かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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『増補 八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』(佐藤卓己)

なぜ8月15日が終戦なのか。玉音放送を聴いて嘆き悲しむ人たちを撮ったとされる「玉音写真」や、当時主要なメディアだったラジオ番組編成、また戦後日本を中心とする歴史教科書の記述といった幅広いメディアに材を取って検証した本です。
結論からかいつまんで言ってしまうと、これは戦前から続いた「お盆ラジオ」の延長線上に定着していったもので、戦後10年の1955年ごろにはいわゆる「8月ジャーナリズム」として定着していったのだそうです。しかしそれは、終戦(侵略戦争に敗れた)記念日であることからくる(べき)「戦争を反省し平和を願う態度」と、お盆であることによる「死者を追悼する態度」の混同を招きます。この日にしばしば行われる政治家による靖国参拝をイメージしていただければわかりやすいと思うんで須賀、参拝した方は「死者の魂を慰めに行っただけ」のつもりでも、先の大戦で日本と戦争をした国々から見れば「こいつら、負けたその日にA級戦犯に頭下げに行くんか」ということになって、話が余計ややこしくなってしまうわけです*1。そうであるならば、少なくともそれを避けるためにも、8月15日の「戦没者追悼の日」と降伏文書に調印した9月2日の「平和祈念の日」に「政教分離」しましょう、著者はそう提案しています。
もちろん、いわゆる歴史認識に関わる諸問題がそれで解決するわけではないでしょう。戦後70年を経て、当時の記憶を保持する人が格段に減ってきたからこそ、不幸な出来事の「記憶」をめぐる軋轢はより政治的な色合いを帯びていくのかもしれません*2。しかしそれでも、「他国の人々と戦争を理性的に討議するには、まず討議の枠組みを整える必要があると考えた」「記憶や認識の問題にメディア研究者が貢献できるとすれば、それはまず討議に適した時空を確定することではないだろうか」という著者の眼目は、ここでの議論によって達せられているように思います。
終戦記念日が死者を弔うお盆の時期と重なっていること。それが戦後日本人の意識にどのような影響を与えているかは、個人的にも興味のあるテーマでした。この本がその歴史的経過を実証的に紐解いてくれたことで、理解への大きな助けになりました。
ちなみに関連書籍のつもりで、

天皇の玉音放送

天皇の玉音放送

も読んでみましたが、かなり毛色が違いましたねw 戦後の天皇制維持(憲法1条)―戦争放棄(憲法9条)―日米安保という日本の国家制度の骨格ともなってきたものが、天皇サイドとGHQアメリカの「談合」によって形成されてきた様をかなり批判的に追った本です。「昭和天皇は初対面のマッカーサーに自分の全責任を認める発言をした」という「定説」にも、そうした文脈から疑義を呈しています。「談合」という言葉を使うなら使っても嘘ではないことがあったことは認めてよいと思いますし、「大元帥の発言として無責任すぎるじゃないか!」と言われればその通りの言動もあったとは思うので須賀、こういう大上段に理屈を振りかざして別陣地から責め立てることを旨とするような議論には個人的にはあまり魅かれませんでした。筆が滑りすぎているのか、管見では主張が飛躍しているように思える部分も少なからずありましたし、何よりもその「日米談合」の諸アクターについて、内在的な理解を目指すスタンスがあまり感じられなかったことが大きいのかもしれません。何度も紹介されていた豊下楢彦の本は読んでみたいですね。

*1:最近は確信犯的に参拝してドヤ顔の方も多くいらっしゃるようで須賀

*2:これは本書冒頭の「玉音写真」検証から得た心証でもあります