かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
ブログランキング・にほんブログ村へ

トルコ・キプロス新婚旅行十三日目・帰国

ヤキモキ帰国劇

免税品も持ち込み禁止

7時に起床し、身支度して荷物をまとめます。バスの約束の時間は午前9時。40分ほどで着くとのことなので、12時半のフライトには十分だろうとフロントに降りていきます。しかしこのバスが来たのは9時半前。しかも細い路地を入って他のホテルからも人を拾い始め*1、これは本当に間に合うのかと肝を冷やしましたが、10時前には空港に着くことができました。
モスクワ行きの搭乗手続きカウンターには、日本人の姿もちらほら。団体さんのようです。出国審査を早めに済ませ、残金片手に免税店へ。搭乗時間の11時50分まで、お互い単独行動で買い物を楽しむことにしました。私はラクゥを買って行こうとしたので須賀、レジの男の人が「君には売れない。モスクワの空港への液体の持ち込みは100mlまでに制限されている」。えっ、さっき荷物検査受けましたよね…ロシアのクオリティの高さを体感させられました。

まさかの乗り遅れ?

しょうがないので小物を適当に購入。腕時計を見ると11時40分です。そろそろ戻らねばと思い、最初に確認していた搭乗口に足を向けると、あちこちにある空港内の時計は12時過ぎを指しています。ちょwwっwwww時計遅れてるwww これはまずいと思ってカウンターに駆けていくと、そこはすでにがらんどう。フライトの時間まではまだ20分あるというのに、もう締め切ってしまったのでしょうか。隣のベイルート行きのカウンターには人がいましたので、全身で焦りを表現しながら「モスクワ行きはどうなったか知らないか」とがなり立てます。
すると「ここはベイルート行き。モスクワのことは知らない。案内板を確認すれば?」と素っ気ない返事。思わず「ふんぎゃあ!」と叫びそうになります。しかし搭乗口が変わった可能性は確かにあるわけで、とにかく案内板を探して見てみると、案の定、別のところに変わっているではありませんか。早くそっちに行かなきゃ。足は今にも駆け出しそうなので須賀、312というその搭乗口がどこにあるのか案内を見つけられず、またボルテージが上がってきます。分からないなら聞くしかない。近くにいたお兄さんが言うとおり、下階への階段を見つけて走っていくと、その番号が刻まれたカウンターの前に、不安げな細君と困惑げな係員さんが立っていたのでした。

家宝再び

モスクワの空港では酒を買うことができました(笑)
そして、これ。

大学生時分からいつか欲しいと思っていた一品。レーニンの中にもまだ2人いて、一番小さいのは(小さ過ぎてよく分からないが)ピョートル大帝のようにも見えます。こちらは1550ルーブル。だいたい1ルーブルが2.5円かそこらだそうで、4000円くらいで手に入れることができたわけです。
ボルシチとビールで時間をつぶして、現地時間の午後8時。アエロフロート機がモスクワを飛び立ち、とうとう私達は日本へと戻る機中の人となったのでした。

青いエアメイル

日本に戻って数日。半月にわたって仕事を空けた物理的、精神的代償に苦しめられていたころ、私宛に一通の絵ハガキが届きました。発信元はキプロス共和国*2。差出人は細君でした。(大体察しはつくけど)いつの間に書いたんだろう。そういえばこの日は、「友達がいないオレは、トルコ以外の国から承認してもらえない北キプロスと同じだ」なんて失礼で悪い冗談を言っていたっけ。
ちょっと読み返すのが恥ずかしいような文面の最後に、こんなことが書いてありました。「あなたが北キプロスでも、私はずっと承認してそばにいるよ」。
お後がよろしいようで。
<糸冬>

あとがき

帰国が日付をまたいで26日でしたので、実に丸2週間に及ぶ旅の行程を、全体的に巻きでご紹介してきました。それでもこんなに長いというか、読まれた方に長いと思わせてしまうのは、まさに私の非才のなせる業だといつもながら反省しきりです。
尋ねたすべての街や場所、出会ったすべての人について再度語るのはやめにしましょう。いくつかの場所を挙げ、そこで感じた事なんぞを思い出しながら、まとめに代えさせていただきたいと思います。
まずは、パムッカレとカッパドキアにしましょう。よくある「トルコ大自然の旅!」的なツアーには欠かせない両者ではありま須賀、私が受けた印象はかなり別のものでした。まあそれは当たり前といえば当たり前で、山の一部分だけ真っ白になっている光景と、キノコなのか何なのかというような形の岩が延々と並んでいる光景とでは、見ただけの時点で相当異なります。もちろん私が言いたいのはそれだけの意味ではなくて、それぞれが「なにゆえ奇観であるか」です。両方ともヒエラポリスと地下都市など、歴史的な遺産としての意義も十分に有する場所で、それが魅力の一つであることも十分承知しているつもりで須賀、ここではそこは置いておいて、自然の景勝地という点からお話ししたいと思います。
カッパドキアが奇観であるのは、一言で言えば、変な形の岩が並んでいるからでしょう。で須賀それは、逆に言えば―それがすごいからこの場所は一大観光地となっているので須賀―カッパドキアの自然地形の魅力はその一言でほぼ語りつくすことができるように思います。
一方のパムッカレはどうでしょうか。「白いから」。ええ、確かにそうなので須賀、世界中で真っ白な場所というのはそんなに珍しくありません。私は南の生まれなので、自然現象によってそうなっている場所を実は見たことがないので須賀、日本などそれなりの数の社会において、「白い山=雪山」というイメージや了解はある程度浸透しているものと思います。しかし、本当にこれが雪であれば、この場所にだけ雪が積もっているのは不自然なわけで、人々が水着で歩き回っているのも、そもそも(8月だったので)暑いというのも、雪をイメージする了解にはそぐいません。
私が思うに、恐らくそこが「奇観」としてのパムッカレの魅力なのだと思います。「えっ、これ、雪じゃないんだ!?」。そんなイメージとのギャップを与えてくれるパムッカレは、私にとっては非常に楽しい場所でありました。
二つ目には、シリンジェを挙げたいと思います。イスタンブールアヤソフィアや、カッパドキアの教会跡を入れてもいいかもしれません。思いがけず立ち寄ったこの村から学んだのは、洗礼者ヨハネ教会が物語っている(だろう)「住民交換」の歴史です。トルコ語を話す正教徒、ユダヤムスリムなど、広くアナトリアからバルカン半島に息づく人たちの多様性を無視してなされたその措置。教会からモスクに転じたアヤソフィアが文化的に意義深いものなら、こうした多様性も同じ理由で尊重されるべき「文明の交差点」の恵みであるはずです。本編では偶像破壊の是非についても言及しましたが、あの教会の破壊された偶像を見て考えることとして、それは本筋ではなかったでしょう。
そして最後は、グリーンラインによって分断されたニコシアです。城壁によって丸く囲まれた旧市街を真っ二つに分けるグリーンライン。その双方では様子こそ異なれ、双方なりの日曜日が流れていました。しかし、分断線に近づくと、分断という事実を物理的に示す証左があちこちに見られ、何よりも、南北ともに一段と張りつめた空気と静寂が覆っています。それは多分、私の意識だけの問題ではないと思います。
その一方で、私のようなパッと出の外国人が容易に南北を往来でき、現実に、南北キプロスの統一にの条件などに関する交渉は断続的に続けられています。このような状況は、長期的に言えば多分に分断後の両当事者や国連などの努力が、時間の経過とともに実りつつあるもののようです。同じように「分断国家」と言っても、アメリカと中国、あるいはソ連・ロシアという、少なくとも極東地域全体に多大な影響を及ぼす2国間関係の前面で半世紀以上対峙し、人口・軍事規模ともに大きく、両当事者が国連加盟国であるような朝鮮半島におけるそれとは、大きく様相が異なるということになるでしょう。そもそもを言えば、板門店北から行った時も、南から行った時も、ラインを越えて向こう側を自由に歩き回ることはできませんでしたからねwww 最近北から南に渡った青年がいたそうですけど。
まあなんにせよ、北側にあるギルネはステキな地中海リゾートでしたし、南にはニコシアしか行けませんでしたが、同じく夏を満喫できる場所と聞いています。島内には未だ旧宗主国・イギリス領となっている地域が残るなど、洋の東西を問わず地政学的な要衝にある島には、残念なことにしばしばそれゆえの複雑なバランスや思惑が交差しがちですし、恐らくこの島の場合も「南北が折り合いをつけました!」というだけですべてが片付くわけではないでしょう。ところがでもしかし、まさに分断を見に来た人間が言うのもなんで須賀、今後、この話し合いがよりよく進み、主権国家システムの中での位置づけがどうあれ、平穏で和やかなキプロス島になっていってほしいと願っています。
そろそろ終わりにしましょう。新婚旅行という、極めてプライベートな性質の強い旅行のことを書くことには、少し逡巡もありました。それでも、ずっと全く変わらない、というのでは進歩がないとは思いま須賀、別に結婚したからといって、急に物分かりがよくなるわけでもないんだよというか、いい意味で相変わらずでいられるかどうかご笑覧頂こうという意味も込めて、つらつらと書かせていただきました。
いつものご挨拶になりま須賀、旅先で関わり、助けてくれた全ての方々、こんなところまで読んでくださった奇特な方、そして、この旅行記の最も熱心な読者であり、かつ旅程を通じて概ね笑顔で隣にいてくれた細君に感謝を申し上げて、筆を置きたいと思います。
(2012年10月20日午後8時半、自宅の病床にて)

*1:もちろん私達もその一員だったわけで須賀

*2:南です、念のため