かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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ウクライナ侵略の前提にある世界観/『「帝国」ロシアの地政学』(小泉悠)

【目次】

 

「内弁慶」的なロシアの二重基準

ロシアにおいて「主権」「勢力圏」という言葉の持つ独自の意味合いから、同国の対外政策を読み解く本です。ロシアのウクライナ侵攻よりも前に書かれた本で須賀、その伏線を分かりやすく説明してくれています。

ソ連崩壊によってエスニック集団の居住域と国境が一致しなくなったロシアは、そのギャップに悩みながら、旧ソ連を(消極的な)勢力圏とみなし、「ロシアがしてほしくないことをさせない」ことを志向するようになります。これは、ロシアがこの域外ではウェストファリア的な主権国家論理を貫く一方、域内ではいわゆる「保護する責任」などを理由に影響力を行使するという対照的な態度とも密接に関わるといいます。またこれは、完全に独力で自らの安全を保障できる国を「主権国家」とみなす独自の用法故のものであり、この論法でいけばドイツも日本もウクライナも完全な主権国家とは言えない、ということになります。

NATOに加盟させないために「併合しない」

こうしたロシアの国際政治観を先行研究などから跡づけた上で、ロシアの東西南北で、それがどのように発揮されているかを紹介していきます。

東の北方四島について著者は、弾道ミサイル原潜を配備するオホーツク海を守る重要な位置にあり、米国の影響下にある日本とこの問題を短期的に解決する気はないだろうと論じます。西のグルジアウクライナに対しては、未承認国家を支援する形を取りつつも自国への併合は認めないことで、紛争を凍結して相手をNATOに加盟できなくする(ロシアが望まないことをさせない)戦術が組み込まれた*1と指摘します。

南に位置する中東への関与については、「戦略を持たない」という戦略で比較的立ち回りやすいスタンスにあるものの、そもそも対米関係上の影響力確保が狙いと分析。北極海は、核抑止基盤や新航路・資源のありかとして重視しているがゆえにロシアの軍備増強が目立ち、かえって周辺諸国の警戒感を煽っていると述べています。

「独自の世界観」に至った道筋は

「対等な主権国家が構成する国際社会」という、古いけれども未だ消えない原則(建前)とは異なる理解を持つ大国が、それを各地域にどのように適用しようとしているのかを順序よく説明しています。著者の現場取材でのエピソードも散りばめられており、(例えば私のような単なる旅行者ではなく)ロシア語を解する専門家ならではのコメントには、深みがありました。一方で、これだけ独特な「主権」「勢力圏」概念を確立するに至った道筋については、もっと詳細に知りたいと思いました。

無力感と「戦後」への展望と

いま世界は、これらの語の通説的理解と、他国から見れば身勝手にしか思えない「ロシア的*2理解」の齟齬が、いかに醜い殺戮行為に至ってしまったかを見せつけられています。事前に分かっていながら、プーチン大統領が明々白々な侵略行為に踏み切るのを止められなかったことへの無力感は、一市民でしかない私ですら強く感じましたし、昨日、最終講義を迎えた藤原帰一教授も、冒頭でそうした趣旨のことを述べていました。「冷戦後の西側は、相手が自滅したため地理的に拡大しただけで自己変革を怠った」とみなす藤原教授が(恐らくは期待を込めて)言うように、このひどい戦争の後に何らかの国際秩序の再編が待っているのかは、ちょっと想像がつきません。これからの戦争の展開にもよるのでしょう。

ただ、正当化はし得ませんし、やはり理解に苦しむものの、旧ソ連崩壊後のロシアが何を感じ、考えてきたのか、その基本がわかる一冊と言えると思います。

*1:もちろん、クリミアは公然と併合しましたし、ウクライナへの侵略は「凍結」でも何でもないでしょう

*2:プーチン的、と言うべきかもしれませんが

『ネット社会と民主主義』(辻大介編)、『メディア論の名著30』(佐藤卓己)

 

【目次】

 

「5ちゃんねる」利用は寛容性を高める

インターネット利用と民主主義のあり方との関係について、アンケート調査と統計的手法を駆使して論じた本です。

▽ネット利用による政治的意見への選択的接触はさほど起こっていない▽自民党の継続的な支持層であることと有意な相関があるのは「経済的自由主義」「ナショナリズム」「男性」「経済的ゆとり」「朝日新聞以外の新聞閲読」「産経ニュースの閲覧」▽Twitterや「5ちゃんねる」の閲覧は異なる意見への寛容度を高めている▽パソコンでのネット利用は、政治的関心の強い人ほど政権支持の分極化をもたらすーといったことが示唆されています。

総じて言うと、ネット利用が意見接触を偏らせる(知りたいことだけ知る「フィルターバブル」状態に陥る)ことには否定的見解が集まったものの、各人の社会経済的状況が政治的関心・知識に及ぼす影響を促進しており、感情面での元々の傾向を極性化する(「アベガー」などとも揶揄される安倍政権反対派がネットでの情報収集を通じてさらに批判的になる)ことで政治的分極化に繋がっているのではないか*1、というのが本書の分析となっています。

「フィルターバブル」はそんなにない?

いわゆる「フィルターバブル」論は、「幕の内弁当」のように手広く(あまねく、ではない)ニュースを盛り込んでいる新聞の優位性を主張する際の根拠となることが多く、実際に私自身、自社のサイトデザインを議論する際に「援用」したことがあります。もちろん、ウェブメディアの技術的性質やアーキテクチャの作用は無視できないでしょうが、利用者の側にもそれ一辺倒にならない使い方があるというのは頼もしい話と言えそうです。

一方で、これもネットスラングとして知られる「情弱(情報弱者)」的な状態が、政治的関心→政治参加を経由して社会経済的立場の悪化に繋がっていく負の連鎖が形成されつつあるのだとすれば、それは「沈黙の螺旋理論」の変種であるとみなせるかもしれません。

「なぜその本を読んだか」は面白い

ここまで話をすれば、次にこの本を読みたくなった理由も察していただけ…るでしょうか?

『八月十五日の神話』などのメディア史研究で知られる著者が、自らの研究者としての半生に触れながら、選んだ本を紹介してくれています。

このシリーズには、みっちり「名著」の内容や学問的影響を語っている本もあったように思いま須賀、著者がなぜ、どのようにその本に出会い、読むことになったかという情報は、案外有益だなと実感しました。私自身の経験でも、読書・ニュース・仕事・プライベート問わず、何らかの文脈で読んでみたいと思うに至った本を買ったり、図書館で予約したりしても、いざ読むタイミングになってみるとその経緯や情熱を忘れてしまっていたりすることも多くあります。そうなってしまうと最早なかなか読む気分にもなれないわけで、自分のものではないとはいえ、読む動機が上手に表現されていると、その本への関心もそそられますね。

節穴読書に開き直る

30冊の中に、これまで読んだことのあった本が3冊ありました。

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が本書の著者の訳書と知らず、今更ながら驚きました。

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で、肝心要のナチ時代に触れていないことに気付かなかった自分の目の節穴さ具合と、それ以上に「権威主義的な」読書態度にガックリしました。

そして久しぶりに

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のことを思い出し、「読みたいように読んで、言いたいように言えばいいんだ」と開き直りました。

このレビューの中で既に書名を挙げましたが、「4冊目」は今朝、注文しました。この温度感を覚えているうちに読めればいいので須賀。

*1:先取りすると、2冊目で紹介される『政治の象徴作用』(エーデルマン)にもかなり似通った指摘があります

新聞社でCRMを考える/『CRMの基本』(坂本雅志)、『マーケティング・イノベーション』(内山力)

 

業務の勉強を兼ねて読んだ2冊です。

前者は、CRMを「顧客を適切に識別し、ターゲットとする顧客の満足度と企業収益の両方を高めるための経営における選択と集中の仕組み」と定義し、その要素ごとに順序よく解説を加えています。後者はそのCRMを含むマーケティング全般について、「マーケットをどう見るか」「そこにどうアプローチするか」「どんな事例がヒントになるか」を、整理された形で提示しています。具体的な内容については私がヘタに紹介するより、実際に読むのがよいかと思います。

後者で印象深かったのは、マーケットのライフサイクル(経年変化)についての議論でした。曰く、商品優位→売り手優位→流通優位→買い手優位、と変化するとのことで、例えば売り手優位の時代には機能やブランドで売り手同士が闘いを繰り広げ、流通優位時代は価格がポイントとなり、買い手優位となると顧客を分析し、その関係を重視するようになっていくとされます(まさにこれがCRMですね)。

著者はマスコミ業界を商品優位の時代に分類していましたが、媒体を問わず、コンテンツを供給して対価を得るという機能に注目して近年の状況を見ると、安いPV単価でプラットフォームに記事を配信し続けてきたこの四半世紀を流通優位時代と捉えることもできるのではないかと思います。とすれば、エンドユーザーの月額有料会員化を目指すサブスクモデルが注目を集めるようになったここ数年は、(我が身に都合よく解釈すれば)買い手優位時代の萌芽と言えるのかもしれません。

 

新聞社内で、本格的なCRM戦略構築を担当することになりました。「ニュースの流通優位時代」の現場を眺めてきた身でありながら、偶然にも次のステージへの移行に関わるのは感慨深いことでもあります。知見のストックや洞察力などの面で、自分にはとても及ばない難題であるとひしひしと感じますけれども(だから焦って勉強を始めた)、新しい&これから避けて通れないだろうことを学んでいけることを楽しみに、業務にも励みたいと思っています。

 

『独ソ戦』(大木毅)と『スターリン』(フレヴニューク)

【目次】

一冊目はナチス・ドイツソ連の凄惨な戦争を論じています。二冊目は、独裁者としてヒトラーと並び立つ悪名を誇るスターリンの伝記です。

双方グロッキーの大消耗戦

独ソ戦を一言で言えば、軍事的合理性を欠いた両独裁者による「双方グロッキー」の大消耗戦です。序盤から後退を続けるソ連軍と、決定打に欠き次第に「決定打を与える能力」を失っていく独軍。そして双方とも個別的な自軍の成果を過大評価し、調子に乗って大失敗をしでかすー。その繰り返しとお互いの「世界観戦争」としての位置付けが、無慈悲な、それ以上に国際法違反甚だしい残虐な行為の連鎖に繋がっていくさまを克明に描いています。

ヒトラーと対照的な少年時代

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スターリン」の名が「鋼鉄の人」を意味するペンネームであることと同様、後にそう名乗ることになるジュガシヴィリ少年が、現在のグルジア生まれであることもよく知られているでしょう。彼は、ヒトラーが絵画などの芸術を好み、当初その道を志したのと対照的に優等生として育ち*1、その過程でロシア語を学び、マルクス主義に触れることで、革命家としての生涯を歩んでいきます。二冊目の伝記は、そうした過程を史料に基づきつつ、着実に論じています。

史料に拠って独裁者の心象風景を描く

1930年代後半の大粛清はよく知られており、それが独ソ戦での序盤の敗退*2にもつながっているので須賀、本書ではスターリンが墓穴を掘るかのような「凶行」に走った理由についても、解説を試みています。

著者によるとスターリンは、自分たちボリシェビキが戦争中に革命を成し遂げていったのと同様、また戦争が起きれば我々の政権も倒されてしまうのではと恐れていたといいます。さらにはかつてスターリンが、死期を悟ったレーニンにより権力均衡のために共産党書記長を解任されかかったことがあり、自らの正統性にミソをつける「故事」を知る古参の幹部を押さえつけたいと感じていた点も指摘されています。二つ目は解説でも重視されていた点で須賀、こうした「凶行に走る独裁者の心象風景」を、もちろん内在的に、しかしあくまで史料に準拠しながら、描き出そうとする優れた伝記に仕上がっていると思います。

レーニンから受け継いだ?ナンバー2叩き

少し話を戻すと、死の床にあったレーニンがとった「自分以外に抜きん出た存在を許さない」という手法は、後にスターリンも駆使することになります。その最大の標的となったのは、独ソ不可侵条約の締結にも携わった体制ナンバー2・モロトフでした。彼はスターリン体制(すなわちスターリンの生涯)の末期に、ソ連の実質的な最高意思決定機関(?)たるスターリンのインナーサークルからも排除され、スターリンが別荘で倒れているのが見つかった当初、緊急対応で呼ばれることもありませんでした*3

本書では、そうした「独裁者・スターリンが倒れて死ぬまでの数日間」の様子が、スターリンの幼少期からの人生と交互に現れる構成になっています。なかなかトリッキーではありま須賀、1953年3月上旬と、スターリンの歩んだ75年近い人生の道筋を行き来しながら、良くも悪くもデフォルメされた「希代の独裁者」ではなく、等身大のヨシフ・ジュガシヴィリに迫ることができたと感じています。

*1:ただ、2人とも幼少期に父親からの暴力に晒されていたらしいという共通点は気になるところです。一方で著者は、当然その良し悪しは別として、父親から殴られることが当時のロシアではそれほど珍しいことではなかったことも示唆しています

*2:軍高官が軒並み粛清されてしまっていた

*3:彼とミコヤンが呼ばれたのは、スターリンの回復がなさそうと分かってからだったそうです

蘇我氏・藤原氏から紀伊国造家まで/『古代史講義 氏族編』

 

蘇我氏藤原氏から紀伊国造家まで

こちらのシリーズの「氏族編」です。

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大伴氏・物部氏蘇我氏藤原氏・源平といった有名氏族から、土師氏(菅原氏)、東漢・西文氏、あるいは紀伊国造としての紀氏*1など、知名度は前者に劣るものの興味深い系統までを扱っています。

個別の論点は読んでいただいた方が面白いと思いま須賀、特に古代氏族に共通して印象的なのは、倭王権を支えた頃の氏姓制から律令制への変化に応じて、各氏族のあり方も変わっていった(変わらざるを得なかった)ことです。

必ずしも親戚ではなかった物部氏

例えば物部氏は、何らかの職掌を担って王権に貢献する「部」の一つである「物部」の統率者とされ、必ずしも血縁関係のある集団ではなかった*2といいます。また、一族が父系で継承されていくという観念も律令制以降に定着したもので*3藤原不比等の妻として光明子を産んだ県犬養橘三千代のように、その過渡期にあって母系の影響力を行使した人物もいました。

古代国家の変化と連続性

一方では、ウヂとして(血縁)集団で特定の職掌を担うのではなく、各個人の能力で天皇に奉仕するという律令制の建前がありながらも、藤原北家を中心とする公卿たちは蔭位の制で優遇され、賜姓源氏たちも一世二世はその恩恵にあずかれる、という現実もありました。

こうした古代国家の変化とその連続性を具体的事例とともに知ることができるのは、本書の大きな魅力だと思います。

*1:紀貫之らを輩出した一族とも関係あるものの、紀伊日前宮に拠って現在まで続いているそうです

*2:例えば物部麁鹿火物部尾輿物部守屋もそれぞれ親子関係などではないそうです

*3:そして今、それが問い直されつつあるわけで須賀

「衰退のはけ口」とか「新しい資本主義」とか/『私は本屋が好きでした』(永江朗)

読書会の二冊目です。

恥ずかしながら出版流通の仕組みについてはほとんど知らなかったので、その中でいわゆる「ヘイト本」がなぜ書店の一角を占め続けるかも含めて勉強になりました。

その上で話題になったのは、ヘイト本の顧客像でした。日本の勢いが官民ともに下向き続けている今、かつて中韓への優越感の中で価値観を育んできた人たちがある種の「郷愁」を感じて、これらの本に手を伸ばしている。これは本書でも挙がっていた仮説だったように思います。

とするならば、"Japan as No.1"と謳われた時代に社会人になった世代がリタイアし、あるいは「役職定年」的な事情で経済的なゆとりを失った場合、彼らのうちの少なからずがヘイト的なものにはけ口を求めることはないのか。もっと言えば、経済規模と福祉がともに拡大する「黄金時代」を過ぎ、先進国で福祉国家からの撤退が言われるようになった1980年代から、すでにその傾向は始まっているのではないか。しかし「親世代より貧しい暮らしをせざるを得ない」ことがある程度、社会的な経験になった場合でも、その鬱屈した感情を特定の人(たち)にぶつけていいはずはもちろんないわけで、その時「成長を望めない時代」に生きる人々(恐らく我々も)は、何をもって充足すべきなのかーそんな話をしていました。

成長できない世界は戦争に帰結する、とも言われます。でもその発想や時間感覚こそが、近代ならではなのかもしれません。とはいえ、中世(あるいは封建)的な生活感覚をこれから再評価することが私達にできるでしょうか。この段落は個人的な呟きで、その場の議論にはなりませんでしたが、なんとなくその場の皆で合意できた(?)のは、自分好みの本屋を開いてなんとかやっていけるなら、それは楽しいかもねということでした。

アイデンティティの複数性/『ある男』(平野啓一郎)

【目次】

 

友人とのオンライン読書会で扱った本、その一です。

映画化されるそうですし、筋書きには触れません。

アイデンティティの複数性

「過去に関係なく人を愛せるのか」というところが主題とされているのは否定しませんが、私の印象に残ったのは、人間の多面性、もっと言えばアイデンティティの複数性でした。

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この本からの着想でもあるので須賀、一人の人間には先天的・後天的を問わずさまざまな属性があります。性別・年齢・人種・出生地・誕生月(「◯◯座」とかも)・血液型・生まれた家庭の環境もそうですし、勤務先・学歴・趣味・好きなスポーツチームなどもそうでしょう。それぞれがその人を形づくる一要素であって、逆にいうと一要素に過ぎないはずで須賀、特定の属性だけをあげつらわれ、それがその人の全てであるかのように批判・中傷されることもしばしばあります。

主人公が「ある男」に惹かれた理由

アマルティア・センは同書で「単一基準のアイデンティティでもって人間を切り分けるあり方が暴力を生み出し、増幅することを指摘し」*1ました。ここでやっと『ある男』に戻ると、その主人公が「ある男」に惹かれるように謎解きを続けたのには、ともに先天的な(自分が選び取ったわけではない)属性の一つによる暴力に晒された/つつあることが関係あるのではないか。さらに言うと、著者はまさにセンの言うような暴力の発露や増幅に警句を発する意図があったのではないか。そう感じました。

よく作り込まれたストーリー

読書会の参加メンバーからは「ちょっと作り込み過ぎ」という感想もありましたけれども、しっかり構成されており、読み進めていて十分楽しかったです。かなり俗っぽい言い方にはなりますけど、夫婦の倦怠期的なシーンも一つの「スパイス」として描かれていましたね。

*1:以前のレビューからの引用です