かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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『武田三代』(平山優)

【目次】

 

三代記の決定版

武田信虎・信玄・勝頼という三代の興亡を紹介する決定版と言ってよい一冊です。

甲斐国内外入り乱れながらの戦乱を戦い抜き、統一された甲斐と首府・甲府をつくりあげた信虎。巧みな調略と戦術、外交を繰り広げつつ領土を拡大した信玄。父以上の武勇を示しながらも、周囲の敵に翻弄されつつ信長に滅ぼされるに至る勝頼。それぞれの事績を丹念かつ平明に追っています。

外交を仕掛けた信玄、翻弄された勝頼

やはりどうしても考えたくなるのは滅亡の要因です。当初、諏訪家を継ぐことが想定されていた勝頼と信玄時代の重臣たちの距離感*1はもちろんあるでしょうが、やはり外交のファクターは大きかったように思います。

御館の乱*2で景勝ではなく北条氏政の弟・景虎を支援しておけば武田・北条・上杉の三国同盟が成り立って織田と対峙する余地はあった」という説はよく言われま須賀、勝頼と氏政のコミュニケーション不足が甲相同盟の破綻に繋がった経緯が本書に詳述されています。読むにつけ北条氏政の力量の低さはこちらがイライラするほどでしたが(笑)、そんな北条でも、背後で敵対されるのとそうでないのとでは大違いなわけです。

また、織田信長側にメリットのない和睦を模索し続けて、結果的にその間に武田攻めの準備の猶予を与えてしまったのも大きな失態だったでしょう。父・信玄は特にその晩年、外交攻勢を仕掛ける側として、信長や謙信を揺さぶってきました。適切な外交には情報力・洞察力・構想力が必須だと実感しましたし、そこが父子の差だったように感じられます。

「決勝ラウンド」での失敗の重み

しかし、木曽義昌の寝返りから雪崩を打つように戦国最強と謳われた武田軍団が崩壊していき、本格的な決戦すらなく滅亡まで至った経過は、先代2人の積み上げてきたやり方について読み進めてきただけにショッキングですらありました。

信虎と信玄は城を一つずつ攻略し、信濃の各郡に拠る地元勢力を少しずつ従え、あるいは倒していったわけで須賀、勝頼の段階では数カ国を統べる大勢力となったからこそ、その主を倒せば領国がまるっと手に入ったわけです。かつて信玄も手痛い敗北は2度喫しているわけで須賀、戦国時代も「決勝ラウンド」に入ってくると、一つの合戦での敗北や外交的失敗の影響は、格段に大きくなるということなのでしょう。戦の勝ち負けだけでない、生きた時代という意味での「時の運」もあったのかもしれません。

*1:滅亡時に奮戦したのは武田譜代ではなく、諏訪や高遠の家臣たちだった

*2:上杉謙信死後の養子間の争い