かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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「突然変異」ではないナチズムの大衆扇動/『大衆の国民化』(ジョージ・L・モッセ)

大衆運動と大衆扇動のシンボル表現によって特徴づけられる民主政治―著者が言う「新しい政治」―がドイツ近代史においていかに立ち現われ、ナチス期に至ったのかについて論じた本です。著者の論旨として注目すべきは、まさに太字で強調したように、全体主義の代表選手たるナチスの専売特許のように思われがちなそれらが、非常に「豊かな前史」を持っていたとされる点です。キリスト教信仰とナショナリズムの混淆がみられる「敬虔主義」や、全体の統合や秩序を重んじる(と近代のドイツ人が理解した)「ギリシャ的な」美的趣味といった素地が、宗教学や美学的見地から詳細に説明された上で、国民的記念碑や合唱団、体操家、射撃協会、そして労働者らが、ナポレオン戦争から第二帝国を経て第三帝国に流れ込むまで、それぞれの浮沈を経ながら如何にそこに巻き込まれ、あるいは「教訓」を残したのかを説いています。
とするならば、著者が訴えているのはナチスの異常さではない、そう理解すべきでしょう。日本の戦国時代に関するものとして、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川」という歌が知られています。史実としてどのくらいそう言えるのかはそう簡単ではないで生姜、この本において著者が描こうとしていたのは幾分それに近い光景であって、「すわりしままに食」ったとまでは言えないにせよ、少なくともこの「新しい政治」が全工程を一手に引き受けた生産者による限定品ではないことを示そうとしたと言えるでしょう。つまりそれは、民主政治の中の別の場所でも起こった/起こりえた現象であり、また、起こりえる現象であることをも意味しているのです。
『ナショナリズム論の名著50』(大澤真幸編)で訳者によって紹介されていた本で、まさにここでの議論を北朝鮮にどこまで応用できるかが最初の関心でした。その意味では、ややこの本の方が射程の大きい議論であることは否めませんが、ものものしい「国民的記念碑」の前に「聖なる広場」が広がる光景はまさに現地で見てきたものですし、「人間の証し―『映画芸術論』抄」を著わす*1など、金正日総書記は映画を中心とする芸術に非常に造詣が深かったとされています。その意味でも、参照すべき点は多い一冊だと考えています。

*1:レビューは投げ出しww