かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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方言だけでなく地名も同心円状に分布する/『日本の地名』(鏡味完二)

【目次】

 

全国分布や地形を検討

日本の地名の語源や起源、地名の伝播や分布の法則などについて、地理や言語(方言)・歴史の知見を使いながら読み解いていく本です。もともと1964年に刊行され、今年になって講談社学術文庫に収められたので須賀、なかなかすごい本です。

具体的には、①似た地名を全国的に集めて比較する、②地図上にプロットしたり実際に訪ねたりして細かく地形を分析する、③全国の方言で似た言葉がないか調べる、④歴史や民俗に関係ある意味でないか確認する、という手法を採っています。その地道さにも頭が下がりま須賀、特に感銘を受けたのは、方言と地名との関係です。

方言と地名の深い関係

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この本などで指摘されるように、歴史的には*1方言や語彙は文化の中心地からゆっくりゆっくりと広がり、同心円状に分布するケースが多いことが知られています(方言周圏論)。著者によると、その時々の地元の人たちがつけていった地名についても、中心地*2から同心円状に共通性が見られるというのです。

地名から見える郷土史

そしてさらに、歴史的用語や同じ土地の方言も時代によって変わっていきますので、他地域の方言や、場合によってはアイヌ語朝鮮語・マレー語といった諸語に目配せをせねばなりませんし、逆に言うと、使われている語彙から、その地名の成立年代を推定できる可能性も出てきます。ある土地に地名が付くことは、そこに人間の何らかの営みがあったことを強く示唆します。その意味で、非常に興味深い郷土史へのアプローチだと言えると思います。巻末に「日本地名小辞典」もついており、こちらも眺めていて面白いです。

*1:少なくとも中央集権的国家機構が整い、鉄道などの長距離・大規模な人の移動が激増し、特に全国的な音声メディアが広がるまでは

*2:主に畿内で須賀、古いものは北部九州というものもあるそうです

『2050年のジャーナリスト』(下山進)、『教養としてのデータサイエンス』

最近、お勉強で読んだ本など。

2050年のジャーナリスト

雑誌連載を再録した本です。

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こちらの本が非常に興味深く、今回も買い求めました。内容的には比較的雑多でしたが、前著の延長線上で読めば引き続き学びが多い一冊です。

私自身、今は新聞社のビジネス側からデジタル収益増に取り組んでいるので須賀、このところビジネス側の「売る努力」に加え、古巣・編集サイドによるコンテンツ制作の重要性を感じることが多くなってきました。その点で本書の指摘と共通する課題感があるというか、そこになんとか社なり私なりの認識が追いついてきたのかなと思いながら読み進めていました。

教養としてのデータサイエンス

最近特に、データを扱うことが増えたのでこちらも読んでみました。AIと統計の初歩に加え、それらを扱う際の倫理やプライバシーの問題などを説明しています。最後の部分をちゃんと章立てして論じているのはよかったと思う一方、狙いがあってのことでしょうが、前半の話がやや飛び飛びな印象を受けましたかね。

 

中東・イスラーム世界は特殊な地域か?/『中東政治入門』(末近浩太)、『イスラーム世界の論じ方』(池内恵)

【目次】

 

イスラーム教と独裁は関係ある?

地域研究とサイエンスとしての政治学の双方から、中東政治にアプローチした本です。国家の成立やあり方、独裁国家や紛争が多い理由、石油資源が経済発展などに及ぼす(多くの場合負の)影響、世俗化や宗派対立の内実などを切り口に、政治学的な知見を駆使しながら議論を展開していきます。

これらを通じて著者が挑んでいるのは、「中東はイスラーム教の影響が強く、民主化も経済成長も進まない世界的にも特殊な地域である」との主張です。

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にも通じる議論で須賀、維持されている独裁体制には独裁者側の合理的な戦略が明確に反映されていますし、いわゆる「石油の呪い」も普遍的な現象とされます。アラブ・イスラームというアイデンティティに基づく政策も多く見受けられるものの、それこそ正統性や統治能力が弱い国家のツールの一つであるとも言え、「中東の特殊事情」と「普遍性のある現象」をちゃんと見分け、全てを前者に帰さない姿勢を強調していたのが印象的でした。

公理としての「我々の優位」

こちらはイスラーム思想研究者による、20年近く前からの新聞・雑誌などへの寄稿をまとめたものです。

イスラーム世界と(良くも悪くも)歴史的な因縁の浅い日本における中東論のあり方など、論点は多岐にわたりま須賀、著者も述べているように、各稿の根底にあるのはイスラーム教が主張する自らの普遍性だと感じました。即ち、イスラーム世界ではイスラーム教という絶対の価値規範と政治・軍事的な優位性が言わば公理として存在し、その上での他者との共存や平和が語られる、というのです。

これは「自分の自由を守るために他者の自由を侵害しない」ことを旨とする西欧の自由主義と相反します。自らの優位を前提とする「共存」と、(30年戦争などの悲惨な経験を経て)お互いの違いに白黒つけることを諦めた相対主義的な「共存」では噛み合わないのも必定で、何度か問題化したことのある「ムハンマド風刺画事件」などもこの辺の認識の齟齬が根底にあると言えます。

いかに折り合いをつけるのか

思っていたよりも共通の原理で動いているけれども、他者との共存の前提に大きな断絶がある。そんな相手とお互いにどう折り合いをつけていくべきか。それぞれ現実政治・社会メカニズムの共通性の高さに肯定的に注目し、相手の普遍性や優位を認める形での相対主義があり得るのか(「名を捨て実を取る」)、あるいは逆に「実を捨て名を取る」ような玉虫色の決着*1が可能なのかー。

恐らくそんな単純な問題でもなく、中東から欧州などへの移民が増えるなど、ヒト・モノ・情報のグローバル化が進む時代に至ってついに逃げ切れなくなった、思想上の難題と言えるかもしれません。

*1:他の宗教や思想と同様、イスラーム教にも政治や社会の現状と妥協・追認していくような思潮があることは2冊目でも紹介されています

「現場の勝手な交渉」を招いた硬直的な国際秩序/『文禄・慶長の役』(中野等)

【目次】

 

タイトル通り、豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役」を概説した本です。日本史の中でもよく知られた出来事ではありま須賀、まずは本書に沿って経緯をおさらいしてみましょう。

女真族と戦った加藤清正

東アジア秩序の再編を目指した秀吉は、明の征服と天皇の北京入城などを企て、そのための「侵攻路を貸せ」という理屈で朝鮮半島に兵を出すに至ります。序盤は明らかに準備不足の朝鮮側を日本側が圧倒し、一連の戦で「悪名」が響き渡った加藤清正豆満江を越えて女真族と戦うほどでしたが、李舜臣ら朝鮮水軍の活動により、次第に深刻な物資不足に悩まされるようになります。

双方の厭戦ムードから、朝鮮王朝のため援来した明との間で交渉が進みま須賀、お互いに「当然の如く相手が頭を下げてきた」認識だったため、噛み合うはずもなく決裂。慶長の役では、「勝者としての秀吉のメンツ」を保つために朝鮮王朝南部の占領が目指されま須賀、よく知られているように当の秀吉の死去により、日本勢は撤退していきました。

しかし、その後も東アジア地域の緊張関係は続きます。日本による再侵攻(実際に日本側が脅し文句に使っていた)に備えた明軍の朝鮮駐留が明・朝鮮関係の懸案となり続けますし、関ヶ原で西軍に属した対馬の宗氏は、外交関係安定を目指す徳川家康の意向をなんとか実現しようと、国書を偽造するなどして日朝関係の改善を急ぎます。これはいびつながらも実を結びま須賀、家康が望んだ明との関係改善は果たされることがありませんでした。

正確な状況規定を欠いた日本側

個々の合戦を見ていくと、その大部分で日本側が勝利しています。文官たちが派閥争いをしていたところに、当時世界有数の火器保有国から戦国時代の最終ラウンドを勝ち残ったor生き残った将兵たちが突如なだれ込んできたわけで、やられた方はたまったものではなかったでしょう。それでも秀吉が一連の戦争を通じてその目的を達し得なかった大きな原因は、日本側が正しい情報・情勢認識に基づく戦略を描けなかったためと思われます。

そもそも日本側は、いざ出兵となるまで朝鮮側が「明への侵攻のための道を貸す」ことに抵抗するシナリオを真剣に検討した形跡がなかったようで、早々に渡海するはずだった秀吉が肥前名護屋城で長らく留まることすら想定されていませんでした。なので、朝鮮半島各地に進出した諸将の中に当初明確な「総大将」はおらず、いちいち九州の秀吉から指示が出されることになりました。

また、九州あるいは上方からも、北京からも離れた朝鮮半島では、日明双方の中央政府の意図を半ば無視したような交渉が繰り広げられました。その結果、お互いに「相手が謝ってきた、こちらのメンツが立った」と信じ込んでおり(なので噛み合うはずもなく)、特に秀吉がそうではないことに気付いたことが再出兵の引き金になりました。正しい情報や状況規定がないと、いかに戦術的に優れていても戦略的な勝利は得られないことをよく示す例だと感じました。

現場が勝手に交渉をまとめようとする理由

それにしても、お互い現場同士で中央の意向や指示をここまで反故にし続けていたのには正直、かなり驚きました。明側の求めで「秀吉の明皇帝への降伏文書」を作成した小西行長や、撤退する日本勢に安全の保証として人質を渡した明の諸将、関係改善に際して国書偽造に手を染めた宗氏など、バレたらどうするつもりだったのだろうかと思う所業があちこちに出ていました。

ただ少し引いて考えると、当時、東アジアの中心にあった明王朝の国際秩序観は上下関係に基づく冊封体制であり、一方の秀吉も明を倒す気満々だったわけです。建前だけを貫けば対等な関係や交渉は望むべくもない、落とし所のないこうした状況の中で現場が編み出したある種の「知恵」。それが、現場同士での訓令無視の取引だったのかもしれません。

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宗氏が朝鮮に呈したニセの国書については、釜山の朝鮮通信使歴史館で知り、そこで複製か何かの偽造国書を見たような気がします(記憶違いかもしれませんが…)。著者も指摘するように、それすら必ずしも特異な事象ではなかったのだとすれば、硬直的な国際秩序に起因する構造的な歪みの典型例と捉えることもできるのではないでしょうか。

中華思想のこの種の厳格さは、必ずしも序列の明確でない相手国からの使者を迎えた際、それぞれどの向きに座るか、という問題にも発展することがあります。いわゆる「天子南面す」に関わる問題で、使者(=代理人)とはいえ相手の王の南側に座ってしまうと相手を格上と認めたことになる、と捉えられたのです。チンケな話に聞こえるかもしれませんが、これは両国の威信に関わる重要な問題であり、これについてもお互いのメンツを決定的には潰さない(?)座り方があったりします。

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こうした話はこの本に詳しいので、ご興味のある方はぜひ。

拉致され、世界各地で売られた朝鮮人奴隷たち

こんなに長く描くつもりは全くなかったので須賀、最後にどうしても触れたいことが一点あります。特に慶長の役では、朝鮮半島南部の占領を目指したこともあり、非戦闘員を含む多くの人が殺されたり、日本に拉致されて奴隷として売り払われたりしました。日本側の軍勢について歩く奴隷商人の類もいたそうです。

ある者は当時の交易網に乗せられて東南アジアやインドに、またある者は日本国内の地域社会に連れて行かれ、前者ではキリスト教の洗礼を受けたり、後者では日本名を名乗り、地元民と通婚する事例もあったそうです。

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これまた著者によれば、薩摩焼で知られた苗代川のように朝鮮半島出身者が集住し、その文化や慣習を(比較的)保っていった地域は多くないようです。日本列島のあちこちで、そして世界中で現地社会に包摂されていかざるを得なかった、あるいはその一員になることすら許されずに死んでいかざるを得なかった名もなき人々の人生を想像すると、「国際秩序の再編」や「国や指導者のメンツ」のようなものに人々の生活や命が翻弄され続けてきた、人類の歴史の残酷な一面を思わざるを得ません。

「ざっくり理解」と「じっくり修正」の両輪/『学びとは何か』(今井むつみ)

【目次】

 

まずやってみて、修正していく

認知科学の視点から、何かを学んで熟達していくプロセスについて考える本です。

著者の研究領域である赤ちゃんの言語習得のみならず、外国語学習、将棋や音楽演奏などを取り上げながら、システムとしての知を構築する過程を論じていきます。すごく雑に言ってしまえば、「まずはやってみて理解の枠組みを立ち上げ、それを批判的に修正しながら精度を上げていくのがよい」という趣旨と理解しました。

私の「概説書から読みたい病」

とりあえずの理解で枠組みを作ることも、一度出来上がった枠組みを壊すことも恐れないというのは、意外と難しいことだと感じます。

自分自身、何か新しい分野の勉強を始めるときも、やはり最初に見通しの良さや精度の高さを求めすぎるところがあると感じていました。それがある程度確立した学問領域なら「定番の入門書・概説書」に出会えることも多いで須賀、例えば日進月歩のIT領域では、書籍が本屋に並ぶ頃には事情が変わっていることも多いからか、そもそも入門的な知識を(しばしば出典や情報の確度が不明確な)ネット上で仕入れねばならないことも多くあります。これが古い勉強の仕方を続けてきた私には結構ストレスだったりするので須賀、「絶えず修正していけばいいんだ」と思えたことは、大袈裟かもしれませんが一歩踏み出す勇気になるような気がします。

「優れた探究」の両輪

ただ、惰性に陥らず「絶えず修正する」には、かなりの知的体力が必要であることも本書が指摘の通りです。そのバランスこそが、優れた探究と呼びうるものなのでしょう。

他の著書も面白いですので、ご興味ある方は是非。

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分断を癒すリベラルの増税論とは/『幸福の増税論』(井手英策)

【目次】

 

リベラルによる増税

非現実的な経済成長の夢を追うのではなく、再分配によって低所得層のみを救済するのでもなく、消費税と富裕層課税を組み合わせて広く課税することで、福祉や医療・教育などの公共サービスの所得制限を外し、「みんなで負担し、みんなで受益者になる」頼りあえる社会を築くべきだー。リベラルを自任する財政社会学者による、異色の提言です。

増税で社会を変える

最大の特徴は、よく言われる再分配政策との違いです。一般的には、企業の内部留保への課税など「金持ちから奪い、困っている人に与えるべきだ」と主張されることが多いで須賀、著者はその手法が自己責任論が蔓延する社会の分断をさらに深めることを強く懸念します。

タダ乗りをなくす一方、なるべく広い層に受益者になってもらうことで、「確かに税金は増えたけど、その分暮らしの自己負担は減ったね」と実感してもらう。その「成功体験」からさらなる包摂を目指し、人生の様々な局面においても頼りあえる社会をつくり上げていく。これはどちらかと言うと、増税によって社会保障を再構築するというより、社会そのものの雰囲気を変え、社会全体を繋ぎ直そうという提案です。

政治のコンセンサスが大前提

大きな経済成長は望めず、人口も減っていくこれからの日本社会が目指すべき姿の一つとして、非常に興味深い議論でした。ただその一方で、これは(著者も言うように)「革命」の語が相応しいくらいの大きな変化であり、合意形成は容易ではないとも感じました。

税制改革を通じて市民の意識を変えるためには、その方向性が安定的に維持される(と人々が信じる)ことが必要です。有力政党が最低限の共通認識としてそれを掲げ、政権が変わっても大きな方針は揺らがない(増税分は約束通り社会保障のみに用いられる)状況をつくり出さなければ、成功体験を共有するための「最初の増税」への理解は得られないでしょう。天皇制や非核三原則を例として挙げると極端かもしれませんが、著者の言うように「痛税感」が強い社会では、政治と社会に広いコンセンサスが必要です。

また程度の差はあれ、与党と野党第一党がともに「経済成長」や「行政改革によるムダ削減」を訴えている現在の政治状況との乖離も、乗り越えていくべきハードルではあると思います。

分断を癒すカギは地方に

本書が出版された後に襲いかかったコロナ禍によって、自己責任論の跋扈や「弱い者たちがさらに弱い者を叩く」*1ような社会の分断はさらに加速しています。と言うといかにも大きい話に聞こえま須賀、それをほぐし癒していく取り組みは、これまた著者が注目するような地方、特に住民の暮らしの存続が課題になりつつある周縁的な地域から生まれてくるのかもしれませんね。

*1:BLUE HEARTSに似たような歌詞があった気がしますね

結果として補い合って難局を乗り切った島津義久・義弘兄弟/『不屈の両殿』新名一仁

【目次】 

 

「両殿」関係の変遷と御家の存続

一時は九州全土を勢力下に置こうとしていた戦国島津家が、秀吉への降伏や関ヶ原での敗戦といった危機をいかに乗り越えていったのかを、「両殿」と称された義久・義弘兄弟を軸に描いた本です。

義久は、九州を北上していく過程で弟・義弘を「名代」とし、「両殿」が重臣会議に諮問する形で進出方面などの重要政策を決めていました。しかし秀吉に敗れて降伏し、版図が急激に縮小する中で家中は混乱を来します。

そこに豊臣大名としての役割を積極に果たすことを求める石田三成らが介入。三成らは義弘を島津家の代表として扱い、義弘自身もそれに応じてこれまでとは異なるトップダウン的な意思決定で島津家の対外的面目を施そうとしたため、依然家中で実権を維持する義久との兄弟関係は軋轢を生むようになります。

文禄・慶長の役で軍勢や物資が整わず「大遅陣」するのにも、関ヶ原で西軍につくに至った義弘に僅かな手勢しかなかったのにも、義久の鋭い政治的嗅覚のみならず、こうした兄弟の微妙な関係が影を落としています。しかしそのことが、結果として島津家当主筋である国元の「義久・忠恒は西軍加担に関与していない」との主張に繋がってくるのでした*1

対照的な「キャラ」が浮かび上がる

本書では、豊富な史料をもとに義久・義弘兄弟、そして義久の娘婿として島津家を継ぐ義弘実子・忠恒らのその時々の言動や息遣いまでを鮮やかに浮かび上がらせています。

表向きは自分で決めたがらない義久は、後年大山巌らについて言われるような「茫洋たる薩摩の大将」に通じるものがあったのかもしれませんが、先述のような大局的な視野を持っていたと言えるでしょうし、「籤で決めた」「重臣会議に任せた」と言っても、本当に決断を丸投げしたわけではないでしょう。義弘は有名なその武勇もさることながら、外聞を重んじ、また息子の忠恒に対し、時に細やかすぎるアドバイス(や小言)を授ける姿も印象的でした。この本が射程とする時期の忠恒は血気盛んで、謀殺大好きなのが気になりました…

晩年の微笑ましい兄弟仲

微笑ましいのは、一時期厳しい対立に陥り、場合によっては兄が弟を見殺しにしかねないような局面をくぐった2人ながら、晩年は「最近鳩を飼い出したんだけど、これがまたかわいいのよ。お前も飼ってみたらどうだ」と手紙を書いてよこすような、良好な関係を取り戻していることです。

かなり昔に読んだこの小説は、義弘を慕って関ヶ原に馳せ参じた中馬大蔵と義弘との主従関係を軸に描かれており、義久は豊臣大名として栄達した弟に嫉妬して嫌がらせをする役回りを演じています。登場人物の内面を想像力で彩るのは歴史小説の醍醐味の一つでしょうが、現存する史料から浮かび上がる姿も、それに劣らず魅力的なものでした。

足利兄弟に劣らない名コンビ

当時としては長寿を全うした兄弟の人生との伴走はなかなかの長旅でしたが、その最後の一段落こそ、鎌倉以来の名門・島津家が激変の戦国時代を乗り越え、近世へと繋がっていった理由を端的に示しています。

この対照的な二人が「両殿」として結果的にバランスを取っていたおかげで、島津家は秀吉の九州進攻、文禄・慶長の役、庄内の乱、関ヶ原の戦いという数々の難局をなんとか乗り切れたのである。

本人たちも、狙って役割分担していたことばかりではないでしょう。

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足利尊氏・直義兄弟ほどの派手さはないかもしれませんが、御家存続を果たし、お互いの関係を保ちながら共に畳の上で死ねたという意味では、この兄弟*2も劣らず名コンビだったと言えるのではないでしょうか。

*1:ただ

、この理屈を家康が最終的に認めた理由については、本書を通じてあまり説明の力点が置かれていなかったように思えます

*2:元々は四兄弟だったわけで須賀