かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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東欧に独裁者の爪痕を訪ねて―アウシュビッツ・スターリンワールド旅行記二日目・アウシュビッツ収容所

クラクフ市内散策

久々の朝食

2日目は、コンテンツ的には一番のハイライトとなるだろうアウシュビッツ収容所の見学です。まあ「見学」と言っても「観光」と呼んでも、あるいは「遊びに行った」とさえ表現しても、言ってしまえばそういう呼び方の問題は実はそんなに大事だとも思わなくて、周囲の人を侮辱したり著しく気分を害したりさえしなければ、行って見てきて何を持ち帰れたかということが一番重要なんだと思いますので、まぁそんなに神経質になることもないのかと思うので須賀、とはいえやはり、ということなのか、この日は7時半前に自然に目が覚めてしまいました。とりあえず身支度をする間テレビをつけてみたので須賀、この日のクラクフの最高気温は8℃、最低気温は−4℃とのことでした。なんじゃそれ。
この高級なホテルでは朝食バイキングがついています。

実は日頃朝食を食べる習慣というのもないので須賀、ここぞとばかりにガツガツいただきます。ピッチャーに注がれたリンゴジュースはもちろんビールと勘違いしましたww

ショッピングセンターから顕彰碑へ

宿を出たのが午前9時。気温5℃の中、寒々駅へ。

最寄りのオシフィエンチム駅までの切符を買い求めます。値段は1人あたり9.5ズウォティとお手頃だったので須賀、発車時刻はなんと(?)10時45分とのこと。ここにいても仕方がないので街中を散策することにしました。まずは駅隣接の大型ショッピングセンター、ガレリア・クラコフスカにお邪魔します。

まあこういうところは世界のどこに行っても大して変わりませんやね。そして日曜の午前9時過ぎに開いている店というのもあまりないわけです。そんなわけで通り抜けます。
そこから旧市街に向けて南下すると、顕彰碑が見えてきます。

*1
2枚目の下の方に「グルンヴァルト」と書かれています。これを手掛かりに調べたところによると、これは1410年にポーランドリトアニア連合が、現在のポーランド北部のグルンヴァルト周辺でドイツ騎士団を破ったグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い*2 )を記念したもののようです。もちろんこれについては今の今まで知りませんでしたし、なぜそれがポーランド南部と言うべきここにあるのかも分かりませんが、あるいは当時の都だったから、ということなのでしょうか。
ちなみにこの前でイタリア人観光客の一団*3に声を掛けられ、頼まれるがままにカメラを預かって記念撮影をして差し上げました。せっかくだからと私のカメラでも一緒に記念撮影していただきました。

バルバカンを抜け旧市街へ

その奥にあるのがバルバカン。

1498年に造られたもので、要は門を守るための砦です。城塞マニアを自任する友人は激萌えです。

この門をくぐると旧市街。もともと旧市街は城壁に囲まれていたそうなので須賀、19世紀に取り壊されて緑地にされたんだそうです。そのため現在は旧市街を緑地帯がぐるりと囲む形になっており、景観的にも緑が両者を画する形になっています。

分かりにくいかもしれませんがこんな感じです。意図してのことではないので生姜、このようなバッファーゾーンがしっかり存在していることは、旧市街の世界遺産登録にとっても有利な要素だったでしょう。まあ1978年の登録ではそこまで厳しくは見ていないでしょうけど…
さてさて、門をくぐったこちらが旧市街の大通り。

奥で聖マリア教会が存在感を放っています…とここで見つけたのがこんな看板。

今村美術商さんでした。そのまま周辺を散策。10時を過ぎたころになって「近くのチャルトリスキ美術館ってとこにダ・ヴィンチの絵があるらしいぜ。明日は定休日らしいからそれだけ見ちゃおうよ」なんて話も持ち上がったので須賀、この美術館は見事改装中。ミーハーで底の浅い発想からはそれなりのものしか生まれないようで、そろそろ駅に戻ることにします。

何の撮影?


戻る時には門の前で音楽演奏が始まっていました。帰り道に見た(確か)スウォヴァツキ劇場は、花壇も含めて見ると壮麗な建物でしたね。

そしてその近くでは映像の撮影が。何やらヒンドゥーっぽい音楽を流しながら、男性がちょっと奇怪で面白い動きをしています。


お尻を向けてかがんでいた男性がくるっと回るというシーンを撮っていたようで、その中途半端なコミカルさが妙に笑えましたww

ついにアウシュビッツ

こうして駅に戻ってきたのが10時半ごろ。やはりと言うべきか、オシフィエンチム行きの列車を待つホームにはたくさんの人がいました。

念のためホームにいる人に確認すると「自分たちもオシフィエンチムに行くつもりだ」との返事。安心して列車を待っていたら、東洋人風の若い女性が友人に話しかけます。私には、それが中国語だということぐらいしか分からなかったので須賀、中国在住歴もある彼は、私にもかろうじて聞き取れる「日本人」という単語を用いながら呼びかけに応じ、楽しげに会話しています。この光景、春にも見たことがあるなあ… 中国語を、ということにはならないかもしれませんが、自分も一つぐらいこのくらい流暢に話せる外国語がほしいものです。

「旅の楽しみ」のはずが…

列車はほぼ定刻に発車。

こんな雰囲気の田園地帯を通り、目的地へ向かいます。この列車を降りれば、あの悪名高きアウシュビッツ収容所に着く。そこではどんなものが待ち受けているんだろうか。アムステルダムアンネ・フランクの家を訪ねた時、自分の身に沸き起こった圧倒的な理不尽さへの困惑の気持ちを思い出します。まさにユダヤ人がユダヤ人であるがゆえに、そしてナチスドイツにとって不都合と見なされたさまざまな人々が、それゆえに殺されていった現場に臨んで、果たして自分はどんな仕打ちを受け*4、どんな気持ちになってしまうのか。そもそもそこから自分の感性で何かを切り取ってきて、何らかの形で提示することができるのか… 後者についてはただの勉強不足に起因するという説もありま須賀、「それを見て、自分がどう感じるのか」という、これまでの旅行でずっと楽しみにしてきたことが、ここにきて妙に不安感を掻き立てます。しかしまあ、約1名の乗客がそんなことを考えていたとしても列車は急には止まれないわけで、2時間弱でオシフィエンチム駅に滑り込みます。そこからバス*5で約5分。

こんな何の変哲もなさそうな道を数分歩くと、アウシュビッツ収容所の博物館建物が見えてくるのです…

「殺人工場」―アウシュビッツ・ビルケナウ収容所

ガイドさんと内部へ

改めてこの施設が何だったかについて説明する必要があるでしょうか。1940年にポーランド政治犯を収容するために設立され、1945年1月のソ連軍による解放までにユダヤ人を中心に約130万人が連行され、うち約110万人が殺害されたとされています。博物館はアウシュビッツ収容所と、その近郊に位置する「アウシュビッツ2号」ことビルケナウ収容所で構成され、その広さは計191ヘクタールに及ぶそうです。
…能書きはやめにして、時系列で話を進めましょう。写真の建物がサービスセンターになっており、ここを抜けて収容所見学を始めます。収容所への入場自体は無料が原則なので須賀、ハイシーズンは混雑防止のため、有料ガイドを同伴しないと入れないこともあります。この日は日曜日。自分のペースで見て回りたいという気持ちが強かったので須賀、やむなく英語のガイドさんをお願いすることにしたのでした*6。私達のグループは、午後1時半ごろにスタート。若い女性のガイドさんに20〜30人の見学者がつき、話が聞き取りやすいようにかインカムをつけて施設内を回ります。

「働けば自由になる」


正門です。「働けば自由になる」と、まさに皮肉この上ない文字が掲げられています。ちょっと見にくいかもしれませんが、3文字目の「B」が上下逆になっているのは、作業をさせられたポーランド政治犯がとっさにやったドイツへの抵抗だったという話も伝わっています。
門をくぐれば、高圧電流の流れる有刺鉄線に隔てられた収容所の敷地内に入っていきます。内部はこんな感じです。

見るだけで陰惨さを感じさせるような光景が広がっているのかと身構えていたので、その小綺麗な様子に不気味さのようなものを感じます。一行は4号棟に入っていきます。もちろん私もそれに付いて行くので須賀、その中に交じって歩くことは早々に断念しました。もちろん率直に言って、急いでいるのかやや早口で説明を続ける彼女のペースに付いていくのはなかなかしんどい作業でした。やはり語学力というのは、使っていないとどんどん錆付いてきます。しかし重要なことは、私はここに英語のリスニング能力を鍛えるために来たのではない、ということです。彼女の話を聞くことは、恐らく私にとって有益でしょう。しかし、それ一辺倒になってしまうよりは、自分が展示や場の雰囲気から何を感じ、持ち帰ることができるか、そのことを大事にしてみようと思ったのです。飛んだ思い上がりの愚人と笑われるかもしれませんが、そう決めたのでした。

チクロンBと女性の髪

4号棟は写真や模型などの資料展示が主です。


その中にあるこれは、何だと思いますか? ビルケナウ収容所で集めた人間の灰だそうです。それを聞いた見学者のしかめっ面が印象に残っています。


これが悪名高い劇薬「チクロンB」です。解説しているのは我らがガイドさんです。
そしてこの建物には、女性のものであろう髪の毛の山が展示されています。これは(確か)人道的な理由で撮影しないようにとのことだったので須賀、収容所で殺された人々のものです。ドイツの会社がこれを使ってマットレスや布地を作っていたそうで、ソ連軍が収容所に踏み込んだ際、約7トンもの髪の毛があったんだそうです。しかし、そんなものを見せられても俄かには飲みこめません。殺した人間の髪の毛まで活用してやろうという神経が理解できなければ、そんなものを平気で使う感覚も理解できない。呆然とするしかありません。ただ、人間をモノとしてのみ扱い、その尊厳を全く顧みないやり方は当然非難に値するはずです。怒ったっていい、泣いたって構わない。でも、そんな感情は巻き起こりませんでした。やはりそれは、アンネ・フランクの家を見た時と同じような、自分の理解できる範囲を大きく上回った理不尽さに対する困惑の気持ちであったと思います。それでも、何か持ち帰れるものはないだろうか? ナチスユダヤ人虐殺に関する何を見ても「理解できなくて困惑した」としか言えないのでは、何らかの形で言語表現を業としようとする人間としては相当芸がありません。そもそも、3年半前にアンネの家を訪ね、収容所に関する『ホロコーストを次世代に伝える』(中谷剛) という本も読んでここに来ているわけで、初めてのことではありません。そんなことを考えながら、その展示の前を行きつ戻りつするので須賀、やはりどうもそれ以上のことが頭に浮かびません。いくらなんでもずっとそこにいるわけにもいかずにある段階で一行を追いかけたので須賀、それからしばらくの間、半ば意識的だったとは思いま須賀、見学者の女性の髪の毛ばかりを見ていた気がします。目の前で息をしている女性の髪の毛を見れば、展示された毛の山が、もともとは生きた女性に属していたということを感覚としても理解できるのではないかと思ったのです。でもそれも、なんだかうまくいきませんでした。

モノ扱いされた人間の尊厳

5号棟には、殺された人々の様々な所持品が展示されています。

メガネ。

トランク。名前も書いてありますね。

子供用品。首のあたりで折れた人形が痛々しく、何だかこの場所を象徴するようです。

靴、です。少なくともこれだけの人がここに連れられてきたことを物語る物証です。しかし、数の問題なのでしょうか? これらの展示は何かというと、ナチスはこれだけのものを収容者から奪い、使えるものは再利用していたということなのです。さっきの髪の毛のことも、死体から金歯を抜いて金の延べ棒にして、ドイツ本国に運んだなんて話も、極端な例で須賀、その範疇で理解することができます。そして後述すると思いま須賀、彼らは実に冷酷に、システマチックに、人間を直接に殺害し、または死に追いやっています。まさにこうした人間をモノとしてしか扱わないような考え方は、大量虐殺と分かちがたく結び付くものでしょう。ところがでもしかし、憎むべきは、たくさんの人を殺したことというよりは、人間の尊厳を全く顧みないこの収容所を貫くナチスの発想や哲学なのではないか。それは奇しくもドイツの哲学者・カントが言ったような「人格は常に目的そのものとして絶対的な価値を持つもので、単なる手段として扱ってはならない」という格率と見事に好対照をなします、か?? その意味において、私としてピントを合わせるべきだと思ったのは、「たくさん殺された」ことより、「人がこんなやり方で殺された」ことではないか。そう思ったのです。

一人ひとりの表情に

6号棟では、トイレなど収容された人々の強いられた暮らしぶりが垣間見える展示が。


しかしそれ以上に私の心を揺さぶったのは、連れてこられた人たちの写真が並ぶ廊下でした。これらは名簿に付けられた写真だったとのことで須賀、その下には、ここに来た日と死んだ日の日付が記されています。


彼らがこの地で過ごした期間の短さに慄然とさせられます。そして何より、彼らの表情です。なぜだかとても落ち着き払ったようなものもあれば、こちらがそう見るからそう見えるのかもしれませんが、どこかに憂いを感じさせるようなものもあります。緊張のなせる業なのでしょうか、ぎこちない作り笑いのようなものもありましたし、まるで自分の身にこれから何が起こるのか全く想像していないかのような、ちょっと目線があっていないようなものもありました。
しかしやはり、脳裏に焼き付いて離れなかったのは怒りの表情です。「ふてぶてしく」顎を突き上げる1枚目右下の男性。2枚目左の女性は、明らかに憤怒の表情でこちらを睨みつけています。実はこちらの女性の形相に射抜かれてしまったというのが、話の順序的には先でした。彼女が誰だとか、自分とどういう関係にある人間だとか、そういうものを度外視したところにある人間としての感情の発露に、私はたじろぎました。これは恐らく彼らの遺影でもあるわけで、それらにカメラを向けることには躊躇もありました。でも、それでも、この場所でモノのように扱われて死んでいった生身の人間たちが抱えた感情を表現しているのは、まさに彼らの表情だろうと、繰り返しになりま須賀、100万人が死んだのではなくて、一人一人の人格が踏みにじられていったんだと、そのことを伝えられるのは、この写真ではないかと思ったわけです。少なくとも私が今、ここで見てきたものの中で一番印象に残っているのは彼女の写真であると断言できます。
先に進みましょう。

「死のブロック」


10号棟と11号棟の中庭にあるこの壁の名は「死の壁」。ポーランド人をはじめとする数千人の収容者がここで銃殺されたそうです。続いて入る11号棟(通称「死のブロック」)は収容所内の刑務所で、臨時裁判所や飢餓室、立ち牢などが残されています。また、チクロンBでの虐殺実験が行われた場所でもあります。

これは集団絞首台と呼ばれるものです。読んで字のごとくという代物で須賀、1943年夏、脱走者の幇助や外部との「密通」の容疑をかけられた12人のポーランド人が絞首刑となったそうです。もちろんこれは見せしめの意味合いが強いもので須賀、逆にこの過酷な環境下で、収容所内に外から食料品や薬が送り込まれたり、収容者やSS隊員の名簿が外に流されたりといったレジスタンス的な動きもあったことも注目に値すると思います。

所長ルドルフ・ヘス

そして有刺鉄線の外へ向かいます。最初はここに多くの人が詰め込まれていた様子をどうしてもイメージできなかったので須賀、それが正しい像を結んでいるかはともかくとして、ここにきてやっと、70年近く前のこの場所の風景を想像することができるようにはなりました。出た地点の奥には、この収容所の所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘス*7の家が。ガイドさんによると、「彼は収容所のすぐ近くにあるこの場所で家族と幸せに暮らしていた」んだとか。その近くには、戦後逮捕されて死刑判決を受けた彼の絞首台も残っています。

ここを死に場所と定めたのは、悪く言えば見せしめでしょう。ただ、ここで彼が死んだことが何に対して落とし前をつけたことになるのか、事がこの規模に及んでしまうと感覚的によく分かりません。
彼は処刑前、『アウシュビッツ収容所:所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』にこのようなことを書き残したそうです。「この命令*8には、何か異常な物、途方もない物があった。しかし命令という事が、この虐殺の措置を、私に正しい物と思わせた。当時、私はそれに何らかの熟慮を向けようとはしなかった。私は命令を受けた。だから実行しなければならなかった」「私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ」「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュビッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを」…*9
これが彼のしたことの言い訳として通用するはずはありません。ガス室の間近に住んでおいて、自分の管理下にある施設の何を知らなかったと弁明するつもりなのでしょうか? でもしかし、これは彼への同情ではなく、彼が本当に知らなかったことがあるとすればそれは何なのか、日々どんなことを考えてここに住んでいたのか、私は知りたいと思います。そのためには彼の言い分だけでは難しいでしょう。それでも、実際に彼がどんな心理状態にあったのかについて内在的な理解を目指すことは、月並みな言い方で須賀、こうした過ちを繰り返さないためにも大事なことなのではないかと思うのです。

遺体を焼いたゾンダーコマンド

そして、ガス室と焼却炉のある建物です。


こうした作業の多くは、ゾンダーコマンドと呼ばれるSSにとって「役に立ちそうな」収容者らが担ったそうです。「いずれは全員殺されるんだ」と感じ、「それなら一日でも長く生きていたい」と同じ収容者の遺体を焼いた彼ら。ヘスと同列に論ずることはできないで生姜、果たしてどんな思いでいたのでしょうか。

ガイドさんはツンデレ

アウシュビッツ収容所の見学はこれにて終了となります。時間にして約2時間。肉体的にというより、精神的に疲れてしまった気がします。完全に昼食時間帯は外してしまっているわけで、食欲も湧きませんが、とりあえず何かしら食べておこうということでハンバーガーをいただきます。パンに歯ごたえもあってなかなか美味。友人も「これがマックで売ってたら買うわ」とお気に召した様子でした。
ただまあここで終わりではありませんで、その噛み切りにくいハンバーガーを必死に食いちぎって無料シャトルバスに乗り込みます。向かう先は「アウシュビッツ2号」ことビルケナウ。「これから希望者はビルケナウまでご案内します。…べ、別にアウシュビッツに残るのもあんたたちの勝手だし、一緒に来てほしいだなんて思ってないんだからね!」とツンデレみたいなセリフを吐いて、参加者の失笑を買っていたガイドさんに便乗させていただきました(笑) 逆に言うと、この場所で私が笑うことができたのはこのシーンぐらいのものです*10

ビルケナウの鉄道引き込み線

ビルケナウ収容所で特筆すべきはこの広大さでしょう。

ここに300棟以上のバラックが並んでいます。

この鉄道引き込み線も、ここで行われたことの意味を象徴しています。収容所の歴史の後半において、ここは到着した人々の「選別」が行われた場所でした。東欧へ移住させられるだけなどと信じていた彼らは、この場所で労働力になりそうかどうかを基準に2列に分けられます。高齢者や病人、妊婦、幼児など、7割以上が「使えない」列に並ばされたそうです。そして彼らは「シャワーを浴びせる」という口実でガス室に誘導され、服を脱いで「シャワー室」へ。そこにはシャワーが取り付けられてはいるものの、そこから水が出たことはありません。代わりに上から降ってきたのが…
働けそうな奴は働け、そうでない奴は死ね。金めのものは先に外しておけ。金歯も髪の毛も再利用させてもらうぞ… 連行した人たちをモノとして扱い、自分たちにとって最も都合のいいように使ってから殺そう。人間の尊厳を全く顧みないその発想から言えば、これら収容所で行われていることは極めて合理的だと言うこともできるでしょう。殺人工場。この場所に与えられた比喩として、まさに言い得て妙という気もしま須賀、私などが「殺人」という言葉に自然と込めてしまいかねない倫理的な意味合いは、恐らく内在的には彼らと共有できないのかもしれないとも感じます。その意味では、ここは彼らにとって、自分たちより劣ったヒトという動物を原材料にした文字通りの工場であったのかもしれません。


上からトイレとベッドです。この木造のバラックはもとは馬小屋だったそうで、しつこいようで須賀、ナチスが収容者を何だと思っていたかが示唆されるようです。

人権の普遍性を対極の地に見る?



鉄道引き込み線の奥には、ガス室・焼却炉として用いられた建物の瓦礫が残されています。これはドイツの敗色が濃くなってからSS隊員が爆破したものだそうで、まさに「証拠隠滅の証拠」として今に残っています。
ちょっと話はそれま須賀、見学者は2枚目の写真のように、真剣な表情でツンデレガイドさん(黄色の上着)の説明を聞いています。一緒に回ったグループの人たちが何カ国ぐらいから来ていたのか分かりませんが、さまざまな国で、さまざまな文化の中で価値観を形成してきた人たちなのでしょう。そして彼らが、時に私がいやだなあと思うところで顔をゆがめ、真剣に説明を聞こうと思うところで同じように耳を澄ましている。そんな様子を見ていると、私が人権と呼ぶところのものについての感覚を少なからず共有できているのかなあと感じるシーンも見学の中ではありました。確かにここにいたのが世界の全員ではありませんし、私が持っている人権感覚の普遍性を過信し、振り回すようなことは望ましくないとも思いま須賀、ある種人権という言葉が意味するものの対極にあるような場所に来てみると、その中に何らかの普遍性はあるんじゃないかと感じましたし、そう信じたくなるものなのかもしれません。いつもと言ってることが違うかもしれませんがww
あと少しですので見ていきましょう。これはその近くに設けられた慰霊碑です。

こちらは引き込み線の端に置かれたイスラエル国旗。

ここで殺された人の大半は、民族的にはユダヤ人でありました。この駄文では、収容所の「殺人工場」としてのあり方について多くの記述を割きましたが、その根っこにあった特定人種に対する根深い差別という問題を無視するわけにはいきません。
このビルケナウ収容所。その面積もやっていることもスケールが大き過ぎて、結局うまく飲み込めなかったというのが正直な感想です。破壊されたバラックが多いことも関係あるでしょうか。

期せずしてヒッチハイク

前の写真を見ていただければお分かりかとも思いま須賀、敷地の奥から正門に戻ってくるだけでも結構な距離を歩くことになります。なんとか午後5時のアウシュビッツ行きの終バスに乗り、入口の前へ。もう閉店にしたそうな土産物屋に寄って、日本語の資料2冊を18ズウォティで購入。この日の分は、この2冊がなければ書きあげることはできなかったでしょう。それ以前の問題として、「案内書」と書かれた小冊子は手に入れてから見学することをお勧めしますw
そうしてこうして、この旅行の山場の一つ、アウシュビッツ見学を終えます。オシフィエンチム駅までは2〜3キロメートル。どうやって戻ろうか、なんて話しながら通りに出ると、ちょうど良くバス停がありました。しかもどうやら、クラクフまで行くバスも発着しているらしい。現地の人も何人かいて、英語は通じなかったもののクラクフに行けるということは教えてもらえたので、5時半過ぎには来るみたいだねと待っています。だんだん肌寒くはなってくるので須賀、それらしきバスは来ません。違う方向に行くバスは、彼らに「クラクフ行きは6時だよ」と言い残して走り去ったようです。待っているうちにまた何人かその場に加わります。お互い寒さと手持無沙汰さを共有していることを察知しながら、6時のバスを待ちます。
6時になるかならないかという頃。バスというよりはバンのような車がやってきました。フロントガラスには「クラクフ」と大書された紙が掲げられています。「おっ、来た!」そう呟くのとどちらが早かったでしょうか。そのバスはバス停の前でも全く速度を緩めることなく、何事もなかったかのように走り去りました。
ここで一同焦り始めます。現地の人と思われるグループは、バスを前に別れの挨拶まで済ませていた分ショックも大きかったのか、おじさんが近くに停めてあった車におばさん2人を乗せ、走り去ります。これまた残った一同唖然だったので須賀、要はおじさんは見送りに来ていたということなのでしょう。バスが来そうにないので駅まで送ることにしたのでしょうか。あとから来たマダム達とは英語が通じたので、「あいつらは何だったんだ」「てかどうやって帰ります?」と相談を始めます。前述の通り、駅までそう遠いわけではありません。私達は7時過ぎが終電ということも調べていたので、別に歩いて行ってもよかったわけで、というより初めから歩いた方が早かったわけで、そうすることももちろん考えていました。そこで友人が一言。
友人「ちなみに駅まで歩くのとかは考えてないんすか?」
マダム「3キロ歩くとか無理」
まあ確かに、歩くのは苦手そうな雰囲気の方でした。
そんなことをやっていると、さっき行ってしまったはずのおじさんが1人車で戻ってきて、私たち2人に対して何やら話しかけてきます。これは状況的に恐らくポーランド語と思われるので須賀、私が学んだことのある言語*11や、意味内容は分からないがそれが何語であるかは判別できる言語*12のリストには確実に入っていなかったので、とにかく全く話が通じません。おばさんたちを送り届け、戻ってきて私達に何かを訴えている…
「この人、オレたちを駅に連れて行ってくれるって言ってるんじゃないの?」
友人がとっさにそう口走ります。確かにそうかもしれない。それならこれまでの彼の行動にも一筋仮説は立つ。ただ、それを支持するような状況証拠が出てこない。trainやstationといった英単語にも、あまり反応が芳しくありません。
「多分そうだよ、乗っちゃおうよ」
直感的に、このおじさんに悪意はない。しかし…まぁ、乗るか(笑)
ということでおじさんの車に。乗り込むや否や、おじさんはかなりのスピードで車を走らせ、昼間に見たことのある駅の前で私達を降ろします。そして彼も、発車間際の列車のホームへ。
絶体絶命の危機ではありませんでした。でも彼は、「このバス停にクラクフ行きは来ますかねえ?」なんてことをガイドブックを指さし尋ねてきただけの言葉の全く通じない東洋人を、駅まで送り届けてくれました。電車に乗り込む時、せめてもの感謝の気持ちを伝えようと「サンキュー!」や「ヂェンクゥイェン*13!」を繰り返したつもりなので須賀、やはり反応は芳しくありません。思わず手を取って両手で握りしめると、驚きと困惑が少しずつ混じったような様子。でもどんなに発音がまずくても、気持ちを伝えることはできたのではないかと思います。

夕飯はジューレックとピエロギ

乗った電車は午後6時18分発。行きとは違ってかなり古い車両でした。約2時間でクラクフに戻ってきます。
あとは夕飯を食べて撤収でしょう。

こちらの「ウ・バブチ・マリニ」なるポーランド料理のお店。セルフ式で注文が若干大変でしたが、36ズウォティでこんな食卓に。

右はレバー肉とポテト。真ん中は「ジューレック」というスープ。左は「ピエロギ」なる餃子のような料理。ジューレックは酸味があってとても美味だったので須賀、ピエロギは食感がモサモサしていて、不味いとまでは言いませんがあまりおいしいとは思えませんでした。写真ではそう見えないかもしれませんが、右端のポテトが結構重たくて、この量を2人で食べるので結構いっぱいいっぱいでした。
帰りはスーパーに寄って宿へ。スーパーにはピエロギがたくさん売られていました。1リットルくらいの水が1.3ズウォティで売られていたので迷わず購入。荷物が多少重くなっても、水は持っておくべきでしょう。
日付が変わる頃、就寝。前日とは違った意味で長い一日となりました。

*1:さっきとは逆方向です

*2:第一次世界大戦のものとは別です

*3:と言っても数人

*4:もちろん働かされたり殺されたりはしないわけで須賀

*5:2.4ズウォティ

*6:40ズウォティ

*7:ナチスに関係するルドルフ・ヘスさんと言えば、彼とは別の有名人がいらっしゃるそうですね

*8:アウシュビッツユダヤ人根絶センターにせよとの命令

*9:太字筆者

*10:もちろん「アウシュビッツでは笑ってはならない」なんてくだらないことを言うつもりはありません。ここに来ている人たちの気分を一方的に著しく害するようなことがなければ構わないと思います

*11:英語、韓国語

*12:中国語など

*13:ポーランド語で「ありがとう」