かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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「蝮がくる」結末へ 見るべきは巧みな構図設計/「麒麟がくる」十六話

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今日は歴史の動きというよりは、物語としての構図の作り方に目が行きました。

殺された孫四郎と帰蝶、それを指示した義龍とともに近い明智光秀の煩悶、そして「大きな国」への思いを道三から引き継いでいくというストーリーと、うまく布石を打っているなと思いました。

また、帰蝶が遣わしたカーネーションの主人公伊呂波太夫が、道三に美濃から越前への逃亡を薦めているのも、光秀の今後と関係がありそうです。

次回が一つの節目になるでしょう。その前段として、見応えある回だったと思います。

 

  

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「コロナ」と「コロナ後」を射程に収める名著/『疫病と世界史』(ウィリアム・マクニール)

 

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)
 
疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)
 

我々の祖先がアフリカの熱帯雨林を離れてから20世紀まで、感染症が人類に及ぼした影響について論じた本です。出版されたのは1970年代で須賀、昨今の新型コロナウイルス世界的流行の影響で再び注目を集めているようです。

人類を襲った感染症に関する証拠や記録は、往々にして断片的だそうなので須賀、著者はそうした史料と医学的知見、そして推論を駆使して議論を進めていきます。灌漑農耕と大都市の形成が、細菌やウイルスにとって非常に良好な環境となったこと、初期の文明ごとに特有の疫病が定着し、東西貿易が徐々にそれをならしていったこと、モンゴル帝国の軍事活動や大航海時代の船舶往来がそれを地球規模に広げたこと、近代以降の医学の発展が「疫病」と呼ばれるほどの大流行を抑え込みつつあることーなどなどが描き出されています。加えて、こうした疫病に対する慣習的防疫法の地域による有無、なんて話も紹介されています*1

一方で、著者は「天然痘の撲滅に見られるように、医学は感染症に勝利したのだ!」と述べるほど楽天的ではありません。感染症を引き起こす微小生物による「ミクロ寄生」、古くは大型肉食動物から他の人間(収奪を行う支配層)までを含む「マクロ寄生」という概念を定義し、生態系の中にいる人類も、このミクロ寄生とマクロ寄生からは逃れられないと指摘します。具体的には、医学や公衆衛生が進歩した現代においても▽ウイルスなどが突然変異した場合▽他の生物を宿主としていた寄生生物が移ってきた場合▽それらが生物兵器として使用される場合ーは、この先も大流行が起き得るとしています。

現在の新型コロナウイルス流行においても、この3ケース全てが話題になっています。

digital.asahi.com

この記事にあるように、現在日本で猛威を払っているのは、突然変異を経て強い毒性を持つようになったとされる欧州由来のウイルスだとの見解が出されていますし、そもそもはコウモリを宿主としていたとの説がよく知られています。そしてこれはオマケで須賀、「コロナウイルス生物兵器説」の如きものも話題になりましたね。これらは、今回の流行やそれに伴う影響も、著者の議論の延長線上で捉えられる側面が多そうだ、ということを示していると言ってよいのだと思います。

 

その意味で一つ気になったのは、感染症の流行が社会にもたらす心理的な影響についてです。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

有名なこの本のハイライトシーンにもなっていま須賀、新大陸で繁栄したアステカ・インカ帝国の滅亡には、中南米にはなかった(=住民たちが免疫を持っていなかった)感染症がものすごい勢いで流行してしまったことが深く関係しているとされます。その時のネイティブ・アメリカンたちの心象風景について、著者はこのように述べています。ネイティブ・アメリカンのみが劇的な感染拡大で相次いで倒れ、ヨーロッパ人はさしたる被害を被らなかった。これを「天罰」と捉えて打ちひしがれた彼らは、これまでの価値観や信仰を捨てざるを得なかったー。

逆の例として著者が提示するのは、近代医学の萌芽によって疫病による「突然死」が減ったことが、科学的思考法の浸透につながったのではないか、という仮説です。マックス・ウェーバーで言うところの「脱魔術化」に近い指摘でしょう。

これらを併せ考えると、いわゆる「コロナ後」の社会にどんな雰囲気が広がるか、方向性は想像できるような気がします。志村けんさんがそうだったとされるように、急に容体が悪化し、まさかの訃報が流れる。ファンどころか身内も、最後の別れをこれまでのように告げることは出来ず、遺骨だけが戻ってくる。特に現在の日本では、PCR検査自体が望む人全員に実施されておらず、体調の悪化した人は(それがコロナウイルスによるものであってもなくても)、「自分も突然容体が悪化し、死ぬかもしれない」という不安を抱えながら日々を過ごさねばなりません。独居の人は、尚更でしょう。

もしどこかのタイミングで政府の緊急事態宣言が解除されたとしても、コロナウイルスとの「付き合い」は長期化すると多くの専門家が述べています。とすれば、不安感やある種の無常感、科学的・合理的な思考法への懐疑が社会に広がり、宗教や精神世界に関するような「魔術的な」価値観も、一定の浸透を見せるでしょう。そうしたものが一律に悪だと言うつもりはありませんが、度の過ぎた不安の拡散や、それに伴う混乱は避けなければなりません。ウイルスのみならず、不安や激情の「感染拡大」を防ぐコミュニケーションも、各国政府や報道機関、そして、社会の構成員一人ひとりに求められているのだろうと思います。

 

 

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*1:女真族のそれが清王朝の樹立に関わったとの指摘も興味深いで須賀、度々天然痘などの病に襲われた平安貴族の「方違」「物忌」といった慣習や「死穢思想」との関係を検討してみても面白いかもしれませんね

ディテールも史実重視/「麒麟がくる」十五話

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驚いたのは、主人公以外について、かなり史実に立脚して描かれていることです。

信長の叔父、織田信光が彦五郎(織田信友)を謀殺した件(その後信光も不審な死を遂げるので須賀)、日根野弘就が斎藤義龍の異母弟を斬ったことなどは、その通りのようです(ちなみにこの日根野関ヶ原にも参戦したそうです)。これらは結構ディテールで須賀、事実は小説よりも奇なり、だとすると、史実をしっかり描いてくれた方が視聴者は楽しめるのではないでしょうか。

ただ、そうすると前半生がはっきりしない主人公・明智光秀は脇役に甘んじざるを得ませんが、義龍の学友でありつつ、対立する帰蝶と近い仲であるというジレンマはうまく描かれていました。個人的には残念ながら、「蝮がくる」はそろそろ終わりそうですから、次の描き方に期待です。

 

 

 

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通じない父の「愛」、深まる道三と義龍の亀裂/「麒麟がくる」十四話

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斎藤道三・義龍親子について語るべきでしょう。

ドラマにもあるように、道三は正徳寺の会見を通じて娘婿の信長を認めたようです。信長公記によれば、このとき2人は、お茶漬けを食べて盃を交わしたとされます。この時の道三による信長評として「自分の子供たちはあのたわけの門前に馬を繋ぐ(臣従する)ことになるだろう」という言葉が有名で須賀、これは作中では、信長に援軍を出す際の義龍とのやり取りの中で表現されていたのでしょう。道三も、我が子の奮起を促す意味であのような挑発的な態度をとっているので生姜、受け取る側の文脈が全く違ってしまえば、逆効果となるだけのように思えます。

義龍の母・深芳野については以前も触れましたが、入水自殺したというのは恐らくドラマの筋書きなのだと思います。

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その母の死をきっかけに実現した家督相続で須賀、これで収まるはずがありません*1。今回も完全に脇役だった明智光秀も、本当に義龍の側に立つのか、ちょっと含みのある態度に見えましたね。

 

完全に余談で須賀、駿河での駒と菊丸のシーン、2人と背景の人々は別で撮影したような映りだった気がします。コロナの影響で厳しい環境だとは思いま須賀、安全第一で、続きを楽しみにしています。

 

 

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*1:追記 物語としては、深芳野は我が子に家督を継がせられないと思ったからというよりは、愛する夫と息子が文字通り不倶戴天の敵になりつつあることを感じ、その破局を見るに耐えないと感じたからあのような行動に出たのではないかと思えてきました。そうだとしたら、切ないですね

『追跡 金正男暗殺』(乗京真知、朝日新聞取材班)

 

追跡 金正男暗殺

追跡 金正男暗殺

 

白昼の国際空港で繰り広げられた俺たちの正男金正男の暗殺劇を追った、朝日新聞のウェブ連載をまとめたものです。金正男の直前の足取り、実行犯とされた2人の女性たちの来歴、その背後で蠢いていた人間たち(北朝鮮工作員)の動向、そして彼女らの裁判の展開などを、現場を大事にしつつ描いています。

女性2人の人となりや北朝鮮工作員たちの手口などを、事件取材の手法で克明に浮かび上がらせています。その上で言えば、(別ルートの取材が必要にはなるで生姜)「遺体引き渡しや2人の釈放に至る関係国間の駆け引き」「そもそもの北朝鮮側の動機や意思決定」といった政治的な展開についてももっと読みたかったですね。取材班での連載だったそうで須賀、北朝鮮を巡る国際関係の取材に長けた記者もいるはずですので、そうしたメンバーも加えてやれば、より多角的な検証になったのではないでしょうか。

金正男という人物については、

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この本に興味深い内容が書かれています。

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こちらは、当時の個人的な感慨です。あれから3年になりま須賀、息子のキム・ハンソル氏らはどのような日々を過ごしているのでしょうか。気になります。

 

 

 

韓非子からコロナウイルスまで/『韓非子』(常石茂訳)

 

韓非子

韓非子

  • 作者:常石茂訳
  • 発売日: 1968/01/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

中国・戦国時代の法家を代表する思想家、韓非子の著作とされるものです。「されるもの」というのは、後世の人の加筆とみられる箇所も多い点を踏まえた留保です。

マンガ孫子・韓非子の思想 (講談社+α文庫)

マンガ孫子・韓非子の思想 (講談社+α文庫)

  • 作者:蔡 志忠
  • 発売日: 1995/06/15
  • メディア: 文庫
 

小学生の頃だったと思いま須賀、武田信玄孫子への関心からこのマンガを手に取り、むしろ韓非子の部分を興味深く読んだ、なんてことがありました。少し前、たまたま古本を手に入れる機会があり、懐かしさもあって通読してみました。

韓非子の主張を一言でいえば、「信賞必罰」です。人は利で動く。だから君主は、法を厳格に適用して賞罰を徹底し、それを通じて臣下を操縦していく術を駆使すべきだ。そうすれば国は治り、富強になるー。ざっくり言うと、そんなところでしょうか。

法の予測可能性*1を重視する、臣下の言行一致を試すなど、ある種非常に科学的な議論が展開されていました。

一方で、彼以前の中国古典上のエピソード(三皇五帝孔子など)を韓非子流に論じる、というのが醍醐味である*2反面、それをどう解釈・評価するかの「予測可能性」はもう一つだったのかなという気がしています。それは私の読み方が浅いということでもあるで生姜、最初に述べたように、後世の人が勝手に?書き足したとみられる箇所が少なからずあることとも関係しているのでしょう。事実、研究者は「この章はいつもの韓非子の主張と違う」といったことから真贋を検討しているそうです。

 

さて、最後に、今の日本の状況と絡めて一つだけ。

韓非子は、統治者は利を求める民の選好を掌握して、その力を制御せよと度々論じます。当時の中国と今の日本では、統治者が統治者たる所以が大きく異なっているとはいえ、社会状況を一定の範囲内に制御する必要性*3は変わっていません。

そこで、コロナウイルスの蔓延をめぐる日本政府の対応です。それが何割なのかはともかく、公衆衛生上の理由から、市民の物理的な移動・人との接触を大きく減らす必要がある状況であることは疑いありません。であるとするなら、いきなり学校を閉めるとか、警棒を持った警官が「外出自粛要請」をするといった剥き出しの権力行使にばかり頼るのではなく、市民の「利」に応える政策こそが必要なのではないでしょうか?

この状況下で長距離の通勤をしたい、夜中に飲食店を開けたいとは望んでいなくても、そうせざるを得ない事情を抱えている人は多くいます。そのジレンマを解消するための動機付けや環境整備をすること、在宅勤務に切り替え、店を閉めるための「利」を提供することこそが政治の役割なのだと思います。「自粛と補償はセットだろ」と叫ばれるようになって久しいで須賀、未だにそれが十分に実現していないのが現状です。このままで、韓非子流に言えば「国が治まる」のでしょうか?

 

 

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*1:何をするとどんな法律が適用されるか、事前に予測しやすいこと。口頭で法解釈の変更が決裁されるような状況は、予測可能性が高いとは言えません

*2:個人的には、韓の昭侯が衣装係と冠係の両方を罰した話がとても懐かしかったので須賀、春秋の五覇の筆頭格・斉の桓公がぶった斬られている部分も圧巻です

*3:その幅はなるべく広くあるべきだと私は思いま須賀、例えば殺人行為が取り締まられない社会になってはいけない

最後は武田勝頼を頼った土岐頼芸/「麒麟がくる」十三話

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斎藤道三・義龍父子の激突や有名な正徳寺の会見など、見どころの多い回でしたね。会見における信長側のプロデューサーは帰蝶だった、というのは今作ならではの演出で生姜、伊呂波太夫にお金をチラつかせる時の表情といい、川口春奈の好演技もあって違和感ないストーリー展開になっていたと思います。

自死した平手政秀については、「うつけの信長」に対する諫死というこれまた有名な説とは違う説明の仕方がされていました。個人的には平手政秀は(「バカ殿」に悩まされる)桑マンのイメージだったので須賀、そういう筋書きにしなかった点、そして今回あってもおかしくなかった織田信秀の葬儀のシーン(ラフな格好で現れた信長が焼香を投げつける)をやらなかった点などを考えると、あまり「うつけ」イメージを強調しないのが今作の方針なのかもしれません。

 

最後に、嫌われ者の道三に追い出された土岐頼芸のその後について。彼は血縁関係にあった六角家が拠点とする近江など、諸国を点々としながら、最終的には甲斐の武田勝頼を頼ります。その過程で、視力を失ってしまっていたそうです。武田家としても、お互い甲斐・美濃の守護の家柄であり、源氏の流れを汲む間柄でもありますので、頼芸を庇護することは、領有する信濃の隣国である美濃に影響力を及ぼす上での大義名分になり得ますから、「持っておいて損のないカード」だったのでしょう。

しかし、その武田勝頼は1582年に信長に滅ぼされます。その際に頼芸を保護して美濃に連れ帰ったのが、ドラマにも出てきている旧臣の稲葉一鉄だったとのことです。道三に美濃を追われて30年。その間の時代の激変を、晩年の頼芸はどう感じたでしょうか。

 

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