かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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「公議」とポリアーキー/『維新史再考』(三谷博)、『明治史講義』

【目次】

 

 

一橋派と一橋慶喜のオセロゲーム

「公議」をキーワードに、世界史的な視点をも交えながら幕末・維新史を丁寧に論じた本です。錯綜する幕末の政治過程や各アクターの意図についても、図表などを用いながら説明してくれるので、整理の助けになります。

本書の核となる「公議」の語は、一般化して言えば、政府外から政治参加を主張する際に用いられてきました。

それは幕末においては、一橋派に連なる大大名(薩摩・越前・宇和島など)が旗印にしたものでしたが、実はその実質的な帰結は「大名みんなの意見を聞け」ではなく、「我々のような力のある大名の意見を聞け」でした。複数回にわたってその矛盾を突き、「衆議」と称して自分に近い立場の大名を集めて公議派大名に煮湯を飲ませたのが、他ならぬ一橋慶喜だった、というのも歴史の面白いところで須賀、こうした政治参加の範囲を巡る問題*1は、政治学的にも射程の長いものです。

「公議」とポリアーキー

さらに言うと、一丁目一番地たる五箇条の御誓文に公議を掲げた明治政府も、ほどなく「有司専制」との批判を浴びるようになります。その時、この言葉を持ち出したのは薩長に対抗しようとした板垣退助ら土佐派がメインだったわけで須賀、これも公議と叫ぶ以上は、もっと参加範囲を広げる主張をせざるを得ない。

こうして「公議」というスローガンは、政治的異議申し立ての旗印でありつつ、幕府専制政治から帝国議会開会まで、40年弱という期間で政治参加を急拡大させることになりました。この時点で十分に達成されたとはみなせませんが、19世紀日本のポリアーキー化を推し進めたのがこの言葉だと言ってもよいのではないでしょうか。

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そう言えば昔、この本を読んだときに、西洋政治学の概念で日本政治史をどの程度料理できるのか興味が湧いた、と書きました。その意味では、「公議」を巡る日本近代史はその答えの一つになり得るように思います。

網羅性の高い20章

『維新史再考』は、この本に教わって出会いました。

明治史講義【テーマ篇】 (ちくま新書)

明治史講義【テーマ篇】 (ちくま新書)

 

内政・外交などテーマ別に20章が並ぶ構成で須賀、かなり網羅的に明治史をフォローしつつ、近年の研究水準を示してくれていますので、こちらもオススメできる本です。

 

*1:慶喜は参加範囲を再拡大することでオセロをひっくり返そうとした

「麒麟がくる」四十話/「春日大社の呪い」と噂された松永久秀の末路

【目次】

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松永久秀の死は春日大社の呪い?

物語の序盤から十兵衛と交流があった松永久秀が、ついに波乱の生涯を閉じました。

信長公記』によると、久秀討伐のために出陣したのは大将の嫡男・織田信忠に加え、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀という錚々たるメンバーでした。信貴山城攻略の前哨戦で、細川忠興が一番乗りの活躍をしたことも紹介されています。

ちなみに久秀が焼死したのは、彼が東大寺大仏殿を「焼いた」*1ちょうど10年後の同じ日だったとされ、そのことといい久秀謀反の際に彗星が見られたことといい、春日大社のなせるわざだと噂されたーなんてことも書いてありました。

平蜘蛛が裂いた信長と十兵衛の仲

ドラマの中での注目ポイントは、何と言っても茶器・平蜘蛛だったでしょう。久秀もろとも砕け散った、との伝承が有名で須賀、調べてみたら「破片を繋ぎ合わせて復元された」「無事信長の手元に渡った」「久秀が親交のあった人物に譲った」などの説もあるそうで、明智光秀に託されたとの設定もその辺を参考にしたのかもしれません。

平蜘蛛を巡る十兵衛の嘘は、信長と十兵衛の関係にヒビが入る決定的な契機になりました。恐らく直前に信長が泣いていたのは、これからなされるだろうやりとりを予期してのことではなかったでしょうか。十兵衛も十兵衛で、信長との関係悪化を「久秀の罠」とまで言い、太夫に遠回しに嗜められるシーンが印象的でした。どちらも望まない破局への道筋が、顕在化した回だったように思います。

*1:意図的に放火したのかはよくわからないそうです

大晦日に祖母が他界し、コロナ禍で九州の田舎へ帰った話

【目次】

 

2020年の大晦日に、祖母が89歳で他界しました。

身近な人が亡くなるのは、それだけでもとてもとてもつらいことで、いつの世においても強い印象や感慨を与えるもので須賀、現在のコロナ禍では、その経験はさらに特別なものとなった気がします。改めての追悼の意味を込めて、少しだけ振り返ってみます。

一度は死を覚悟した家族

祖母は19年秋から体調を崩し、近くの病院に入院していました。10年に夫を亡くしてから一人暮らしをしており、彼女の異変に気付くことができませんでした。

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私は19年11月と20年1月に帰省しました。2度目は「かなり危険な状態」と聞いて駆けつけ、祖母宅で最低限の仕事をしながら1週間ほど見舞いました。その時点で意識ははっきりしていなかったので、引き上げる時にはその時なりに、「祖母との最後の時間をじっくり過ごすことができた」というある種の割り切りをもって、飛行機に乗り込みました。そう言えば、香港からのクルーズ船が同県内に立ち寄った、なんてニュースもちらっと流れていた気がします。

「生きたい」と言った祖母

そこから、よく頑張ったと思います。身内の医療関係者が現地滞在中に病院と話し合い、祖母の体調変化や治療方針についてコミュニケーションが取れるようになったこともあり、祖母は多少の会話ができる程度にまで回復したそうです。

「生きたい」。ある時祖母はそう言ったと聞いています。「3月の誕生日を迎えられるだろうか?」との心配は杞憂となり、ひとまず安心することができました。

息子たちに看取られての最期

容体が好ましくなく、それに伴う処置を行うことも12月下旬に聞いていました。いよいよ危篤であるとの連絡を受け、30日に父(祖母の次男)が飛んで帰りました。

ただ、当時すでに新型コロナウイルス感染の第3波の真っ只中でした。大都市圏から、市内の累計感染者数が20人ほどという片田舎の病院に直接駆け付けることは好ましくありません。病院側で協議の上、院外でのPCR検査陰性と防護服の着用を条件に、病室に入ることを許されたそうです。

亡くなったのは31日午前4時でした。伯父と父に片手ずつ握られたまま、旅立ったそうです。

PCR検査、6時間で出た「陰性」

私が訃報に接したのは6時ごろだったと思います。私は父よりも感染リスクが高いと見なされている地域で生活していますので、午前中のうちに自費でPCR検査を受けました。そこで陽性なら万事休す、となってしまいま須賀、故人を弔うためとはいえ、無自覚で感染を広げて今生きている(高齢の)人たちの命を危険に晒すわけにはいきません。

翌日までには、と言われていた結果は約6時間で出まして、陰性でしたので*1、元日の便で帰りました。6月に生まれた長女も連れて帰ってあげたいところでしたが、ここはなるべく少人数でということで、妻子にはお留守番をお願いしました。

傍にいることの意味

通夜・告別式から四十九日の納骨*2まで、見届けてきました。伯父・父と3人で市役所にも出向き、取り急ぎとるべき手続きは済ませてきました。実母を見送った父のショックは特に大きかったようで、具体的に何をしてあげられたわけでもありませんけれども、ただ傍にいるという意味において、お互いに支え合えたとは思っています。

あと、こうした場に飲食はつきもので須賀、少なくとも他県勢は酒はやめようと申し合わせ、「マスク会食」で弁当をつつきました。祖父の時、夜通し焼酎を飲みながら涙していたのとは様変わりです。肩を叩いて励ましてくれる親戚もいましたが、その気持ちに充分に応じることができないのは、本当にもどかしいことでした。

「緊急事態」に急かされて

遺品の整理をはじめ、まだまだすべきことはたくさんありました。業務の調整がつくギリギリまで、滞在することも検討していました。ただ、年明け早々に緊急事態宣言が発令される流れとなったため、不測の事態を避けるために余裕を持って飛行機の便を確保しました。いろんな制約はありながらも、最後まで祖母を見送ることができた。そう思うことにしています。

 

帰宅すると、遂にひいおばあちゃんには会えず仕舞いだった生後6ヶ月の娘が私を見つけて微笑み、拙いハイハイで近寄ってきてくれました。そんなことがいつの間にできるようになったのかと驚くとともに、こういう家族とのひとコマひとコマを大事にしたいなと感じました。

*1:もちろん100%感染していないと言えないことは理解しています。そもそも飛行機が着陸するまでのどこかで感染する可能性も十分ありますので

*2:事情を鑑みて告別式の日にやってもらいました

「真面目なおじさん」による仕事論/『変なおじさん 完全版』(志村けん)

【目次】

 

変なおじさん【完全版】 (新潮文庫)

変なおじさん【完全版】 (新潮文庫)

 

「変なおじさん」「バカ殿」などのキャラクターで知られるコメディアン志村けんの自伝です。

「真面目なおじさん」の仕事論

タイトルはもちろん、前述のキャラクターから取ったもので須賀、著者が自分自身を評した言葉でもあるそうです。しかし、内容を読み進めると出てくるのは、「番組づくりに際しては、放送時間内でのバランスやペース配分を十分考慮して組み立てている」「公開収録では客の反応を見ながら、常に内容を調整している」*1といった、至って真面目な仕事論でした。今風に言えば、毎週のドリフの放送を通じてPDCAを回し続けていたという話なわけで、非常に真面目なおじさんなんだなあ、と感心させられました。

「変なおじさん」だと笑ってあげたい

カトちゃんケンちゃんくらいからだったと思いま須賀、物心ついた時からよく見ていました。自宅には、バカ殿の目覚まし時計も置いてあります。食べ物を片っ端からミキサーに入れてしまうコーナーは非常に嫌でしたけど、ひたすらコミカルな動きや表情と、そして(人を馬鹿にするのではなく)自分がひたすら馬鹿をやってやろうという姿勢は好きでした。

世界的に流行している感染症による突然の死、ということもあって、著者の訃報はかなりの社会的関心を集めました。その分、哀悼し、遺徳を偲ぶ声も今なお大きいように感じられます。ただ、きっと故人は、それほどエラくてスゴい人だと思われることを望んでいなかったのではないでしょうか?それこそ「はははははーしむらけん。はははははー、どじじゃのー、ばかじゃのー、あーはらがいたい」(くりすあきらからの手紙)と笑うことが、今となっては最良の供養なのだと思っています。

*1:例えばこの両方の例に該当するのが「ヒゲダンス」だったりします

麒麟がくる三十九話/築山殿の登場は光秀=天海説の伏線?

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本願寺との戦に際し、明智光秀は病に倒れ、次いで妻の煕子が世を去りました。ナレ死、と言えばそうで須賀、きれいな演出でしたね。

確かに光秀の看病が祟り、煕子が亡くなったという話は伝わっているそうです。最後に言ったセリフは、光秀に決起を促す伏線になるのでしょうか。

一方で気になったのは、徳川家康の妻・築山殿がここで唐突に登場したことです。本作では明智光秀が主役ということもあり、光秀と家康の関係も強調されがちで須賀、この後、築山殿を襲う悲劇を考えると、これまたクライマックスと関係してくるのかと疑いたくなってしまいます。

有名な光秀=天海説をそのまま踏むとは考えにくいですが、今回の家康が、幼少時から馴染みのある光秀の行動と何らかの形で連動してくる展開もあるのかもしれません。

麒麟がくる三十八話/「斎藤利三の去就が本能寺の一因」説/芦田愛菜と「こども店長」揃い踏み

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斎藤利三の去就が本能寺の変の一因」説

今日は十兵衛にとって、複数の意味で転機となる放送回でした。もちろん丹波への転戦もそうなので須賀、稲葉家を出奔して明智光秀の家臣となった斎藤利三が重要な伏線になる、との説があります。

それによると、信長は「斎藤利三稲葉一鉄に返すように」と光秀に命じたものの、光秀はそれを拒み、怒った信長が光秀に暴力を振るったことが本能寺の変の一因となったーのだそうです。そのエピソードを紹介している史料の信頼性があまり高くないともされま須賀、確かにドラマでも、利三の処遇を巡って信長と光秀の意向が対立するシーンが描かれており、この説を踏まえたシナリオであることは間違いないでしょう。この問題が再燃するのかどうか、気になるところです。

三淵藤英・細川藤孝兄弟の姓が違うわけ

三淵藤英が光秀の坂本城で死んだのも史実とされます。この三淵氏は、足利義満庶子とも義持の庶子ともされる家系ですので、藤英らが仕えた義輝や義昭とも遠戚と言える間柄です。

藤英・藤孝兄弟の父が細川氏から三淵氏に養子に行っており、藤孝はその父の兄の養子となったため、「細川」と名乗ったとされます。ともに「藤」の字があるのは、主君・義輝(元は義藤)から一字賜ったためです。そうした系譜・経緯があれば、藤英が足利将軍家に殉じようとしたのも理解できる気がしますね。

「名子役」が揃い踏み

たま(細川ガラシャ)役として、ついに芦田愛菜が登場しましたね。そしてその直後のシーンでは、「こども店長」で一世を風靡した加藤清史郎まで。正親町天皇の第一皇子・誠仁親王がこの先どのくらいの頻度で出てくるのかはちょっと読めませんが、面白いキャスティングではありました。

『戦国の忍び』(平山優)/忍者の正体は中世のアウトローだった?

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戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

 

「Ninja」ではない忍びの実像

戦国時代の膨大な史料を操りつつ、「忍び」の実像に迫る本です。

「Ninja」は既に海外でも通用する語彙となっていますが、そこから想起されるような超人間的な秘術を用いる存在としてではなく、実際にはどのような人たちで、どんな活動をしていたのかを丹念に追っていきます。

アウトローとしての忍び

彼らはもともと「悪党」などと呼ばれたアウトロー出身者であることが多く、それもあって諜報・索敵・待ち伏せ・城などの破壊工作・暗殺など多様な任務に当たっていました。大名たちは、彼らを召し抱えることによって、他国との戦争を優位に進めようとしたのみならず、「毒をもって毒を制す」ことで自国の治安維持を図ろうともした、と著者は指摘します。その背景にあるのが、中世における夜の世界の特殊性です。昼と夜では、適用される法からして異なっていたそうで、夜に忍びたちが暗躍したのもそうした事情によっていたといいます。

「釣り野伏」「捨てがまり」との関係は

こうして見ると、「忍法○○の術」を使いそうな「Ninja」との違いは明確にあると言えるでしょう。一方で、例えば忍者の活躍ぶりがゲーム展開を大きく左右した「信長の野望将星録」あたりをやり込んでいると、意外と割と、しっくりくるイメージかもしれません。

一つ興味を持ったのは、東北関東で「草」、関東〜東海で「かまり」、西日本中心に「野伏」などと呼ばれたという伏兵と、島津家の戦法として名高い「釣り野伏」や「捨てがまり」との関係です。本書では触れられていませんが、語彙的に見ても、関係があると考えるのが自然でしょう。これらの戦法をどういった人々が考案し、遂行していったのか、気になるところですね。