かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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東経52度の旅―イラン・ラマダン紀行七日目 テヘラン市内

テヘラン市内観光

テヘランに到着

前日の夜にテヘラン行きの夜行バスに乗り込んで、車中で一夜を過ごしました。この日はそのバスの中で、空が白んでくるあたりから始めたいと思います。
午前6時ごろ。2度目のトイレ休憩のため、バスはサービスエリアに停車します。この辺から徐々に日が昇ってきました。これでやっと読書もできるわけで須賀、この時間の眠さといったらないですよねwww もうひと眠りさせてもらいます…
テヘランのバスターミナルに戻ってきたのは、午前8時15分ごろ。昨夜シーラーズを出てからまさに半日とちょっと。聞いていたよりは早く到着してくれました。

BRTでアーザディー・タワーを目指す

しかしこのことは別の問題も生みます。当初、テヘランに着いたらまず最後の宿探しをして、荷物を置いて観光でもしようかと考えていました。でもこの時間では、直行した場合に20日の宿泊客としてチェックインさせてくれるのかという疑問が生じます。まだ19日の客がチェックアウトしていなければ、入れてもらえなかったり2泊分の料金を請求されたりする恐れもあるわけです。そういう事態はなるべく避けようということで、遠めの観光地を回ってから宿に入ることにしました。あ、目指す宿は行きにも使ったハザル・シーです。やっぱ安さは大事ですよねwww
というわけで向かったのは、市西部にあるテヘランのランドマーク、アーザディー・タワー。1971年に「ペルシャ建国2500周年」を記念して建てられた高さ45メートルの塔だそうです。1971年といえばイラン革命前ですからパフラヴィー朝*1時代。2500年とはアケメネス朝を指して言っているのでしょう。以前紀元2600年と称して戦闘機を作った国もありましたが、やはり世襲を基本とする王朝を戴く国家は、こうした長い歴史性を強調することが正統性に資すると考えるのでしょうか。
おっと、話が逸れました。バスターミナルからは、地下鉄(2500R)とBRT(1000R)という交通システムを用いて向かいます。このBRTというのは、Bus Rapid Transitの略で、専用レーンを走る路線バスです。通りの中央部分がそのレーンになっており、バス停は改札を備えてさながら小さな鉄道駅のようです。車内は男女の座る席がポールで仕切られていました。そんなBRTに揺られながら、西のタワーを目指します。

ホールに広がる「ミニチュアイラン」

タワーに着いたのは午前9時半前。

どこから入るのかよく分からなかったのは内緒にして、中に入って行きましょう。入口で料金3万Rを支払うと、引きずって歩いていた大きなカバンをそこで預かってくれた上に、私一人のために英語を話せるガイドさんを付けてくれました。入場料が高いだけありますねw
内部では、いろんな宝石やイラン・イラク戦争などの写真*2、イランの技術力を示す(?)ロボットなどが展示されていました。部屋全体をイランの国土に見立てたホールもあって、動く歩道の左右に全国のランドマークなどがミニチュアで配置されており面白かったです。

ガイドの男性も、「あれが○○なんだけど行ってきた?」てな調子でいろいろと説明してくれました。エスファハーンペルセポリスは当然話題に上ったわけで須賀、検討しながら結局断念したヤズドに行っていないと言ったときの、男性のちょっと怪訝な表情が何だか印象的でした。

愉快なハイテク(?)ロボットたち

そしてここにいるロボちゃんたちも結構滑稽な奴らで、どういう仕掛けなのか「会話するロボット」と銘打たれたロボットは、確かに英語で話しかけてはくるので須賀、こっちが何を聞いても「I don’t know」の一点張りで、ガイドの男性も苦笑いしていました。

彼/彼女です。
もうお一方が、「ピアノを弾くロボット」。

彼/彼女は、私の訪れたタイミングではそのピアニストとしての技術を披露してはくれませんでしたが、その佇まいはある重大な疑問を私に抱かせます。それは、ロボットが音楽を奏でる際に、なぜ「人型ロボットがピアノを弾く」という形式を取らねばならないのか、ということです。そもそもピアノというのは、音楽を奏でるための道具、でありまして、ほかにもたくさんの楽器が存在することから明らかなように、音楽を奏でるという意味においては、ピアノがピアノたる必然性はありません。人がピアノを弾くのは、多くの場合音楽を奏でるという目的に対する手段です。
じゃあ彼/彼女はどうか。私が見た外見と受けた説明を総合的に勘案した限りでは、そのロボットとしての目的は「ピアノを弾くこと」であるようです。もう私が何を言いたいのかお分かりだと思いま須賀、要はこの機械、手段が目的化してしまっていると思われるわけですね。まあそんなこと私が指摘するまでもないわけで、ここに彼/彼女がいる目的の少なからずがテクノロジーの誇示なのでしょうから、「手段と目的を履き違えている!」と言ったところで特に意味はないから〜♪ので生姜、それにしてもやっぱりロボットというのは人型なんだなという、人間の想像力の性向というか傾向のようなものは何となく感じざるを得ませんでした。

初日の宿へ

そんなこんなで1時間弱見学し、再びBRTで市中心部に向かいます。地下鉄と交差するフェルドウスィー広場周辺に着いた時点でまだ11時にもなっていなかったので、散歩がてらと思い、そこから宿のある南方に向けて歩き始めます。ちょっとした距離のつもりで歩き始めたので須賀、ところがどっこい。ガイドブックの地図の縮尺というのを完全に見落としていて、すでにかなり高い位置に昇っていた太陽からの光線を浴びながら、徳川家康の人生のように、重い荷物を背負って3キロ以上の距離を歩く羽目になったのでした…orz
30分ほど歩いて、1日目に泊まったハザル・シーに到着します。今度の部屋は最上階で、初日の部屋よりかなり清潔でした。シャワーを浴びてから飲み水を探しに外に出るも、宿のあるアミーレ・キャビール通りに並ぶのは自動車用品店ばかりで、エマーム・ホメイニー広場に出るまで売店を見つけることができませんでした。
ちなみにここでは、ドゥーグと呼ばれるヨーグルトドリンクも買ってみました。

ヨーグルトドリンクには、日ごろから酒席の前や翌日などに非常にお世話になっておりまして、好きな飲み物の一つでもあります。戻った宿で期待を込めて口に含んでみると…うわっ、しょっぱい!!! あまりにも塩分過多だったせいで、彼は上の写真くらいの量を残して宿に放置されました。
買いだしを終えて宿に戻ってきたのが正午過ぎ。外はこれからが暑い時間です。昨夜もバスで仮眠しただけですし、この日は礼拝日である金曜日*3です。そもそもがラマダンであります。そんなわけで、日が傾くまでちょっくら休ませていただこうと、またもやお昼寝タイムに突入するのでありました…

「DOWN WITH USA」

再び出発したのは午後6時前。地下鉄で3駅分北上し、地上に出ます。方角を確かめようと地図を見ながらキョロキョロしていると、若い男性が声をかけてくれました。
男性「どこに行くんですか?」
私「いや、あの…、あ、分かったので大丈夫です」
男性「そうですか。この辺は地図とかもあまりアテにならないから、人に聞くのが一番ですよ」
私「あ、ありがとうございます」
彼が立ち去るのを横目に見て、ちょっと胸をなでおろした私。そんなにオドオドしてどこへ向かっているのかというと、イラン革命の際の「アメリカ大使館人質事件」で有名な、旧アメリカ大使館です。ホメイニ派が大使館員を人質にとり、前国王の身柄の引き渡しなどを求めたというこの場所。特に何か展示があったりするわけでもなく、ガイドブックには、中を覗き込んだり写真を撮ったりすると警察官に呼び止められることもある、とも書いてあったので、「どこに行くの?」と聞かれても「アメリカ大使館です」と即答するのは憚られたというわけです。
彼との会話中に、目の前に「DOWN WITH USA」とペイントされているのに気付いた(笑)私は、近くの売店で買ったペプシコーラを飲みながら、その区画を一周します。当該建物に面する壁には、イランの国旗やアメリカを風刺(中傷?)する絵が描かれています。その前を若者のグループが通りましたが、特段気にしている風でもなさそうです*4。でも、あまり立ち止まったり戻ったりして観察していると、もしどこかで警察官が通行人に目を光らせているなら当然不審がられてしまうでしょう。写真を撮るならヒット&アウェイです。幸いなことに私のカメラレンズは見た目よりかなり望遠がきき、たまに遠くの字を読むために使ったりもします*5。だから遠くからそれとなく撮って、そそくさと立ち去れば大丈夫なのではないか。
今から考えれば頭隠して尻隠さず的というか、警察官に見られてたら絶対呼び止められるだろというような格好で撮った写真がこちらです。


上の写真の絵で、自由の女神が骸骨みたいになっているのがわかりますか? そして下の写真はかつての入口周辺と思われるので須賀、右側に写っているバスの後ろにあるのが、私が出てきた地下鉄の出口ですw
こうして逃げてきたわけで須賀、見た感想を述べるにあたり、その場で書き残したメモがある意味秀逸なのでそのまま引用したいと思います。

イラン革命を生で見ていない*6ので、感慨というより「ワロタ」が正直なところ

私の感想を表現したという意味では、的確だったと思います。こういう歴史や背景があるからこういうものがある、という理解の仕方ではなくて、そこから遊離した反米の記号としての「DOWN WITH USA」として受容し、それが何だか滑稽だった、と言っているわけです。ただそれには私の予習不足というのも大きく作用していて、この人質事件そのものの顛末については、恥ずかしながら調べてみて「へえ」と思ったことも少なからずありました。昔からこの予習というものがあまり得意ではありません。さすがに旅程はあらかじめ立てますけどねw

ケバブをお持ち帰り

さてさて、逃げるように地下鉄駅に舞い戻った私は、今度は南下してバザールを目指します。もう特に買い物をする気はなかったので須賀、人が集まる場所には食べ物もあるだろうと、そちらを目当てに訪れたのでした。が、バザールであるはずの場所は驚くほど閑散としており、なぜだか大の大人が本気で笑いながら追いかけっこをしている声が、異様に響き渡っています。

あるモールの風景です。いくらラマダン中の金曜午後7時過ぎ*7だからって、これはさみしすぎでしょう。この徹底ぶりから、未だに「ここはバザールではない(かった)のではないか」という疑念すら抱いています。
こんな調子ですから、イラン最後の晩餐を食べられる場所もそう簡単には見つかりません。しばらくうろついた後、においにつられて入った食堂も「8時から」とのこと。それでも、しょぼくれて帰ろうとしたら店員さんがテイクアウトを勧めてくれて、ケバブとライス、ナン、サラダのセットを35000Rで詰めてもらえました。

まあ30分ぐらい待てば中で食べられたわけですし、実際夕飯を持って外に出で見るとぽつぽつお店が開きつつあったんですけどね。買ってしまった以上は持って帰って食べましょう。
そんなわけで部屋に帰って夕飯。写真ではケバブはライスの中に埋まっています。このライスというのが結構な分量で、右端のナンは明日の朝食用にと残しておくことにしました。
最終日なのにあっさりしている、という言い方もあるかもしれませんが、フリーで動いている以上、最終日だからあっさりしている、というくらいにしないと何かあったときに怖いんです。11時ごろ就寝しました。

*1:パフレヴィー、と習った気がするんですけど、今はこっちの方が多いんですかね?

*2:まあ国家的威信と関わるこうした施設にこの種の展示があるのはなるほどといった感がありますし、アメリカとの関係が近かったパフラヴィー朝時代に建てられた塔であるからこそ、それを倒した革命イランが、アメリカの支援を受けるイラクと戦ったこの戦争の写真が飾られるのでもありましょう

*3:世の中的に休みになることが多いそうなんで須賀、いわゆる「安息日」ではないんだとか

*4:たぶんこれはごく自然なことです。都心にある靖国神社の前を通る日本の若者の何割が、目の前にある建造物に対し、外国人が見てもわかるようなリアクションをとるでしょうか

*5:変なことには使ってませんよw

*6:同時代的に見てきていない、の意か

*7:まだ暗くなっていません