かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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東経52度の旅―イラン・ラマダン紀行四日目 エスファハーン満喫!

エマーム広場再訪

朝食と値切り交渉

そろそろちょっと巻きで書いていきたいです(笑) ディテールを描写するかどうかも選択と集中です。
この日は朝8時に起床。目覚ましを使わずに起きられるという日常では考えられない展開です。半にはホテルで朝食をいただきます。非常に薄いナンと生卵とチャイ。この組み合わせは他のホテルでも見られました。定番のモーニングセットといったところなのでしょうか。
宿の近くの銀行で93ドルを98万Rに換金してから、ちょっと宿のお兄さん*1にご相談事*2を差し上げました。今晩の宿代の件です。「もう一泊してやるからまけろ」。そう主張したところ、「多分合計で15万R引けるんじゃないか」との返事。まあ十分においしい話ではあったので須賀、「ちょっとマネージャーに聞いてみろ」とさらに強気に出たのが裏目に出てか*3、「引けるのは4万Rまでだと言っている」との返事。とりあえず納得はしていないので次は責任者を出せと言い残し、身支度のため再び部屋に戻ります。

イランの教育テレビ?

部屋ではたいていテレビをつけていたので須賀、これがなかなかおもしろかったです。子供向けっぽいチャンネルでやっていたのは、言わば、というよりまさに「おかあさんといっしょ」のイラン版*4。役回り的にはスプーやおにいさんといったところの方々が子供たちと歌っていたので須賀、突然ある歌で彼らが「イラン!イラン!」と叫びだし、周りの子供たちにもそれに促されるかのように「イラン!イラン!」とやっていたのにはちょっとギョッとしました。
次の番組はアニメの宗教番組でした。顔の部分がキラキラマークで隠されている人物*5を主人公としたお話のようで、あるいはムハンマドの言行録であるハディースをアニメ化したものかもしれません。
…と教育テレビ*6たるがゆえの面白さというのも実感させられたので須賀、そんなことばかりに感心している場合でもありません。カマをかける(あるいは宿を移す)ための宿代の市場調査がてら、昨日見たスィー・オ・セ橋の昼間の風景でも見て来ようと、散策に出発します。

昼のスィー・オ・セ橋とハル・ノート

途中で水2リットル(3000R)を購入し、めぼしい(=手頃そうな)宿に一泊の値段を聞きながら橋のたもとへ。

川の色のせいで何だかさえない写真だなあ…
10時半ごろ宿に戻ってきました。フロントには打って変わって若い女性がいます。いかがでっしゃろ?と話しかけると、何と「値引きは2万Rまで」との返事。なぜ前回の値段より悪化しているのかがまずよく分かりませんで、「いや、他にもっと安いところあるし。その条件なら本気で出ますよ」と迫ると、その女性はどこかに電話をかけ、「Final price」と出てきたのが3万R引きでした。ハル・ノートとまでは言いませんが、これは交渉決裂です。
もちろん何軒か見た感覚で、20万Rくらいでちょっと低いくらいのランクに泊まれると踏んでおり、そちらの方が得だと判断したのも事実です。しかし20万Rで泊まったとして、日本円で言えば約400円のためにそこまでするのかという疑問もありましょう。旅行者として合理性を欠く判断だと言われればそうかもしれません。ただ、2度目で態度を硬化させてくるような交渉態度に誠実さを感じられませんでしたし、そういえば前日におじさんが言い放った「部屋に満足すれば40万R払いたまえ」にもむらむらと不快感がこみ上げてきます。「まあホテルも外国人価格だからね」というRさんの言葉に偏屈な脳みそを支配されていた私は「日本のパスポートを持ってるからってホイホイ金を払うと思ったら大間違いだぜ!」と心の中で叫びながら、前日の宿代27万Rをサクッと支払って六甲おろし颯爽とチェックアウトしたのでした。ちなみに次の宿は朝食抜きでちょうど20万R。若干お部屋のグレードは下がりましたが、やっぱこういうのって気持ちの問題だよね、と呟きながら荷物を運びこんだのでした。
…てか観光しろよって話ですよね。すみません。

マスジェデ・エマームお前、残念な奴だなwwww

ちょうど正午ごろ再び宿を出て、エマーム広場に向かいます。昨日さんざん堪能したようなつもりになっていましたが、実は広場を囲む諸建造物を何一つとして訪れていません。とりあえずこれやろ!と向かったのは、これです。

マスジェデ・エマーム。「エマームの寺院」という意味です。イスラーム革命前は「マスジェデ・シャー(王の寺院)」と呼ばれ、まさにここエスファハーンに遷都したサファヴィー朝のシャー、アッバース1世の命で築かれたそうです。この建物の特徴は、内部が45度に傾いたその構造にあります。この写真からはちょっと見にくいかもしれませんが、ライトアップされた前日の写真をご覧になると分かりやすいかもしれません。
そんなユニークな構造なわけですから、中から見るとまた面白かろうと近づき、
*7
入っていくと…

何この濁った池とテントwwww

しかも左下ww昼寝自重wwwww
外から見るとあんなに美しいのに、入場料を払って入った内部のなんと残念な…お前残念な奴だな!!
さて、気を取り直して他の建物を見学しようと思ったので須賀、昼休みだか何なんだか中に入ることができません。そう言えば残念な奴マスジェデ・エマームでも、「もうすぐ閉めるから早く出ろ」って言われていたっけ。とりあえず暑さしのぎにお土産でも買おうと、近くの土産物屋を物色。特に逡巡もせずに、アケメネス朝ペルシャゾロアスター教アフラ・マズダなどをモチーフとした銅細工3つを計165000Rで購入しました。と言ってもイメージが湧かないで生姜、自室に飾るとこんな感じになります。

こういう部分では金に糸目はつけません。もちろん安い方がいいんで須賀。

老紳士とリップクリームを求めて

時刻は午後1時。

真夏の日差しの中で涼を感じさせてくれていたこの噴水も、しばらくすると止まってしまいます。私はいつしか、この美しい広場の風景を適度に離れた距離から眺めながら、ゆっくりと読書をすることを夢見るようになっていたので須賀、湿度が高くなく、カタールのそれとは比べ物にならないまでも暑いものは暑いわけです。直射日光を浴びて、ページをめくるより速いペースで体に熱がこもってきます。とりあえず涼しくなるまで宿に引き下がろうと出口に足を向け、屋内のバザールを通り抜けようとすると、立ち話をしていた1人の老紳士が話しかけてきます。「日本から来たの?」なんて会話はそろそろ割愛しま須賀、彼はというと30年間この町の高校で教えたという元*8教師。担当科目は文法だそうです。そんな彼と少しバザールを散策することに。私が通りの風景を撮ろうとカメラを構えると、老紳士はそれを持ちながらだと撮りにくいでしょうと、お土産の銅細工が入った黄色い袋を預かってくれました。

さあ、彼ですねwww
一通りバザールを回った後、私は彼にこんなことを尋ねてみました。
私「唇が渇いてしまったので、リップクリームを探しているんだけど知りませんか?」
老紳士「一緒に探してあげよう」
この唇の渇きというのはいきなり出できた話で須賀結構深刻で、湿度が低くて乾燥(しかもラマダン中であまり水を飲めない)→気になって両唇を擦る→唇が割れて出血→とりあえず舌で舐める→ヒリヒリしてくる→放っておくとバキバキに渇く→何かの拍子に出血→舌で舐める…という悪循環が続いており、対処は喫緊の課題でした。老紳士は初めから思い当たる店があるのかないのか、とにかくすたすた歩いていきます。その間お互いに身の上話だ何だでおしゃべりをしていたので須賀、その中で一番おもしろかったのは、イランの学校は全て男女別になっているらしいということでした。小中高が男女別というのは比較的イメージしやすいで須賀、なんと大学においても、同じキャンパス内で男女のエリアが区別されているんだとか。いやはや。
もう一つは彼が通貨のコレクションをしているという話。東欧のどこかの国の通貨も見せてもらいましたが、私がカタール経由で来たと聞いた老紳士は興味津々。譲ってくれというので、引っ張り出した10QR札1枚を差し上げました。その後で「日本のお札も1枚くれないか」と来たので須賀、ご存知の通り日本の最も価値の低いお札は1000円札です。イランの通貨に換算すると、約10万R。午前中に4万Rで大騒ぎした手前、それをおいそれと進呈するわけにはいかないので、「日本の札は10万Rの価値があるんだよね」と遠回しに拒否すると、「ならコインでもいいからちょんまげ」という返事。ただあいにく海外で持ち歩く財布に日本円は入れていないので、帰りに宿で渡す約束をしました。
これだけしゃべり終えたころには*9店に到着です。薬局のような店に入って購入したので須賀、ピンク色をしたこれ明らかに女性用で、11か月前の悪夢がここに再現されたのでした。てか22000Rって高いなw
購入後には2人で宿へ向かい、フロントの前で待つ老紳士に100円*10をプレゼントしました。
別れ際に「また涼しくなってから広場に戻ります」と告げると、「じゃあまた会うことになるんでしょうね」と老紳士。そんな言葉に安心してしまったせいか、別れの実感というのはあまり湧きませんでした。
宿では少し休憩。寝そべって吉川三国志を読んでいました。まぁ私にとって「寝そべって読書」は「頭痛が痛い」や「乗馬に乗る」と同じ語感を抱かせる言葉なんですけどねw
午後4時。再び出発します。途中公園みたいな場所を抜けて来たので須賀、そこで早くも飲み食いを始めている家族もいました。

こっちはきれいなマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー

再びエマーム広場に戻り、最初に訪ねたのはマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー。アッバース1世の命で造られたというのはマスジェデ・エマームと同じで須賀、こちらは王族専用だったそうです。

この青を基調とした美しい通路の先にあるのは、

外の光が柔らかく差し込むドーム。何やら撮影している人もいま須賀、

やっぱり寝ている人もいます(笑)
天井付近はこんな感じです。

出入り口がざっくり西の方角にあるので、出るときに日が差し込んだ様子がなんだかきれいでした。

どこかとは大違いで、建物内も何だか神秘的で心を打たれました。
ちなみにここでは、東京は蒲田に住んでいたことのあるという女性に声を掛けられ、一緒に記念撮影をさせてもらいました。「撮ってくれ」と言われた場合はここで紹介させてもらおう、という話を前日分でしましたが、その最大の例外は、私自身が映っている場合です。ちなみに後で見たら、唇が真っピンクになっていましたw

アーリー・ガープー宮殿と孔明の祈祷

お次はアーリー・ガープー宮殿。イラン初の高層建築とされるこの建物は、現在修復作業中のようでした。

実は入場したのが4時50分で、係員に「あと10分だからな!」と叫ばれながらの入場だったので須賀、まあ入ってしまえばこっちのものです。

狭い階段をトコトコ上がっていくと、最上階には音楽堂が。

天井付近のこの穴ぼこはただの飾りかと思えばさにあらず。これは音を適度に吸収するために計算して開けられたものだそうで、確かに赤ちゃんの大きな泣き声も、この部屋で泣いているときだけは反響がほとんどありませんでした。
そして圧巻だったのが渚のバルコニーで待ってて❤と思しき場所からの眺めです。

いつも御苦労さまです。…じゃなくて(笑)、こんな、

こんな、

光景が眼下に広がっているのです。ちなみにこの2枚の写真の中央付近にある黒い点は、鳥でもUFOでもイスラエル空軍でもなければパソコンの汚れでもなく、もっと言えばこれを読んでくださっているあなたの飛蚊症の症状の発露でもありませんで、どうやらというより恐らく、私のカメラレンズの汚れだったようです。これ見よがしに載せておいて興ざめですみません。。。
さてさて、肉眼ベースではこれでも十分壮観と言うべきなので生姜、もう一つほしいものがありました。そうです、噴水です。何とか水が噴き出さないかと祈祷をしていると…

と、東南の風だぁ!!み、水だぁ!!
孔明…奴は鬼神か…
孔明がどうだったかは知りませんが、私の場合は午後5時という時間に合わせて水が噴き出したと考えるのが自然でしょう。ということは閉館のお時間です。急かされるように階段を下りて外に出ます。

ムハンマドさんと「モジ」

さてさて。この日はRさんに紹介されたSさんと6時に約束がありました。その刻限まで約1時間。日差しも徐々に和らいでいます。この広場で読書するのは今をおいてない! その宿願を叶えんと池の近くに座り込み、再び吉川三国志の重たい全集本を開くや否や、背後から誰かを呼ぶ声がします。振り返って見ると、声の主は人のよさそうな若者2人。彼らが英語で話しかけた相手は、他ならぬ私でした。
若者「あのね、田原さんちょっといいですか」
私「えぇ、まあ」
近くの大学*11で英語を学んでいると自己紹介してくれたムハンマド*12さんと「モジ」さん*13。純粋に海外のことに興味があったようで、私とは対照的な文法的に正しい英語で、あれこれと質問攻めに遭います。本当にあれこれだったので忘れてしまったやり取りがほとんどなので須賀、日本に住むとなるとどのくらいかかるか、という問いには、広い石畳の広場を歩いて仕切って、「東京近辺なら、このくらいの広さの部屋に住むだけでも月に600ドルかかるよ」と説明。どの宗教を信じているのか、というなかなかな問いに対しては「宗教とか神様とか全然信じてねえよケケケケケ」と言い放ってやりたかったので須賀、子供のころから正月には初詣に行ってお盆に墓参りをし、クリスマスプレゼントにゲームソフトをもらい続けてきた自分に、ひとかけらも宗教心がないかと問われるとそう言い切るまでの自信も湧いてこなかったので、概ね後者のようなことを述べておきました。ちなみにこのような少なからずの日本人の宗教的態度について、少なくともムハンマドさんは知っていたようでした。多分そういう知識があったから質問したのでしょう。
今思い出してもワクワクするような2人との会話。その中でも一番脳裏に焼き付いているのは、ムハンマドさんのこんな質問でした。

アフガンとイラクの間で

ムハンマドアフガニスタンについてどう思いますか?」
実はムハンマドさんはアフガニスタンの出身。タリバンのせいで、家族と祖国を離れざるを得なくなってしまったのだそうです。彼が吐き捨てるように「タリバンはひどい奴らだ」と呟いたのを聞いた時には、由々しき事態ながらも率直に言えば心のどこかで遠い国の悲しいお話だと思っていた、ブラウン管や新聞紙の向こうにあるはずの国際ニュースが、今親しげに会話しているこの青年の身に実際に起こった(ている)ということに驚きを感じることしかできませんでした。しかし、奇しくも出発前に私が嘯いていたように、ここイランはアフガンとイラクの間に位置しています。ほらそこ、目の前にいるムハンマドさんは、私に向かって問いかけているのです。質問には答えなければなりません。恐らくお互いの人生の中でそうはないだろう日本人とアフガニスタン*14との出会いと会話の場において、何かを糊塗することは彼らに失礼であるという以上に自分が後悔してしまいそうです。私はこう言いました。
「残念ながら、多くの日本人はニュースなどを見て、アフガンは非常に危険な国だと思っている。もっと言えばここイランについても、似たようなイメージを持っている日本人は多く、私自身もかなり心配された。私はこの通り、もしかしたら日本より治安が良いのではと思うくらい安全に旅行をしているのに。イメージで『危険だ』と決めつけるのはよくないことで残念だ」
正直言って私自身も、アフガンは危険だという印象を持っていました。話を逸らしたといえばそうで、それがお前の弱さだと言われれば私として否定することはできません。彼の生まれた場所が日本で、著しいマイナスイメージとともに語られているだなんて本当は言いたくない。でも、そのこと自体は私として伝えるべきだし、事実として知ってほしいとも思う。一見相反するそんな気持ちの中で、そう答えたということです。
彼がどんなリアクションをするのか気にしていたので須賀、特に怒りも悲しみも驚きも特にはっきりとは表さず、「そうですか」というような反応だったと記憶しています。
私も一つ、彼に聞いてみようと思います。
「将来アフガンに戻るつもりなの?」
「もちろんそのつもりです」。この日一番ではないかと思うような快活さで答えてくれたムハンマドさんが、とても頼もしく見えました。
またしばらく話していると、2人よりちょっとガラの悪そうな青年たちが物珍しそうに私たちの方に寄ってきます。私に何やらペルシャ語でしきりに話しかけているようでしたが、もちろん意味は全く分からず。その内容があまり宜しいものではなかったのか、さっきの2人はこっちを見ながら苦笑しています。時計を見るともうすぐ6時。そろそろ潮時でしょうか。適当なタイミングで2人とメールアドレスを交換し、お別れをしてからSさんとの約束の場所に向かいます。明朝エスファハーンを離れるとすればこの広場ともお別れになりそうで須賀、携帯電話を持っていない状態で初対面の人との待ち合わせに遅れるわけにはいかない*15という焦りで、名残を惜しむ余裕はありませんでした。

Sさんとの夕食

もう一人のRさん

ちょうど6時。何とか待ち合わせに間に合いました。逆は恐らく不可能だったで生姜、この東洋人風の男はS氏にほどなく発見されました。
S「本当に来るのか不安になってRに電話したら、Rは『心配ない。彼は来る』と言っていた。とにかく会えてよかった」
と本当にほっとしたように話すSさん。私が遅刻したわけではないので須賀、彼が明らかに気を揉んでいたような様子だったので、とりあえず「ギリギリになってすみません」と謝りました。
さてこのSさんです。名前はRさんと同じ「R」。彼も兄弟とじゅうたん屋を営んでいると言っていました。長年埼玉県で自動車整備の仕事をしており、日本語での会話は全く支障ありません。再び日本に渡り自動車整備業を営むのが夢だ、と何度も語ってくれました。ちなみにルックス的にはRさんよりややイカツイ感じでもあるので須賀、この時は彼から危害を加えられるような懸念はほとんど頭をよぎりませんでした。
そんなSさんと、夕刻のドライブが始まります。

8合目で…

まずは、Sさんおすすめのメナーレ・ジョンバーン。「揺れる恋心メナーレ」という意味のこの塔は、その名前の通り揺れるんだそうです。町の中心部から車を走らせ程なく着いたので須賀、あいにく閉店のお時間。次へと向かいます。
お次はアーテシュガー。メナーレからさらに約3キロ先にあるゾロアスター教の神殿で、ササン朝時代のものだとか。実は私のお目当てはここで、着くや否や「えっ、登るの?」とやや引き気味のSさんをよそ目に、山頂にある神殿へ駆け出します!

Sさんをあまり長く待たせるのは申し訳ないし、さっさと登って降りて来よう。逸る気持ちに落とし穴がありました。山で言えば7〜8合目といったところでルート選択を誤り、あろうことかそこで足下の光景を見てしまったのでした。
・・・怖い。
全くその気がないとは言いませんが、日常生活で自分がいわゆる高所恐怖症であるとは思ってきませんでした。でもこの時は一度「怖い」と思ったが最後、途端に足がすくんでしまいます。足が小刻みに震えるせいで、いつの間にか靴の中に入っていた砂までもがその存在を主張し始めます。とりあえず座って落ち着こうではないか。一度岩肌にお尻をつけて深呼吸をして、周囲に足場になりそうな場所を探してから、いつだったか高校の滋木刺激的な数学教師に教わった三点支持の方法で原状復帰を目指します。ところがでもしかし、三点で支持したはずの自分の体重*16とは別の力が下方向にかかり、重心を移動できません。そうか、カバンだ。私が常に持ち歩いている小さめの肩掛けカバンには、一眼レフのカメラや飲み物、ガイドブックなど、バカにならない重さの荷物が入っています。それがリュックサックのように固定されるわけでもなく、片方の肩に下向きのベクトルを加えます。そりゃバランスも取れないはずです。とりあえずその地点から見える神殿らしき建物を写真に収めて、頂上から降りて来たと思しきスリッパ履きの小さな男の子に怪訝な顔をされながら、文字通りすごすごと音を立てながら退散したのでした。

こうしてSさんは、お尻を汚して降りてきた惨めな日本人を助手席に乗せ、夕食の準備ができているというSさんの家に向かいます。どうやらラマダンの夕食をごちそうしていただけるということで、期待に胸が躍ります。車中ではまたいろんな話をしてもらいました。なんとラマダンをさぼっている(=昼間に飲食している)ところを警察に見つかると怒られる*17とか、エスファハーンの水は石灰質であまり飲用に適さないとか、最近電気代が跳ね上がって大変だとか…。最後の話は日本などで言うところの「イラン核開発疑惑」とも密接に関わってきそうな話ですね。

ラマダンの食卓

午後8時。街に響き渡るアザーンの声を聞きながら、Sさんの家にお邪魔します。1階でレモネードとトルコ産というやや度の強いビール(!)をいただいた後、2階へ。2階にはSさんの親戚と彼女という2人の女性が待っていて、彼女らと4人で夕食を摂ることになったのでした。

まずは食前にチャイ。右はプルーンだったと思います。上にあるのは飴のような甘い食べ物で、これを食べてからチャイを飲むんだとか。甘いものを食べてからお茶を飲むというのは茶道と同じ原理ですね。

お次はこれ。左側が朝も出てきた薄いナンで、右のソースをかけていただきます。ソースはヨーグルトの酸味とカレーでしょうか?ちょっとスパイシーな味が印象的なこれまであまりお目にかかったことのないようなお味。なかなか美味しかったで須賀、この後出てきたナスのトマト煮の絶品さの前に若干かすんでしまいました。写真を見て思い出しましたが、そういえばこの時はじゅうたんの上にテーブルクロスを敷いて食べましたね。

言葉は通じなくても話は通じる!?

昼食は特に食べなかったとはいえ、見ての通りそれなりにお腹にはたまるお料理です。そろそろ食べる話はやめにして、その場の雰囲気についてお話ししましょう。その場にいたのはSさんと彼女さん、親戚の女の子、私、それに途中から彼女の妹さんも加わりました。女性3人は英語を話すことができない*18ようで、基本的にはSさんの通訳で彼女たちとコミュニケーションを図ることになります。そうなると、1人だけペルシャ語を解さない私は、必然的にいじりの対象になっていきます。「ねえ、あたしたち何歳に見える?」「日本の女の子とどっちがきれい?」。あろうことか、私は親戚の女の子について、その年を6〜7歳高く答えてしまいました。それとは別に(笑)私の所作で彼女たちの槍玉に挙がったのが、相手の話を聞いているときに「うんうん」と首を縦に振る癖でした。就職以前どうだったかはよく覚えていませんが、私に関して言えばある種の職業病として進行したこの症状は、どうやらSさんも癖として指摘を受けていたようで、どうやら彼女たちの中で「Sさんが会話中に首を縦に振るのは、日本に長くいたせいで日本人の習性がうつったのだ」という結論に至ったようです。
彼女の妹さんという方が来てからは、誰からともなく始まった動物のマネごっこがお互い大ウケで、幼いころに叔母から習ったダチョウは失敗でしたが、サル*19、ニワトリ、ネコあたりはご好評をいただきました。その妹さんの小鳥のマネというのがとても似ていて、何度やっても同じようにはできませんでした。みんなで指を鳴らす遊びもしたので須賀、彼らほどうまく指が鳴らない私が悔し紛れに右肩を鳴らす*20と、女性陣は本気で気味悪がって真顔で止めにかかっていました。あとみんなで一緒に、Sさんの日本時代の写真を眺めていました。
この辺になってくると、実はSさんの通訳に頼るシーンというのも減ってくるんですね。動物の鳴き声をマネすればお互い何を指しているのかは大体分かりますし、表情や身振り手振りである程度の意思疎通もできる。これまでの旅行で何度も感じ、またこのブログでもミニにタコができる耳にタコができるくらい述べてきたことかもしれませんが、非言語的なコミュニケーションというのはやはり馬鹿にはできません。歴史的に、そしてきっと今でも、お互い全く言葉が通じない人間同士のコミュニケーションがなされてきた(いる)だろうことを考えれば、当たり前といえば当たり前のことなんですけどね。以上、外国語が苦手な人間の自己弁護でした。

遺体をケータイで撮影?

あと三つほど、話題になったことを挙げさせてください。最初は「チュモン」です。個人的にはその語感に対して何がしかの感慨を抱くことを禁じ得ませんが、ここで言っているのは韓国ドラマ「朱蒙」のことです。私が日本人だと名乗った直後に親戚の女の子が「チュモンでしょ?」みたいなことを言ったようで、Sさんが「それは韓国のドラマだよ」と突っ込んでいた…みたいです。どこだか忘れたけど別のところでも聞かれた気がするので、イランで流行っていたのかもしれませんね。
二つ目は死と埋葬についてです。どういう話の流れだったかよく覚えていないので須賀、彼女さんの妹さんだったかが、親戚のおじいさんが亡くなったときの埋葬までの様子を携帯電話のムービーで見せてくれました。画質が結構粗かったので須賀、老年男性の遺体を洗っていたのは確認できました。遺体を洗うというのもなかなかイメージしづらかったので須賀、その何十倍も驚いたのは、洗われている遺体を近親者がケータイのムービーで撮影しているということです。これは「日本では」と言ってしまいそうで須賀そうすべきではないと思われますので、少なくとも私が見知っている範囲では、犯罪捜査など特別な理由がない場合、人間の遺体を撮影するということは忌避されているように思います。それが撮影という行為そのものに対するものなのか、あるいは撮影が頒布を前提とした行為であるからなのかと考えると、恐らく両方な気もします。いずれにせよキーワードとなりそうなのは「死者の尊厳」で生姜、じゃあ果たして、彼らは死者の尊厳を踏みにじるべく遺体を撮影しているのか。そんなことないよーでしょう。イスラームでは、最後の審判が行われる終末において、死者の肉体も復活するとされています*21。であればそんな肉体を、死んだとはいえ粗末に扱うとは考えにくい。遺体の撮影はその尊厳を貶めるためのものではないんだとすると、なぜ少なくとも私は、その行為に対して条件反射的に違和感を覚えるのか。そもそも、このケースはどの程度まで一般化して考えるべきなのか…。
確かにリアルタイムでは、ここまでのことを考えてはいませんでした。しかし、その現実をどう理解したらいいのか困惑する気持ちと、その生理的な違和感で、私の表情は思っている以上に険しくなっていたようです。親戚の女の子の「何か顔が怖いよ」という言葉を(もちろんSさんの訳を通して)聞き、ふっと我に返ったのでした。

初めての水タバコ

最後は水タバコです。これは時間的にはちょっと遡るので須賀、食事の後にお願いして吸わせていただきました。

親戚の女の子が吸っている写真というのもあり、歌麿の「ビードロを吹く女」みたいないい感じのものなんで須賀、Sさんの名前を伏せている関係上公開は控えます。ちなみに構造も説明してもらったので須賀、何だかよく分かりませんでした。どうやらタバコは上の方に入っていて、最上部の白い石が燃えています。木でできた先端から吸い込むことができます。
味としては、日本で吸うようなタバコよりかなり軽い印象で、最後に入れたフレーバーの液体がいい香りでした。私は日頃タバコを吸うことはないので須賀、特段煙がきついとも思わず、おいしかったです。これをみんなでまわして吸ったので須賀、次の人に回す前には最上部にかざして火で「消毒」するのがマナーのようでした。

「次はマシャドに連れて行ってあげる」

楽しい時間にも終わりは訪れます。帰りましょう、もう日付が変わりそうです。「今日は泊まっていけばいいじゃないか」「帰りにまた家に寄るんだよ」「次にイランに来た時にはマシャドに連れて行ってあげる。電車で行こう」。誰よりも別れを惜しんでくれたSさんが運転する車にみんなで乗り込んで、ホテルの近くまで送ってくれました。車中ではまた動物の鳴き声ごっこ。親戚の子は最初こんなにハイテンションだったっけか。
お別れの時には一人ずつ握手をしました。イランの男性は本当に頻繁に握手を求めてくるので須賀、女性とするのは初めて。握手をする前にSさんが女性陣に何か許可を与えるようなジェスチャーを取っていたような気もするので、もしそれが勘違いでないなら、男女の握手を制限する何らかの規範があったのかもしれません。
全員と握手を終えると、Sさんの車はもと来た道へと走り去りました。想像だにしない歓待をしてくれたSさん。昨日のRさんもSさんも、写真を見せながら日本の思い出や日本への思いを語ってくれました。彼らにとって私は、もしかしたら日本のことを思い出させてくれる触媒のような存在だったのかもしれないな、そう思いながら寝床に着いたのでした。
後日談を一つ紹介すると、日本帰国後も何度か、Sさんから電話がかかってきています。

*1:マネージャーとみられる昨日のおじさんは不在で、彼は雇われのスタッフだと名乗っていました

*2:勝手に復習すると、今晩Rさんの友人Sさんと会うため、エスファハーンにもう一泊することにしたのでした

*3:まあ彼の一存では決められないということは明らかだったので結果は変わらなかったと思いま須賀

*4:あるいは「おかあさんといっしょ」が△△という国の「□□」という番組の日本版と称されているかどうかは私は知りません

*5:恐らくムハンマドでしょう。偶像崇拝を避けるためと思われます

*6:と決めつけるには語学力が足りなすぎる

*7:この精密さと青の美しさには驚嘆しました

*8:確か

*9:ホントはもっとしゃべってるけど

*10:あまりケチだと思われたくなかったというのも正直ありま須賀、私がケチだったかどうかを彼が確かめるのはそう簡単なことではないでしょう

*11:エスファハーン大学ではないでしょうか。聞きそびれたけど

*12:例のごとく「石を投げれば…」です。彼は預言者を自称しているわけではありません

*13:「モジ」というのはニックネームだそうで、「こいつはモジ」と紹介された彼は非常に照れくさそうにしていました

*14:アフガンには様々な民族が住んでいることは知っています。これは「出身者」という意味で便宜的に使いました

*15:こちらは先方のケータイ番号を持っていました

*16:推定65kg

*17:罰せられるのか注意されるだけなのかは聞きなおしたので須賀どうもはっきりしませんでした

*18:もちろん日本語も

*19:日頃の挙動から勘案するに、似せる必要はあまりなかった

*20:右だけ腕を伸ばした状態でひねると常にゴキゴキ鳴るのです

*21:だから火葬を避けるとも言われていますね