアニアにもロシア系の人々が生活しています。ロシアの飛び地、カリーニングラードとも接しています。どう忘れ去るか、という議論にはならないでしょう。先ほど「傷跡」と言いました。その例えで言うならば、皮膚に着いた傷は、修復する際に傷つく前よりやや盛り上がります。「つるっと治った方がいいんだ」という考え方ももちろんあるで生姜、傷つくことを通じて、より大きく、より強くなっていく方向性もあるのではないか。そういう気もします。この地にスターリンワールドがなければ私にとって縁遠い場所であったろうリトアニア。しかしリトアニアにスターリンワールドがあるのは全くの偶然ではないわけで、物を知らずに偉そうなことを言ってしまいましたが(笑)、この国との縁を感じざるを得ません。
そういうことですから、これらとアウシュビッツを強引に括って「東欧に独裁者の爪痕を訪ねて―アウシュビッツ・スターリンワールド旅行記」なんてタイトルをつけたのは、私自身としてはあまり良くなかったかなと思っています。
そろそろ止しにしましょう。今回友人には大変お世話になりました。やはり2人で行くということは視点も二つあるということで、ここに得意げに書きつけたことのほとんどは彼との会話から大きな示唆を得ています。また実際的にも、友人は非常に地理感覚に優れており、私自身もそれなりに自信はあったので須賀、何度か地図を見間違えて白い眼で見られることもありました(笑) そして何より、クラー・クラーになった時に面倒見てくれてありがとね!wwwww
いざ筆を置くとなると、なんだか解放感というより一抹の寂しさすら感じられます。今回は特に、書いている今の現在性というか、2010年の暮れや2012年の暮れには書かないようなことを何となく盛り込んでいこうということもちょっと考えたので須賀、それって多分、1年後2年後に読み直してみると恥ずかしいだけなんでしょうね。書いた人間すら失笑必須の文を少しでも読んでくださった皆様に、心から御礼申し上げます。
なお、この旅行記は、執筆期間中に亡くなった朝鮮民主主義人民共和国の金正日国防委員長に捧げたいと思います(笑)
(2012年1月6日午前3時、自宅書斎(笑)にて)