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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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結果として補い合って難局を乗り切った島津義久・義弘兄弟/『不屈の両殿』新名一仁

【目次】 

 

「両殿」関係の変遷と御家の存続

一時は九州全土を勢力下に置こうとしていた戦国島津家が、秀吉への降伏や関ヶ原での敗戦といった危機をいかに乗り越えていったのかを、「両殿」と称された義久・義弘兄弟を軸に描いた本です。

義久は、九州を北上していく過程で弟・義弘を「名代」とし、「両殿」が重臣会議に諮問する形で進出方面などの重要政策を決めていました。しかし秀吉に敗れて降伏し、版図が急激に縮小する中で家中は混乱を来します。

そこに豊臣大名としての役割を積極に果たすことを求める石田三成らが介入。三成らは義弘を島津家の代表として扱い、義弘自身もそれに応じてこれまでとは異なるトップダウン的な意思決定で島津家の対外的面目を施そうとしたため、依然家中で実権を維持する義久との兄弟関係は軋轢を生むようになります。

文禄・慶長の役で軍勢や物資が整わず「大遅陣」するのにも、関ヶ原で西軍につくに至った義弘に僅かな手勢しかなかったのにも、義久の鋭い政治的嗅覚のみならず、こうした兄弟の微妙な関係が影を落としています。しかしそのことが、結果として島津家当主筋である国元の「義久・忠恒は西軍加担に関与していない」との主張に繋がってくるのでした*1

対照的な「キャラ」が浮かび上がる

本書では、豊富な史料をもとに義久・義弘兄弟、そして義久の娘婿として島津家を継ぐ義弘実子・忠恒らのその時々の言動や息遣いまでを鮮やかに浮かび上がらせています。

表向きは自分で決めたがらない義久は、後年大山巌らについて言われるような「茫洋たる薩摩の大将」に通じるものがあったのかもしれませんが、先述のような大局的な視野を持っていたと言えるでしょうし、「籤で決めた」「重臣会議に任せた」と言っても、本当に決断を丸投げしたわけではないでしょう。義弘は有名なその武勇もさることながら、外聞を重んじ、また息子の忠恒に対し、時に細やかすぎるアドバイス(や小言)を授ける姿も印象的でした。この本が射程とする時期の忠恒は血気盛んで、謀殺大好きなのが気になりました…

晩年の微笑ましい兄弟仲

微笑ましいのは、一時期厳しい対立に陥り、場合によっては兄が弟を見殺しにしかねないような局面をくぐった2人ながら、晩年は「最近鳩を飼い出したんだけど、これがまたかわいいのよ。お前も飼ってみたらどうだ」と手紙を書いてよこすような、良好な関係を取り戻していることです。

かなり昔に読んだこの小説は、義弘を慕って関ヶ原に馳せ参じた中馬大蔵と義弘との主従関係を軸に描かれており、義久は豊臣大名として栄達した弟に嫉妬して嫌がらせをする役回りを演じています。登場人物の内面を想像力で彩るのは歴史小説の醍醐味の一つでしょうが、現存する史料から浮かび上がる姿も、それに劣らず魅力的なものでした。

足利兄弟に劣らない名コンビ

当時としては長寿を全うした兄弟の人生との伴走はなかなかの長旅でしたが、その最後の一段落こそ、鎌倉以来の名門・島津家が激変の戦国時代を乗り越え、近世へと繋がっていった理由を端的に示しています。

この対照的な二人が「両殿」として結果的にバランスを取っていたおかげで、島津家は秀吉の九州進攻、文禄・慶長の役、庄内の乱、関ヶ原の戦いという数々の難局をなんとか乗り切れたのである。

本人たちも、狙って役割分担していたことばかりではないでしょう。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

足利尊氏・直義兄弟ほどの派手さはないかもしれませんが、御家存続を果たし、お互いの関係を保ちながら共に畳の上で死ねたという意味では、この兄弟*2も劣らず名コンビだったと言えるのではないでしょうか。

*1:ただ

、この理屈を家康が最終的に認めた理由については、本書を通じてあまり説明の力点が置かれていなかったように思えます

*2:元々は四兄弟だったわけで須賀