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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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「現場の勝手な交渉」を招いた硬直的な国際秩序/『文禄・慶長の役』(中野等)

【目次】

 

タイトル通り、豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役」を概説した本です。日本史の中でもよく知られた出来事ではありま須賀、まずは本書に沿って経緯をおさらいしてみましょう。

女真族と戦った加藤清正

東アジア秩序の再編を目指した秀吉は、明の征服と天皇の北京入城などを企て、そのための「侵攻路を貸せ」という理屈で朝鮮半島に兵を出すに至ります。序盤は明らかに準備不足の朝鮮側を日本側が圧倒し、一連の戦で「悪名」が響き渡った加藤清正豆満江を越えて女真族と戦うほどでしたが、李舜臣ら朝鮮水軍の活動により、次第に深刻な物資不足に悩まされるようになります。

双方の厭戦ムードから、朝鮮王朝のため援来した明との間で交渉が進みま須賀、お互いに「当然の如く相手が頭を下げてきた」認識だったため、噛み合うはずもなく決裂。慶長の役では、「勝者としての秀吉のメンツ」を保つために朝鮮王朝南部の占領が目指されま須賀、よく知られているように当の秀吉の死去により、日本勢は撤退していきました。

しかし、その後も東アジア地域の緊張関係は続きます。日本による再侵攻(実際に日本側が脅し文句に使っていた)に備えた明軍の朝鮮駐留が明・朝鮮関係の懸案となり続けますし、関ヶ原で西軍に属した対馬の宗氏は、外交関係安定を目指す徳川家康の意向をなんとか実現しようと、国書を偽造するなどして日朝関係の改善を急ぎます。これはいびつながらも実を結びま須賀、家康が望んだ明との関係改善は果たされることがありませんでした。

正確な状況規定を欠いた日本側

個々の合戦を見ていくと、その大部分で日本側が勝利しています。文官たちが派閥争いをしていたところに、当時世界有数の火器保有国から戦国時代の最終ラウンドを勝ち残ったor生き残った将兵たちが突如なだれ込んできたわけで、やられた方はたまったものではなかったでしょう。それでも秀吉が一連の戦争を通じてその目的を達し得なかった大きな原因は、日本側が正しい情報・情勢認識に基づく戦略を描けなかったためと思われます。

そもそも日本側は、いざ出兵となるまで朝鮮側が「明への侵攻のための道を貸す」ことに抵抗するシナリオを真剣に検討した形跡がなかったようで、早々に渡海するはずだった秀吉が肥前名護屋城で長らく留まることすら想定されていませんでした。なので、朝鮮半島各地に進出した諸将の中に当初明確な「総大将」はおらず、いちいち九州の秀吉から指示が出されることになりました。

また、九州あるいは上方からも、北京からも離れた朝鮮半島では、日明双方の中央政府の意図を半ば無視したような交渉が繰り広げられました。その結果、お互いに「相手が謝ってきた、こちらのメンツが立った」と信じ込んでおり(なので噛み合うはずもなく)、特に秀吉がそうではないことに気付いたことが再出兵の引き金になりました。正しい情報や状況規定がないと、いかに戦術的に優れていても戦略的な勝利は得られないことをよく示す例だと感じました。

現場が勝手に交渉をまとめようとする理由

それにしても、お互い現場同士で中央の意向や指示をここまで反故にし続けていたのには正直、かなり驚きました。明側の求めで「秀吉の明皇帝への降伏文書」を作成した小西行長や、撤退する日本勢に安全の保証として人質を渡した明の諸将、関係改善に際して国書偽造に手を染めた宗氏など、バレたらどうするつもりだったのだろうかと思う所業があちこちに出ていました。

ただ少し引いて考えると、当時、東アジアの中心にあった明王朝の国際秩序観は上下関係に基づく冊封体制であり、一方の秀吉も明を倒す気満々だったわけです。建前だけを貫けば対等な関係や交渉は望むべくもない、落とし所のないこうした状況の中で現場が編み出したある種の「知恵」。それが、現場同士での訓令無視の取引だったのかもしれません。

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宗氏が朝鮮に呈したニセの国書については、釜山の朝鮮通信使歴史館で知り、そこで複製か何かの偽造国書を見たような気がします(記憶違いかもしれませんが…)。著者も指摘するように、それすら必ずしも特異な事象ではなかったのだとすれば、硬直的な国際秩序に起因する構造的な歪みの典型例と捉えることもできるのではないでしょうか。

中華思想のこの種の厳格さは、必ずしも序列の明確でない相手国からの使者を迎えた際、それぞれどの向きに座るか、という問題にも発展することがあります。いわゆる「天子南面す」に関わる問題で、使者(=代理人)とはいえ相手の王の南側に座ってしまうと相手を格上と認めたことになる、と捉えられたのです。チンケな話に聞こえるかもしれませんが、これは両国の威信に関わる重要な問題であり、これについてもお互いのメンツを決定的には潰さない(?)座り方があったりします。

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こうした話はこの本に詳しいので、ご興味のある方はぜひ。

拉致され、世界各地で売られた朝鮮人奴隷たち

こんなに長く描くつもりは全くなかったので須賀、最後にどうしても触れたいことが一点あります。特に慶長の役では、朝鮮半島南部の占領を目指したこともあり、非戦闘員を含む多くの人が殺されたり、日本に拉致されて奴隷として売り払われたりしました。日本側の軍勢について歩く奴隷商人の類もいたそうです。

ある者は当時の交易網に乗せられて東南アジアやインドに、またある者は日本国内の地域社会に連れて行かれ、前者ではキリスト教の洗礼を受けたり、後者では日本名を名乗り、地元民と通婚する事例もあったそうです。

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これまた著者によれば、薩摩焼で知られた苗代川のように朝鮮半島出身者が集住し、その文化や慣習を(比較的)保っていった地域は多くないようです。日本列島のあちこちで、そして世界中で現地社会に包摂されていかざるを得なかった、あるいはその一員になることすら許されずに死んでいかざるを得なかった名もなき人々の人生を想像すると、「国際秩序の再編」や「国や指導者のメンツ」のようなものに人々の生活や命が翻弄され続けてきた、人類の歴史の残酷な一面を思わざるを得ません。