かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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スノーデンを尋ねて〜強行軍!ロシア個人旅行記七日目・サンクトペテルブルク街歩き

ドストエフスキー

貧しさの象徴に資本の象徴

この日は7時に起きて*1身支度をして8時半にチェックアウト。荷物を預けて市内観光に赴きます。
最初のお目当ては、『罪と罰』の舞台巡り。サンクトペテルブルクをテーマとするこの小説の各シーンに登場する場所は、後年の研究でかなり特定されており、その成果に沿って「罪と罰聖地巡礼」的な町歩きも可能になっています。聖地巡礼と言えば、結婚前に細君と「東村山4丁目」を探しに行って以来*2なので須賀、多くの特定厨の皆さんの成果を踏まえ、雨の中で須賀少しだけ、シーンを辿ってみることにしました。

センヤナ広場。ぴかちゅうラスコーリニコフが自首の前に、大地に接吻した場所です。「罪と罰」のみならず、ドストエフスキーの他の小説でも貧しさの象徴として描かれているので須賀、今はマックやサブウェイといったチェーン店が立ち並ぶ、その意味で言えば資本の薫りがプンプンする場所になっています。

「犯行現場」を歩く


ドストエフスキー罪と罰を執筆した家です。センヤナ広場の間近にあり、彼が自分の町を舞台に物語を紡いでいったことが分かります。

ぴかちゅうラスコーリニコフのアパート。確かここの屋根裏のような場所に住んでいたのでした。

近づいてみるとドストエフスキーのプレートが。「ラスコーリニコフ」と書かれているのもなんとか分かります。その舞台にこうした標識が残されていることからも、この作品の存在感の大きさが窺い知れます。

ラスコーリニコフが高利貸の老婆とその妹を殺害したアパート。彼が殺害前に歩いたルートをちゃんと検証してこなかったので多少の誤差はありま生姜、ラスコーリニコフのアパートからここまでは歩いて10分以上の距離はあったように思います。その道のりを歩きながら、最初は思考実験的な空想に近かった「老婆を殺害する」という考えが現実の意志へと化していった―というのはやはり妙にありがちで、人間の弱さを衝いているなあという気がしました。天気も天気とあって、なんだかこちらも…なんてことは断じてありませんが、なんだか陰鬱な気持ちにはなってきました。

良心的な「ソ連カフェ」

と、こちらの趣味に付き合ってもらった帰りに、こんなカフェを発見。

拝み倒して(笑)、立ち寄ることにしました。


中はこんな感じで、どう見てもコンセプト先行のソ連カフェなので須賀、全くそこに政治的・思想的意義を認めていないかのような、例えて言えばメイドカフェに行ってメイドを無視するかのような立ち居振る舞いをするお客さんもいて、ちょっと笑いました。ちなみにベリージュース2杯ととパン1個で35Pという、お値段で、日本のメイドカフェとは異なる良心的な価格設定のお店でした。

ドストエフスキーミュージアム

その後、細君要望のピロシキ屋でベタにピロシキボルシチをいただき、ドストエフスキーミュージアムへ。

彼が晩年を過ごしたアパートで、書斎なども再現されています。

書斎には、ごく近しい人しか招かれなかったそうです。また、夜の10時ごろから執筆をはじめ、朝寝て昼起きるという夜型の生活を送っていたそうで、彼がいかに静謐を重視していたかが察せられます。僭越ながら、私も静謐な書斎を希求していますw
館内には他にも、彼の家族などについて知ることができる展示が並んでいます。そして彼のひ孫にあたる人物は、今もこのサンクトペテルブルクの町に住んでいるのだそうです。

チャイコフスキー

ゴミ箱の弦楽器と洋装の武田信玄

さて、お次は音楽博物館へ。「チャイコフスキー幼年時代に使ったピアノが展示されている」という触れ込みの博物館で、確かにそう称するものはありましたが、「世界各地の変わった弦楽器」的なコーナーにあった、いかにもごみ箱の缶を切って作ったような楽器の方が印象的でした。19世紀初頭のタジキスタンのものらしく、いわゆる既製のバイオリンを買うことができない人が作ったのかと想像するわけで須賀、どんな時代のどんなところにも、音楽を求める気持ちというのはあるんだなあと感心させられました。
あと、どう見ても武田信玄が洋装したようにしか見えない肖像画も展示されていましたねww

ロシア風寿司を堪能

音楽博物館を出た辺りで午後1時。この日のランチでは、「是非一度やってみたい」と2人で話し合っていたことを決行することにしました。それは…

ロシアの寿司屋で寿司を食うことですww こちらの「山葵」さんにお世話になることにしました。
内装はこんな感じ。

「林 古代」って一体何だ?って感じで須賀、さらに言えば、「林」の奥では「海」の字が裏返しになっているようです。
注文したのはキムチスープと天むす的な何かと巻き寿司的な何か。

スープはわかめスープをちょっと辛くした感じ。写真右の巻き寿司は揚げてあって…(笑) 味覚的に日本の寿司に一番近かったのはガリだったというオチはつきましたが、どれも珍しくって楽しくいただけました。日本料理店に日本人が来るということで、ワルシャワの寿司屋に行った時には明らかに嫌そうな対応でしたが、こちらでは快活な接客をしていただいたと思います。「よかったよ」と親指を立てて店を出ました。ちなみにお値段は740P

血とジャガイモの上にそびえて

そこからミハイロフ城の前のピョートル大帝像を通り、

ロシア美術館の前を通って、

やってきたのは有名な「血の上の救世主教会」。

アレクサンドル2世が細君ナロードニキに殺害されたその場所に建てられた教会です。



このように壮麗な建築物なので須賀、ロシア革命後のソ連政府によって教会は閉鎖され、第二次世界大戦中は野菜倉庫として使われたため「ジャガイモの上の教会」「ジャガイモの救世主」などと呼ばれた時期もあるんだそうです。いやはや。

プーチン

教会見学後は近くにある土産物市場へ。

時刻は午後3時。ここで昨日お世話になった細君の友人と再び落ち合い、愛車・ポルシェに乗り込みます。目指すは彼が拠点を置くサンクトペテルブルク大学の法学部。「折角来たのなら見せてあげるよ」ということだったようで須賀、そこはやはり大学の中に入るということで、私達の名前や職業などについては電話で一通り質問されました。まあ逆に言うと、「日本からこれこれの人間が見学に来た」と記録することはある種の「実績」を示すことになり、彼らにとっても悪いことではないのだそうです。
建物内では講堂から図書館、業績のあった法学者の写真が並ぶ廊下、研究室、果ては教授会室まで見せていただいたので須賀、写真のうpは自重しておきます。そのかわり1枚だけ、「著名な卒業生」の写真が並ぶパネルだけご紹介しましょう。

プーチン
後から言い繕っているように聞こえてしまうかもしれませんが、「卒業生を紹介するパネルがあるよ」と言われた瞬間に「そういえば…」と頭をよぎったのは彼のことでした。隣にメドヴェージェフもいますね。いやあ、プーチンの母校を訪ねられて光栄ですwww

ラスプーチン

皇帝よりお金持ち?

そこからそのまま車に乗せてもらってユスポフ宮殿へ。カスピ海北側の草原地帯に勢力を誇ったタタール系の貴族・ユスポフ家の宮殿で、この一族はなんと、代々のロシア皇帝を輩出したロマノフ家よりもお金持だった、なんて話も伝わっています。
内部はこんな感じ。




これらの三つの部屋は青・赤・緑がコンセプトになっているそうです。

フランス語話者のツアー客に、ちょっとした歌のプレゼントも。

美術品ももともとはもっとたくさんあったそうなので須賀、後にエルミタージュなどに持って行かれたんだとか。

劇場のようです。キンキラキン!

イスラーム風の部屋もあります。

「怪僧・ラスプーチン」という伝説

…というのが大貴族・ユスポフ家の豪華宮殿の見学だったので須賀、私のお目当てはそこではありませんでした。この宮殿が知られている所以の恐らく最大のものは、この宮殿の地下室が怪僧・ラスプーチン殺害の現場(の一つ)であることでしょう。ラスプーチンという人物の来歴については、諸事情によりここでの詳述を控えま須賀、流された噂といい、奈良時代末の道鏡にかなり似た人物とご紹介しても大体お許しいただけるのではないでしょうか。ちなみに、彼については極度の淫蕩と巨根の伝説が知られており、彼のものであると謳った長さ約30センチの男性器(ラスプーチンチン)を展示する博物館もあるそうです。
そのラスプーチン。ユスポフ公や皇帝のいとこ・ドミトリー大公らに誘われた晩餐の食事に青酸カリを盛られたが効かず*3、頭蓋骨が割れるまで殴って銃で撃ち、凍りついたネヴァ川に穴を空けて放り込んだのだそうで須賀、後日見つかった遺体の検視の結果は溺死。要するに、川に投げ込まれるまで息があったということらしいのです。さらに死の前に、ラスプーチンが皇帝にこう話したことも知られています。

私は殺されます。その暇乞いに参りました。私を殺す者が農民であれば、ロシアは安泰でしょう。もし、私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう。そしてロシアは長きにわたって多くの血が流されるでしょう。

結果そうなっちゃったね、という話で、これがまた「怪僧」らしい逸話として人口に膾炙しているようなので須賀、これは「宮中に権勢を得たラスプーチンは、皇帝近親者が自分をよく思わず、暗殺を企てていることを知り/予測し、それを皇帝が止めてくれるように脅し文句を込めて仕向けた」と解釈すれば、特段不思議な話ではないような気もします。宮中周りの女性と通じているならその種の情報を得ていても不思議ではありませんし、セルフイメージを活用したこういう言い方で「チクる」ことで自分の身を守るというのも不合理なことではないと思います。まあ暗殺計画の具体を知っていて、それを避ける意思があるなら晩餐に行くなよ、ってことになりま須賀、そこまでは知らなかったのか、ある種の諦念があったのか、どうでしょうか。「怪僧」扱いも結構と言えば結構なんで須賀、全てをそこに帰して思考停止しないこと、剥ける皮は剥いていくことは、こういう人だからこそ重要なのではないかと思います。ええ、私が剥けたかどうかは大いに疑問で須賀w
話が逸れましたが、その現場となったのがここ。

ちょっとスマホカメラの限界を見た気がしま須賀、ご本人の人形まで再現されていました。これを見ることができて一満足でありました。

アイリッシュバーで引っ掛けて…

ラスプーチンとの邂逅を果たしたのが午後6時前。この日は午後7時から、近くのマリインスキー劇場でバレエ鑑賞の予定となっており、それまでの間、私達と細君の友人、その娘さんを交え、アイリッシュバーでフィッシュ&チップスをつまみます。そこでだったでしょうか。今日一日の感想を問われ、私はこう答えました。
「今日はいろんな人に会えてよかったです。ドストエフスキーチャイコフスキープーチン、あとラスプーチン*4

公演は5月にできた新館で。旧館と言うべきなのか、ガラス面に映っていますね。

こちらが内観です。
こうして、記憶にある限り人生2度目のバレエ鑑賞*5が始まりました。ストーリーは、金持ちのイスラーム商人から日本をとりもろしゅ*6美少女を取り戻すというもので、その商人が道化役を演じているという部分を以てしてもサイードの格好の分析対象を目の当たりにしたような印象です。

バレエの歴史と性的な視線?

あと、これは読んで私への軽蔑と反感をお持ちになる方もいらっしゃるかもしれませんが、私が公演中気になっていろいろと考えていたのは、バレリーナの踊りの中で、あたかもスカートの中を見せんかのような動きがどうしてかくも多いのかということでした。もちろんそれは、全体として非常に洗練され、様式化された動きの中にありますので、私自身「おおっ!」となったりはしなかったことは念のため言明しておきますし(笑)、今現在、そういう意図を持って「見せている」ということも素人目にも考えにくいので須賀、じゃあ歴史的にはどうだったのか。紐解けば貴族階級の男性を起源に持ち、女性が参入していったという歌舞伎とは対照的な経過をたどる芸術・芸能であるわけで須賀、その中で、多くのバレリーナが男性パトロンに経済的に依存し、一部で娼婦のように扱われてしまっていた時期もあったようです。ちょっと調べた範囲では、固有名詞的にはマリー・カマルゴという18世紀のバレリーナの影響が大きいようで須賀、それを様式化されるまでに沈着させていったもの、その痕跡に、男性からの性的な視線に関するある種の共犯関係があったとは言えないのか。これは学のないものの全くの暴論であり、単なるスケベな妄想に過ぎないと評価されるかもしれませんし、実際細君には「その仮説は人を不愉快にする上に、妥当とも思えないから他言しない方が身のためだ」という趣旨の忠告もいただきましたが、(無意識下で性的衝動に突き動かされてこんなことを思いついてしまったとしても)これは私なりの知に対するまごころから生まれた仮説である―「こいつなりに真面目に考えたらしい」―ことをお汲み取りいただいた上で、嗤ってくださればと思います。

「また戻っておいで!」

さて、公演が終わって親子と合流した午後10時ごろになっても、まだ日は暮れません。午後11時55分発のモスクワ行き寝台列車は、ホテルの目と鼻の先にある「モスクワ駅」からの発車。最後の最後までポルシェで送迎していただきました。「また戻ってこい」。これだけ世話になって、そう言ってもらえたことには本当に痛み入ります。
あともう一つ、言われて印象的だったのは、「今日は特に、酔っ払いに絡まれないよう注意しろ」ということ。実はこの日、8月2日は友近の誕生日…である以上に、「ロシア空挺軍の日」という記念日で、言われてみれば確かにそれらしい人たちが多く群れをなし、街中を闊歩しています。彼はそういう集団を見るたびに顔をしかめていた気がしま須賀*7、外国人である私達のことを特に心配してくれたのでしょう。当たり前で須賀、一つの国にもいろんな考え方の人がいます。「ロシアでは人種差別的で暴力的な右翼集団が跋扈している」なんて聞いて、旅行中に襲われやしないかとちょっと身構えていたのも事実で須賀、ここにきてその当然のことに気付かされます。
…このシーンで話が横道に逸れるのは致命的ですね。固い握手を交わし、再会を約してお別れすることができました。

「赤い矢号」でモスクワへ

ホテルで荷物を引き取って、カフェで時間をつぶして駅へ。ソ連時代からの歴史ある特急列車「赤い矢*8号」に乗り込みます。

こちらは2等車で4人部屋。若いビジネスマン風の男性と相部屋になりました。なかなか英語は通じませんでしたが優しそうな人で、上ベッドに上るための梯子の出し方なんかも教えてくれました。
明日の朝にはモスクワに着き、昼間のうちに再びアブダビへ飛び立ちます。ここからは実質的には帰り道。気を抜かず、無事旅程を果たしたいものです。

*1:すごい!

*2:2丁目がどうしても見当たらなかった

*3:これは料理する際に変質してしまったという説もあるそうです

*4:たまたま語呂があって面白かったので、タイトルにはこれを借用しました

*5:学生の頃、サークルで知人の引退公演に押し掛けたことがありました

*6:「日本をとりもろしゅ」つもりの方は、どんな日本を誰からとりもろしゅおつもりなのでしょうか。バカにしていっているように聞こえるかもしれませんが、そういう5W1Hがはっきりしていない言葉が政治に使われるのは怖いと思いますよ

*7:この話になった時に、モスクワに来た初日の地下鉄で出会った人たちのことを話したので須賀、その時もうんざりした表情でした

*8:細君はいつもこう言い間違えていました。多分今でもそう思っているでしょう