かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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『先生、どうか皆の前でほめないで下さい-いい子症候群の若者たち』(金間大介)

【目次】

 

真面目で素直だけど・・・

モチベーション・イノベーションの研究者である著者が、さまざまなデータや自身の教育経験を踏まえて「いい子症候群」と名付けた若者の傾向を論じた本です。

具体的には「真面目で素直だけど打たれ弱く、何を考えているか分からない」という上の世代からの評価から始まり、いずれも自身のなさに起因する「とにかく目立ちたくない」横並び意識の強さ、変化を好まず決断や挑戦を避け、守り一辺倒の内向き思考に陥っている(とする)ありようを、ジョークや愛ある皮肉を交えつつ紹介しています。一方で、若者たちがそうした傾向を持つに至った理由は「若者が育ってきた日本社会がそうだからだ」「大人がそう見せつけてきたからだ」「自分が出来もしないし、やりもしないことを、若者に押し付けるなんて搾取以外の何物でもない」と喝破してもいます。

冷静に読むには面白すぎる

本書が「近頃の若い者*1はみんなこんな調子で困ったものだ」というような雑な括りをしているわけではもちろんありません。著者自身の教育経験の中で、そうでない学生たちにも少なからず出会ってきたことが述べられていますし、上記のようにこれが「若者」だけの傾向・問題ではないことを明確に主張しています。

ただ一方で、「近頃の若い者は(ry」を典型例とする世代論や性別・(国籍や「人種」を含む)地域・(最近さすがに聞かなくなりましたが)血液型といった属性で人間を対比区分させる議論は、時に非常に強力です。「こちら側/あちら側」にハマらない人も少なからずいて、たまたまそうでなくても、その複雑な組み合わせの中で個人はまさに固有のものになり、恣意的な集団もどんどん中身は多様になっている*2のが今の社会だと思っていま須賀、そこに本書の議論が放り込まれた時、そのあたりを冷静に踏まえて読むには内容的にも筆致的にも面白すぎるのではないか。そこはちょっと心配です。

*1:そもそもそれは何歳から何歳くらいまでを指すのか?

*2:『アイデンティティと暴力』(アマルティア・セン)など参照

「コロナ重症化遺伝子はネアンデルタール人起源」説/『人類の起源』(篠田謙一)

【目次】

 

弥生人」は「縄文人」の親戚だった

古代DNAから人類の起源を探る試みについて、2021年までの成果をまとめた本です。近年急速に発展している研究領域でもあり、人類の歴史をさらに知るための新たな有力アプローチとして、個人的にも関心を持っています。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

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別著も複数読みましたが、今回の一冊は全世界的な視野でよくまとまっていると感じます。

やはり文献や出土品が残っていない時代の人類の行動に示唆を与えてくれる点が非常に興味深く、もはや有名な話になりつつありま須賀、アジア系含む少なからずの現代人はネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいることが明らかになっており、新型コロナ感染を重症化させる方向に働くウイルスが、ネアンデルタール人由来である可能性も指摘されているそうです。

また、日本人に関して言えば、縄文人弥生人の「二重起源説」が有名で須賀、

  1. アフリカから最初に拡散してきたホモ・サピエンスが、東南アジアから北上した際、沿岸部に住んでいた人が(日本で言うところの)「縄文人」の母体となった
  2. これまで「弥生人」と呼ばれた人たちも、(日本で言うところの)「縄文人」と同じ系統の集団が中国大陸の農耕民と混合したものであり、つまりはそもそも一定の近縁性のある人たちだった
  3. 弥生中期以降にも多くの渡来があった
  4. アイヌの人たちは沿海州との遺伝的交流があり、「縄文人の末裔」とは言えない

・・・といったシナリオが浮かび上がってきています。

人類史の複雑さを暴く

こうした研究成果が人類の交流の歴史の複雑さを解明していってくれることは、時に「自民族の優秀性」やそれを下敷きにした排他性といった言説が広まりがちな現代において、非常に意義深いことだと思います。また、「集団同士の遺伝的な差よりも、同じ集団間の個人差の方がはるかに大きい」との指摘も重要でしょう。

人間にとって遺伝子やそれによって発現する形質が全てではないのはもちろんで須賀、科学的な知見を押さえておくことは、(特定の人や集団を貶める)それっぽいデマが拡散するのを防ぐのにも大切なことです。

いずれにせよ、この分野に「世界史研究の最先端」の一つがあるのは間違いありませんので、興味がある方にはおすすめです。

『だから僕たちは、組織を変えていける』(斉藤徹)

 

時代の転換点に立つ個々人が、内部でどんな立場であれ、その組織を変えていくための考え方や方法論が詰まった本です。

知識社会において求められる組織像(顧客の幸せを追求し「学習する組織」・社会の幸せを追求し「共感する組織」・社員の幸せを追求し「自走する組織」)を実現するために、

  1. 心理的に安全な場をつくって、人間関係の質を上げる
  2. 仕事の意味を共有して積極性を高め、思考の質を上げる
  3. 自律性・有能感・関係性の3つの心理的欲求を満たして自律性を高め、行動の質を上げる

・・・ことで自然と「結果の質」が高まり、それが関係の質をさらに高める「成功循環モデル」の構築を目指します。そのための手法を、さまざまな学問的知見も援用しながら紹介しているのです。

一度通読して明日から自分の行動に反映できるほど簡単な内容でも、薄っぺらでもありませんが、これまでの自分の行動と照らし合わせて考えられた/考えざるを得なかった部分からでも知見を取り入れていきたいと思います。

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を読んだ時にも同じような感想を持ちましたが、その場その場で自分が抱えるタスクや課題によって、この本から得られる学びも変わって(増えて)いくのだろうと感じます。現時点では、面倒なやりとりが多い人やどうもうまく仕事が回っていない人、近い人、遠い人、優しい人、冷たい人、好きな人、イヤな人・・・みんなみんなありがとう♪みんなに対して、まずは真摯に接し、仲間として頼りにし合っていかねばならないということでしょうか。

こう言うと、いささか偉そうに聞こえるかもしれませんが、自分がその仕事でどんな立場であれ「影響の輪」を広げていくことが重要だと著者は説きます。その意義自体を否定するつもりはありませんが、マネジメント側の能力・努力不足の免罪符にしてはいけないとも思いました。

『武田三代』(平山優)

【目次】

 

三代記の決定版

武田信虎・信玄・勝頼という三代の興亡を紹介する決定版と言ってよい一冊です。

甲斐国内外入り乱れながらの戦乱を戦い抜き、統一された甲斐と首府・甲府をつくりあげた信虎。巧みな調略と戦術、外交を繰り広げつつ領土を拡大した信玄。父以上の武勇を示しながらも、周囲の敵に翻弄されつつ信長に滅ぼされるに至る勝頼。それぞれの事績を丹念かつ平明に追っています。

外交を仕掛けた信玄、翻弄された勝頼

やはりどうしても考えたくなるのは滅亡の要因です。当初、諏訪家を継ぐことが想定されていた勝頼と信玄時代の重臣たちの距離感*1はもちろんあるでしょうが、やはり外交のファクターは大きかったように思います。

御館の乱*2で景勝ではなく北条氏政の弟・景虎を支援しておけば武田・北条・上杉の三国同盟が成り立って織田と対峙する余地はあった」という説はよく言われま須賀、勝頼と氏政のコミュニケーション不足が甲相同盟の破綻に繋がった経緯が本書に詳述されています。読むにつけ北条氏政の力量の低さはこちらがイライラするほどでしたが(笑)、そんな北条でも、背後で敵対されるのとそうでないのとでは大違いなわけです。

また、織田信長側にメリットのない和睦を模索し続けて、結果的にその間に武田攻めの準備の猶予を与えてしまったのも大きな失態だったでしょう。父・信玄は特にその晩年、外交攻勢を仕掛ける側として、信長や謙信を揺さぶってきました。適切な外交には情報力・洞察力・構想力が必須だと実感しましたし、そこが父子の差だったように感じられます。

「決勝ラウンド」での失敗の重み

しかし、木曽義昌の寝返りから雪崩を打つように戦国最強と謳われた武田軍団が崩壊していき、本格的な決戦すらなく滅亡まで至った経過は、先代2人の積み上げてきたやり方について読み進めてきただけにショッキングですらありました。

信虎と信玄は城を一つずつ攻略し、信濃の各郡に拠る地元勢力を少しずつ従え、あるいは倒していったわけで須賀、勝頼の段階では数カ国を統べる大勢力となったからこそ、その主を倒せば領国がまるっと手に入ったわけです。かつて信玄も手痛い敗北は2度喫しているわけで須賀、戦国時代も「決勝ラウンド」に入ってくると、一つの合戦での敗北や外交的失敗の影響は、格段に大きくなるということなのでしょう。戦の勝ち負けだけでない、生きた時代という意味での「時の運」もあったのかもしれません。

*1:滅亡時に奮戦したのは武田譜代ではなく、諏訪や高遠の家臣たちだった

*2:上杉謙信死後の養子間の争い

ブロジェクトも折り返し地点に/『文系AI人材になる』(野口竜司)

 

「文系」云々はともかく(私はド文系で須賀)、エンジニアとして作るだけではない「AIとの仕事の仕方」を紹介してくれる本です。AIとは大まかにいってどんなものか*1、AIをめぐる(開発以外の)仕事にはどんなものがあるか、AIがどのように活用されつつあるか、などを噛み砕いて説明しています。

AI技術だけで社会変化がもたらされるのではなく、それを使う側のアイデアと実行力で推進されていくものだ、という指摘はメディア論的とも言えます。

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そしてそれを担う営みの広範さは、AIのみならずシステム開発・導入全般に共通するものだと感じました。

こちらでは、システム開発の全体像を示しながら、(こちらも)「文系」管理職が陥りがちな失敗をいかに乗り越えていくべきかを指南しています。まさに私自身、この1年少しの間に通ってきた道筋が明確に記されていて、「PMに指名された時点で読みたかった」と苦笑いしながらページをめくっていました。

どちらにも言えるのは、当たり前で須賀「何がしたいか/すべきか」があって、その解決策としてシステムやAIの導入・運用があるということです。それも自分や仲間内ではなくプロジェクトとして、さらには社としてすべきことを擦り合わせて、可視化してからでないと解決策の検討には入れません。それを今後どこまで生身の人間が担っていくかはともかく、その役割の重要性は薄れないのだろうと思います。

 

1年余り取り組んできたCRM戦略・システム構築のプロジェクトは、先月末に前半のヤマ場を越え(積み残しや不具合に対応しながらですけど)折り返し地点にきたようです。労務的にはなかなか厳しい局面もありま須賀、仕事をしながら新しいことにどっぷり浸かって学べること、興味を持つきっかけを与えてくれたこと、そして相変わらず技術に疎い人間を辛抱して起用し続けてくれていることには感謝すべきかなと思っています。引き続きこれを機会と捉え、謙虚に取り組みたいと思っています。

*1:基本書としては

『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊) が面白かった覚えがあります

『焼酎の履歴書』(鮫島吉廣)

 

もうアル中と名乗るほど飲んでいるわけでもありませんが、実は焼酎自体について何も知らないなと思い至り、紐解いてみました。

さつま白波」というゴツい芋焼酎で知られる薩摩酒造に長年勤めた著者が、芋焼酎を中心とした焼酎の製法や歴史を、東アジアまで視野を広げて論じた本です。

ごくごく簡単に言うと、日本酒・ワインなどの醸造酒を蒸留すれば米焼酎・ブランデーなどの醸造酒ができます。元々はそうやって米焼酎を造っていたようで須賀、米作に適さない南九州ではサツマイモを用いるようになりました。ただこれが蒸すと甘くなって腐りやすいことから、酵母が増殖した後にサツマイモを加える「二次仕込み法」を編み出し、また琉球伝来の黒麹を用いるようになったことで、明治後半ごろに現在の芋焼酎造りのベースが出来あがったとのことです。

沖縄・朝鮮半島・中国・台湾などの伝統的な酒造りについても紹介されており、私のように専門的知識のない「飲む専門」の人でも興味深く読めるポイントはあるのではないでしょうか。

著者は薩摩酒造を退職後、大学で「焼酎学」を教えるなどその道では著名な方だそうです。最初に触れたように、「さつま白波」は芋臭いイメージで敬遠していました*1が、今の四合瓶が空いたら買ってみようかと思います。

 

こちらの本も流し読みしました。

 

*1:黒伊佐錦」あたりを常飲しています

『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)

 

現代イギリスを代表するノーベル文学賞作家の代表作です。

自然豊かな学園寮の描写から始まっていくので須賀、「何かが違う」雰囲気もまた序盤から漂っています。密な人間関係を育む同級生同士の機微が丁寧に語られつつも、徐々に明かされていく奇怪な世界観に慄かされました。

薄々予感されていた結末は、最終盤にはっきりと明かされることになります。人は皆いつかは死に、それが満足のいく形で訪れるかどうかは全くもって保証の限りではないことはある意味共通しているはずです。それでも、他人の犠牲になることがそもそも運命付けられており、しかもその関係の断絶が明白に存在する不条理は覆い難いものでしょう。

最後のあたりを読み進めながら「察しの通りなら、それをはっきり明かさなくていいのでは?」と思ってしまったのは、それが「やはり」突きつけられてしまうのが嫌だったということでもあったのだと思います。

その意味では、相当エグい物語です。ただ、それが意外なほど迫り出して来ず、同じく10代で寮生活を送った経験がある者が(イギリスに行ったことすらなくても)ある種の懐かしさすら感じたのは、やはり最初に述べたような細やかな筆致故なのだとも感じました。