かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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『アイデンティティと暴力』(アマルティア・セン)

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

今年の初めだったでしょうか。前任地でよくお邪魔していた小料理屋さんで、隣に居合わせたある男性と話をさせていただきました。彼は仕事の関係でバリ島に住んでおり、当時は一時帰国中。「数年前、現地のムスリム女性と結婚する時にムスリムになったんだ」とお猪口を傾けていました。
ムスリムに改宗した日本人に会い、話すのは初めてだった私。イラン渡航以来持っていた興味と酒の勢いに任せて、「どうしてそうしたのか」「新郎が非ムスリムでもそうする必要があるのか」「もともとイスラームに関心があったのか」「そもそも、ここで酒を飲んでいて宗教上問題ないのか」と質問を連発。彼は帰り際に「君と話せて楽しかった」と声をかけてくれましたが、もちろん私もすごく楽しかった半面、彼を上野動物園のパンダのように遇してしまったような気がして、数日後の同じ店のカウンターで恥じ入っていました。
「アジア人であるのと同時に、インド国民でもあり、バングラディシュの祖先をもつベンガル人でもあり、アメリカもしくはイギリスの居住者でもあり、経済学者でもあれば、哲学もかじっているし、物書きで、サンスクリット研究者で、世俗主義と民主主義の熱心な信奉者であり、男であり、フェミニストでもあり、異性愛者だが同性愛者の権利は擁護しており、非宗教的な生活を送っているがヒンドゥーの家系出身で、バラモンではなく、来世は信じていない(質問された場合に備えて言えば、「前世」も信じていない)」著者が、今まさに世界のあちこちで猛威をふるう暴力を、人間のアイデンティティのあり方というアプローチから論じた本です。より具体的には、「宗教」や「民族」、「文明」といった「単一基準のアイデンティティ」でもって人間を切り分けるあり方が暴力を生み出し、増幅することを指摘しながら、アイデンティティというものの複数性*1と、その中から理性を用いて状況に即したものを選択する必要性を訴えています。それによれば、例えばハンチントンの「文明の衝突」論は、文明が衝突するかどうか以前に、文明の切り分け方の適切さ、そしてそれ以前に多様なアイデンティティを持つ人間を「文明」という単一の基準で切り分けることが果たして妥当なのかという点が問題とみなされていますし、サンデルをはじめとするコミュニタリアンに対して彼は「アイデンティティは発見するものではなく、選択するものだ」と批判の矢を放ちます。更には、アイデンティティとの関連でもてはやされがちな多文化主義についても、(少数派の)文化を隔離して温存しようとする「複数単一文化主義」と、受け継がれてきた文化を引き継ぐかどうかを自らが選択していく「文化的自由」の峻別を求める*2のです。
私からすれば、これらの立場は言われてみれば至極尤もなことで、こういったことを声高に叫ばなければならないこと自体に疑問すら感じます。ただ、その上で肝心なのは、(自分に対しても他者に対しても)複数のアイデンティティから如何にしてその時々に適したものを選び取っていくか、という点です。例えば、少なくとも当時の私にとって、小料理屋のカウンターで隣り合わせた彼は「日本人なのにムスリム」という存在に終始した、とも言い得るわけで、もっと多彩だったろう彼のアイデンティティを、即ち彼の人格を尊重できなかった、との直観が、その後の私を恥じ入らせたのだと思います。似たようなことは自分のそれに関しても言えるでしょう。
経済学者である*3著者は、そのような選択にはその時々の様々な制約が課せられ得ることは認識しています。そして、その選択の拠りどころとなるべきものは理性だ、としているわけで須賀、その理性を著者の言うような「理性に異議を唱える際にすら、その理由を理性的に述べなければならない」ような無限ループ的な、内田樹流に言えば「思考上の奇習」のようなものを超えた形で構想することが、言われてみれば当たり前のようなことを声高に叫ばねばならない、暴力に満ちた現状の改善策にもつながってくるような気がしてきました。
自分には到底解決できそうにもないことを偉そうに述べ立てましたが、具体例も豊富で読みやすい本でもありますし、自身や人間一般のアイデンティティというもののあり方に関心のある人には、ぜひお薦めしたい一冊です。

*1:これが何を意味するかは、既に具体例でもって説明いたしましたw

*2:すなわち、歌舞伎の稽古をするより灰皿でテキーラが飲みたいという市川海老蔵に無理矢理歌舞伎をやらせたり、嫌がる後輩に男同士のキスを強要することは多様な文化を残すことにはなりま須賀、彼らの文化的な自由を尊重したことにはなりません

*3:って言うか、ノーベル経済学賞を受賞したことのある