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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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10年目に紐解く…/『公共性の構造転換』(ユルゲン・ハーバーマス)

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

政治や社会のあり方について論じること、その市民的公共性はいかに形成され、どのように変容したのかを論じた本です。ハーバーマスの代表作として知られており、それこそ私が新聞社に就職することになった時、当時のゼミの教員が必読書として言及していました(それを紐解くまでに10年かかったわけです)。
個人的感慨はさておき、極限近くまでざっくりと内容をまとめると、以下のような話です。

絶対主義国家が伸長した時期に、財産と教養を持つ市民が議論する公衆として市民的公共性を形作っていた。しかし資本主義が高度化して階級対立が生まれ(それが政治に持ち込まれ)、福祉国家と社会が相互浸透することで、その給付を受益し消費する大衆がボリュームを増し、政党や労働組合、報道機関といった団体が交渉・発信面で影響力を持つようになった。その中で公共性を保っていくためには、そうした団体が内部的にも対外交渉においても(公開性などの)公共性を確立し、政治的な権力行使を理性化することが重要だ。

要するに、同質性を前提としたかつての市民的公共性を復活させることは難しいので、政府に対抗しうる社会内の団体が内部で公共性を保ち、外に対しても同様に振る舞うことで、なんとかそれを維持していきましょうということですね。そうした団体に高い責任が課せられるのは、公共性の構造が転換される中で実質的に必要だということでもあるので生姜、そうした影響力を持つ者に対するある種のノーブレスオブリージュであるとも感じました。
では、例えば日本社会において、その責任が果たされてきたでしょうか。55年体制という政治体制に起因するところも多いで生姜、自民党の内部的な公開性は比較的高かった(そうならざるを得なかった)とは言えるかもしれませんが、政府の官僚機構に対する働き掛けに透明性があったとは恐らく見做されていないでしょう。労働組合はどうでしょう。ハーバーマスの議論で組合が出てくるのは、戦後のヨーロッパにおけるネオ・コーポラティズム*1で有力な存在だからという部分もあると思われま須賀、そこまで力が強くなかったとはいえ、労働組合の内部統治の公開性も歴史的に高かったとは言えないのではないでしょうか。
そして最後に報道機関はどうか。残念ながら、内部的な公開性に関しては、これら3者のなかで最も低いと言わざるを得ないと思います。新聞社やテレビ局が具体的にどういった根拠でニュースを選び、あるいは特定の主張をしているかは、外に向けては十分に説明しているとは言えません。訂正記事を出すときでも、なぜそんな間違えをしたのかについて全く言及しないものが最近まではほとんどでした。
確かに、事件事故などで個別の事情を縷々説明する(=公開する)ことが好ましくないケースが多々あるのは事実でしょう。ただ、私の見聞きしている範囲がそうであるだけなのかもしれませんが、日常的に膨大な量の生の情報を捌く新聞社では、「捌き方」の基準があってもそれが遵守されずにその場その場の判断となっている場合も多く、そのような不整合を突かれないために判断根拠を具体的には示さないというメンタリティーがあることは否めないと感じています。要するに、「それは編集上の判断です。以上」とだけ言って門前払いしてしまうのです。特に、主筆一人の社論への影響力が極めて大きかったり、公開の場に議論を提出する(印刷された新聞を配る)ことを生業としながら(その主筆が)裏で政界工作を行っていたりということが公然と言われている新聞社が、ボリュームの上で主要な地位を占めているのが日本の現状なわけで、これがハーバーマスの構想に近いとは到底言えないでしょう。
 
これは、現在の公共性のあり方にも影響しているように思えます。この本はドイツ語で出されたのは1962年で、ネットどころかテレビ時代の初期であるので、その先のことは原則として自分で考えなければなりません*2。インターネットが普及したことで、少なくとも報道や言論において、大きな団体を背景にしない人たちが政治的公共圏に参入する技術的障壁は下がりました。それ以外についても、SNSで人とつながったり、クラウドファンディングで少額のお金を広く集めたりということも可能になりましたので、ハーバーマスが論じた団体のプレゼンスは相対的に下がっているのかもしれません。するとそうした団体のありようも相対化され、良くも悪くも批判的検証の対象になっていきます。
しかし、そうであるのに、その批判に耐えうる公開性を団体の側が持とうとしなければ、そのことで厳しい攻撃に晒されるのは明らかなことです。報道機関でいえば依然として発信力は強く、取材面でも既存の記者クラブ制度などで便宜を図られています。また一方で、これまで報道機関を介してでなければ十分に情報発信できなかった政府や政治家が、自らのサイトやtwitterなどのアカウントで直に情報発信できるようになってきましたし、記者会見の様子をそのままネットに公開することも増えています。その意味で、報道機関にとってのアウトプットは前述のようにそもそもから公開されている中で、インプットの一部も公開されるようになっている。なのに、その真ん中は往々にしてブラックボックス、のように見える。そのような状態が続けば、「偏向マスゴミが報じない○○」的な言説がネット上にあふれ、特に報道機関のアウトプットに満足しない人がそれを利用するようになるのは、むしろ避けえないことのように思えます。
 
話は戻りま須賀、新聞社に入ってから10年間読まなかった本をこのタイミングで紐解いたのは、現在IT系企業に出向している中で、ネットを絡めた公共的議論のあり方について考えてみたかったからです。期せずして新聞社の悪口ばかりになってしまいましたが(笑)、少なくとも私が見聞きする範囲の新聞社は、今の出向先の職場ほどではないかもしれませんが、アドホック的ながら議論しつつ新聞を作っていると感じています。そうした過程をもっと公開し、そしてその過程に多くの人を巻き込んでいくことは、新聞紙面よりはインターネット上の方が向いているかもしれない。これは、「ネットと『公共性の構造転換』」あるいは「ネットと政治的公共性」というテーマの議論の本筋には到底なり得ませんが、この辺のことも意識しながら、何ができそうか考える1年にしたいものです。

*1:政府・財界・労働組合が頂上レベルで妥協を求める

*2:1990年の新版向けの序言というのは冒頭にありま須賀