かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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『AI監獄ウイグル』(ジェフリー・ケイン)

【目次】

 

AIチャットによるレビュー

「AI監獄ウイグル」は、ジェフリー・ケイン氏が著した書籍であり、ウイグル族の人権侵害問題について、顔認識技術やAI技術を利用した監視システムなどの現状を詳細に解説しています。

本書は、中国政府によるウイグル族の弾圧が激化している現状を報告しており、中国政府がウイグル族を「テロリスト」として扱い、監視システムや再教育施設を利用して強制的に管理していることについて指摘しています。これらの行為には、ウイグル族の人権侵害が含まれており、虐待や拷問、強制労働などの問題が深刻化しています。

また、本書では、中国政府がAI技術を利用してウイグル族を監視・管理する方法についても詳細に説明しています。顔認識技術や監視カメラを利用した監視システム、再教育施設での人工知能による言葉や行動の監視など、様々な手法が使用されています。著者は、このような技術がもたらす潜在的なリスクや、プライバシーや人権に対する影響についても詳しく解説しています。

本書は、ウイグル問題に関心がある読者にとっては、人権侵害の現状を知るための貴重な情報源となるでしょう。また、AI技術に興味を持っている方にとっても、AI技術がもたらす問題点を知ることができる書籍となっています。

総じて言えることは、本書はウイグル族の人権侵害問題を深く掘り下げ、AI技術がもたらす問題点について考えるきっかけを与えてくれる書籍であると言えます。ウイグル問題やAI技術の問題に興味がある方には、ぜひ読んでみることをお勧めします。

現在最も注目されているAI技術であるChatGPTに、「AI技術がもたらす問題点」を含めてご指摘いただいております。

AIをブラックボックスにしないために

十数年をかけて中国のAI関連技術がどのように(どの程度)進歩していったか、それと関連してウイグルがどの程度「監獄」化していったかがリアルに描かれています。そうした過程を経て、ウイグルで日々「洗練」され続けている技術が「セーフ・シティ」を実現するものとして輸出されつつある現状は、もはや世界的な人権上の危機であると言わざるを得ないでしょう。中国政府自体が、ウイグル族だけの抑圧を目指している*1とは思えませんし、その手法を手っ取り早く自国統治に活用してしまおうと考える政治指導者は現にいるわけです。

また、これは安全保障でも言われることで須賀、相手(この場合は中国当局)がどのくらいの能力を持っているか分からない/見せないことが、市民の萎縮や恐怖心の源泉になっていることもよく分かります。これを悪意を持って運用すればまさにパノプティコンなわけで須賀、こうした技術をより自由な社会と親和的に活用していくには、使う側の十分な説明・情報公開と市民一人ひとりのリテラシーによって、高度化を続ける技術をブラックボックスにしないことが大切なのだろうと思います。冒頭のレビューがどういうロジックで書かれたのか理解するのも簡単ではありませんが、だからこそ、説明責任を果たす回路をどう担保するかは問われ続けるのだと思います。

*1:それだけでも極めて深刻な事態で須賀

『中核vs革マル』(立花隆)

【目次】

 

 

想像を絶する暴力の連鎖

『中核vs革マル』は、立花隆氏が1970年代に発生した極左暴力集団中核派」と「革命的共産主義者同盟」(通称・革マル派)の歴史を追い、その背景や思想、行動について考察した著作です。

立花氏は、本書で中核派革マル派が抱えていたイデオロギーの違いを詳しく分析し、それが彼らの暴力行為やテロ行為にどのような影響を与えたかを明らかにしています。また、両グループの歴史を追いながら、当時の日本社会や政治情勢、学生運動の背景を詳しく描写し、読者にリアルな状況を伝えています。

立花氏は、本書の中で自身が当時、中核派革マル派接触した経験を詳しく語り、彼らの思考や行動について理解を深めることを読者に訴えています。また、彼らのイデオロギーが根底にある思想や価値観を解説しつつ、それが現代の社会や政治にどのような影響を与えているかにも触れています。

本書は、極左テロに対する理解を深める上で貴重な一冊であり、日本の戦後史に興味を持つ人にもオススメです。立花氏の鋭い洞察力と平易な文体により、読者は当時の状況をリアルに感じ取りながら、テロ行為の根底にある思想や社会情勢について理解を深めることができます。

上記は、ChatGPTに書いてもらった本書の「書評」です。明らかな事実誤認を含むものもあったので、数回頼んだ中で一番マトモなものを選びました(別バージョンでは中核派国家主義者とされていたり、殺害された書記長が全く別の名前になっていたりしました)。

自分の両親世代の人たちがこんな時代に学生生活を送っていたことに、率直に言って驚きました。路上や隠れ家を急襲して(無関係な家族の前でも)鉄パイプやバールで殴り殺す、電車の車両の窓やらを叩き割って相手方が集団で移動中の車内に雪崩れ込んで大乱闘する、大学キャンパス内や街中で「市街戦」を展開する、記者会見や機関紙で罵詈雑言を交わし合う…隔世の感と言ってしまえばそれまでなのでしょうが、感覚的に、自分の学生時代やそれ以降の生活の延長線上には想像しづらい世界でした。

公安当局との「三国志

ChatGPTが言うように、著者は両派への取材と詳細な機関紙の読み解きによって、この凄惨な暴力の連鎖を描き上げています。その上でさらに気になったのは以下の二つの視点でした。

青写真的には言及があるものの、第三のアクターとしての公安当局の意図や行動はより具体的に把握して論じた方がよいと思いました。双方ともに「相手は国家権力と(態様や態度はともかく)結託して我々を攻撃してきている。だからこれは内ゲバではなく、反革命との闘いなのだ!」と信じており、現に両派の乱闘や襲撃があった際にどちらがどの程度逮捕や捜索を受けたかについて、恣意的だとの見方はあったようです。平たく言うと、公安当局側が「漁夫の利」を狙っていたとの指摘もあります。とすると、ことの全体像を浮き彫りにする上で、公安当局側の動向をより深く知ることは不可欠です。

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ではまさにその点が詳述されていま須賀、同書と異なり、リアルタイムで同様の情報を得る制約は大きかったのでしょう。

同時代人の受け止めは?

二つ目は、先述した感想とも重なりま須賀、当事者以外の同時代の人々がこの「戦争」をどう捉えていたのか、です。公衆の面前で大乱闘を繰り広げていたりもするわけで、人違いでの襲撃が多発したことも含めて、どのように見られていたのか知りたいと思いました(現実問題としては、この本はほぼリアルタイムで書かれているのでその辺は自明なものとして言及されなかったのでしょう)。

実際に大学キャンパス内で、数百人の目の前で一人が襲われた際、数人が止めに入ったもののそこからけが人も出た、という記述もありました。自分がこの時代に大学生だったら、こうした新左翼やその抗争にどんな態度を取っただろうか、つい想像してしまいます。

『日本共産党』(中北浩爾)、『日本共産党の研究』(立花隆)

【目次】

 

100年史を簡明に紹介

非合法な状態だった戦前から国政政党化した現在まで、日本共産党の100年の歴史を説明する本です。

地下活動を通じて特高と闘うも壊滅した戦前、戦後の間もない時期の武装闘争を放棄し、ソ中共産党と決別して平和革命路線に転じてからの選挙・国会戦略などを、まとまりよく紹介してくれています。序盤と後半で議論の趣きが大きく異なるさまに、100年という時間、そして時代の変化を感じさせられます。

一つ興味を持ったのは、自社さ連立によって社会党が右傾化した間隙を突くように共産党が「自衛中立」から「非武装中立」に転じ、唯一の革新政党として支持を集めた際の共産党側のロジックがどんなものだったのか、という点です。現在からはイメージしづらい部分もありま須賀、共産党は革命を目指す以上、本来は「戦ってナンボ」であり、そこから「平和の党」に急転回することにどんな理由付けをしたのか、旧来の(コアな)支持層がそれをどう受け止めたのか、そのあたりはあまり説明がなかったかと思いますので、どんなものなのか気になりました。

戦前共産党を鮮やかに描く

こちらはその100年間の真ん中頃に、立花隆(とそのチーム)の文藝春秋連載を書籍化したものです。

先述の特高との闘いや地下活動の様子、コミンテルン指令に翻弄された幹部の困惑、スパイに党の主要組織をほぼ掌握されていた時代、大物幹部の転向、そして執筆当時に党トップだった宮本顕治が関わったとされるリンチ事件…こうした戦前の日本共産党の歴史を、精力的な取材を通じて克明に描いています。

その時点で(今もですけど)議会政党でありながら民主集中制を維持していたり、リンチ事件について頑なに認めていなかったり、連載中からあることないことで激しい非難を浴びせてきたり…といったあたりに対する筆者の批判も長々展開されており、それはそれで半世紀前の共産党をめぐる歴史の一幕ということなのでしょう。一方の本筋の部分は、本当にスパイ小説を読んでいるかのような秀逸なノンフィクション作品になっています。

変わったこと、変わらないこと

つい最近も、党首公選制を訴えた党員が分派活動とみなされて除名される出来事がありました。100年で大きく変わった部分もあるが、変わらない部分もある。後者の典型がこの民主集中制なわけで須賀、これまでいくつもの大きな変化を乗り越え、あるいは選択してきた日本共産党にとって、そこまで受け入れ難い方針転換なのか。これらの本とともに長い歴史を旅してきた私には、そうは感じられませんでした。

『戦国武将、虚像と実像』『武士とは何か』(呉座勇一)

【目次】

 

前者は有名な戦国武将がそれぞれの時代にどんな人物として描かれてきたか、後者は中世人たちの名言から見える武士のメンタリティ、を読み解こうとする本です。

「タヌキ親父」から平和主義者へ

儒教倫理の強い江戸時代には明智光秀のような裏切り者は基本的には批判され、当然幕府を開いた徳川家康は顕彰されま須賀、庶民に人気があるのは豊臣秀吉でした。明治維新後は立身出世や対外拡張という意味合いで秀吉人気が高まり、織田信長は「勤王家」として評価されます。戦後は秀吉の朝鮮出兵は「愚行」とみなされるようになるものの、その人生はサラリーマン出世街道的に理解されるようになりました。「タヌキ親父」扱いだった家康も天下泰平をもたらした平和主義者との見方が現れ、信長はむしろ「天皇を超えようとした変革者」とされるようになりました。

要するにこれらは、新たな歴史的事実が判明したというよりは、時代によって彼らに投影される価値観が変化してきたという要因が大きいと言えます*1。また戦前の徳富蘇峰、戦後は司馬遼太郎の作品が戦国武将たちのイメージに与えた影響も無視できません。

ナメられたら終わり

後者は、武士が誕生した時代に高名*2を博した源義家から、中世武士の終わりを象徴する発言を残した伊達政宗までの名ゼリフ(あるいは言ったとされる内容)を紹介しながら、それらに共通する価値観やありようを炙り出していきます。そこにあるのは暴力性・残虐性であり、一方的な忠義ではなく双務的な主従契約であり、自力救済のための名誉(ナメられたら終わり)ですので、「いわゆる武士道」の世界とはかなり様相が異なっています。

ステレオタイプを破る楽しみ

どちらも実証的かつ豊富な事例にあふれ*3、そして最後にちゃんとそれらを一般化した議論を展開してくれているので、単純に知識欲を満たすという意味でも、中世武士の実像や後世に形成された「虚像」に近づくという意味でも有益な本だと思います。

人間はどうしても物事をステレオタイプで認識しがちです。その方が楽だから当然と言えば当然で、現在進行形の事象や存命の人物と比べ、過去の出来事や人物については情報の更新も少ないですので、一度出来上がったステレオタイプが崩れる機会もそう多くありません。実証的な研究の成果で既存の定説やイメージが崩れていくと、たくさんのステレオタイプを持っていた側からするとアップデートに苦労する側面はありま須賀、過去に起きたこと自体の理解を目指したり、歴史から(人生訓ではなく)人間という存在やその集団のありようや振る舞いを学び取っていこうとするなら、こうした議論に接していくことは不可避であり、また楽しみであると思います。

*1:戦後、六角承禎の手紙で斎藤道三の「成り上がり」が親子二代によるものと判明したように、新事実の発見ももちろんあります

*2:「名声」という言葉は避けます

*3:「院と言うか犬と言うか」(あるいは同種の名言)がなかったのが意外でしたが

『戦争はいかに終結したか』(千々和泰明)、『国際秩序』(細谷雄一)

【目次】

 

想像を超える複雑な因果律が編み出すのが歴史で、その切り口も非常に多彩であり得る半面、切って見せる以上は、断面がどんな模様になったか常に問われます。国際政治学において、歴史を踏まえてモデル化をするのはそんな営みなのではないでしょうか。

朝三暮四?のトレードオフ

この本は、戦争がどのような形で終結するかを「現在の犠牲」と「将来の危険」のトレードオフから検討しています。前者が後者を上回った場合*1、「妥協的和平」がなされることが多く、逆の場合*2は「紛争原因の根本的解決」が志向されます。両者が拮抗すると、劣勢側にも交渉の余地が生じ得るので須賀、アジア太平洋における第二次世界大戦のように、双方の意思疎通がうまくいかないと、より多くの犠牲が生まれることにもなります。

ウォルツが言うところの国際システムのレベル*3における分析としては合理的なモデルだと感じま須賀、個人のレベルの思惑などが絡んでくる場合、それをどこまで盛り込んでいけるかは検討が必要な気がしました。本書で事例となっているイラク戦争については、まさに米国首脳の個性や利害が注目された経緯があります。

三つの体系が織りなす秩序

こちらは18世紀以降の国際秩序を、「均衡の体系(バランスオブパワー)」「協調の体系(大国間協調)」「共同体の体系(カント的世界共同体)」の組み合わせと捉えて分析していきます。具体的には、均衡のみのビスマルク体制、均衡による協調が成り立ったウィーン体制、均衡を否定し共同体を志向した(ため失敗した)国際連盟構想、ドイツ分割・安保理・総会がそれぞれの機能を果たした戦後の国際連合体制…と、著者は分類します。

興味深いのは、均衡の体系が持続するためには一定の自制や同胞意識が必要だった、と論じている点です。それが満たされたウィーン体制と欠く代わりに一政治家の芸術的な立ち回りを必要としたビスマルク体制を対比するに、この条件は「均衡の体系」の外にあるのだと理解しました*4が、(よく使われる用語で言えば)リアリズムもリベラリズムもそれ一本で自立するわけではなく、複数の体系の組み合わせがその国際秩序の展開や寿命を決めていく…というコンセプトは面白かったです。

戦争終結と新たな秩序

どちらの議論も、この本の議論とつなげて考えることができます。 

『アフター・ヴィクトリー』(ジョン・アイケンベリー) - かぶとむしアル中

妥協的和平による戦争終結は、優勢側が国際秩序を形成する力を阻むでしょう(その証拠に「妥協点和平」とアイケンベリーが論じた新たな秩序形成の時期は重なりません)。戦後秩序を力むき出しのものにするのではなく、協調や共同体形成の方向へ制度化していくことは、その秩序を持続させ、長期的には当時の勝者に有利にすら働き得ます。

妥協点和平が想定できないほどの「将来の危険」があると当事者がみなすような国際政治環境は、構造的な再編を免れないということなのでしょう。当たり前すぎて退屈な結論になってしまいましたが、それはこれらの議論が提示する切り口の穏当さを示すものでもあると思います。

*1:本書では朝鮮戦争ベトナム戦争

*2:典型的には欧州での第二次世界大戦

*3:国対国や国際秩序

*4:この辺はもう少し整理されるとよいと思います

『テクノロジーが予測する未来』(伊藤穰一)

【目次】

 

NFTを中心に、web3時代の技術と社会を論じる本です。話題のNFTについて分かりやすく解説されており、遅ればせながら勉強になりました。

アウラ」の復権

その上で興味を持ったのは、この技術と芸術作品の一回性(ベンヤミンが言うところの「アウラ」)との関係です。ものすごく雑に言うと「芸術作品が複製可能になることで作品からアウラが奪われた」というのがベンヤミンの主張なわけで須賀、オリジナルであることが明確にされることで、デジタルアートにおいてこのアウラ復権する、なんてことが果たしてあり得るのか。その辺がデジタルアートそのものの浮沈と関わってきそうな気がするので、推移を見守っていきたいと思いました。

技術は社会を決めない

また、最も印象的だったのは「テクノロジーが社会のあり方を一義的に決めるのではない、社会がそれをどう使うかだ」と再三述べられていた点です。著者はweb3について、インターネット普及初期に語られたような分権的なあり方をもたらしうると評価する一方、その真逆の展開もあるとの指摘も忘れません。

歴史的にも、社会に流通する情報の増大が新聞を、大衆的見世物への欲望が映画を生み育て、ラジオと電話の技術は(今から見れば)錯綜して用いられた時期もありました。

https://canarykanariiya.hatenadiary.jp/entry/2018/11/08/104325

「帝国」などと謳われた巨大ITプラットフォーマーでのレイオフなどが最近話題で須賀、こうした集権的なインターネットや社会のあり方がweb3時代も続くのかは、今という時代の文脈が定めていく側面も大きいのでしょう。そしてその文脈をつくっていくのは、日々インターネットを使い、社会生活を営んでいる私たちであるはずです。

12年ぶり3度目の…

本書を読んで思い出すことが多かったので、久しぶりにこの本を読んでみました。

学生時代のゼミで読んだ本で、随分前に改訂版も出ているようですね。もちろんインターネットに関する言及は時代を感じさせるもので須賀、先ほども言及したメディアの歴史研究に関する部分は色褪せません。

 

探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で/『思考の整理学』(外山滋比古)

 

非常に有名な本ですが、思考をどう熟成させ、整理し、結びつけていくかについての著者の実践や持論がエッセイ風にまとめられています。▽風呂・トイレ・寝床といった意外な場所でアイデアは生まれやすいので、それを忘れず書き留めておくべし、▽煮詰まったらわざと寝かせておくべし*1-などはよく言われることがありますね。これを単純に真似て成果を求めるということよりは、自分がものを考えるときの無意識の傾向に目を向けたり、それを洗練させていくためのちょっとしたアイデアのきっかけに使うということなのだと思います*2

興味深かったのは、一冊を通底する問題意識として「コンピューターにも負けない、自発的にものごとを考え発見できる力」を養うことの必要性が謳われていた点です。本書が出版されたのは40年ほど前で須賀、近年もまだまだ同種の議論が続いていることを考えると、コンピューターというものが人間の知、あるいは人間そのものに与えつつあるインパクトの大きさが感じられます。

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*1:探し物もそうだという歌がありました

*2:著者もそう言っていました