かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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死を受け入れるプロセス

今日、祖父の告別式を終えました。ここに至るまで様々な行事や宗教的儀式の連続で、遺族として、どちらかというと弔問客を迎える側として振る舞うのはそれなりに難儀なことでもありましたが、一つ一つ定められた形式の行動を取っていくこと(その際内容は関係ない)によって徐々に死を受け入れ、またそこに込められた宗教的意味合いを消化することで、人の死やそれが絶えず起こっている世界(の「不条理」)を理解する枠組みを得ることができるのだろう、と何となく感じていました。式後に複数の親戚が口にした「無事に式を終えることができました」などという口上や感想も、その中で位置づけられるように思います。じいちゃんの死を受け入れさせるのは、おそらく酒だけではないのでした。
当たり前で須賀、私自身もそのプロセスの渦中にいました。初めて亡骸と対面したときから、直接触れることはできないでいました。時間が経つにつれ、目の前にある現実を物理的に正視することはできるようになったので須賀、どうしても触ることはできない。なぜなら、その亡骸は触るときっと冷たくて、その冷たさが伝わった瞬間、彼の死に100%向き合うことからの心理的な逃げ道が完全に断たれてしまうことは容易に想像できたからです。
と言っても、そんな駄々をこねていては触れることなく祖父は灰になってしまうわけで、それが可能な最後のタイミングで、広くてひんやりとしたおでこに触って別れました。そこに踏み切れたのは、それまで「受容」を積み上げてきたからであるので生姜、まさにその行為こそが、私にとってその受容のプロセスの大きな跳躍だったんだと思います。
あと全く別の話になりま須賀、葬儀会社さんってすごいですね。私達遺族が語り合っていた内容をギンギラギンにさりげなく聞いていて、あるいは故人の人となりや遺品の意味付けをギンギラギンにさりげなく聞き出して、式典の演出を作り出していく。これも扇情的と言えばまあそうなんでしょうけど、この「取材力」には正直言って驚きました。
祖父の死についての恐らく最後の言及として、念のため一つお断りをしておきま須賀、私は決して、焼香の際に仏前へ抹香を投げつけたりはしていません。