中国・戦国時代の法家を代表する思想家、韓非子の著作とされるものです。「されるもの」というのは、後世の人の加筆とみられる箇所も多い点を踏まえた留保です。
小学生の頃だったと思いま須賀、武田信玄→孫子への関心からこのマンガを手に取り、むしろ韓非子の部分を興味深く読んだ、なんてことがありました。少し前、たまたま古本を手に入れる機会があり、懐かしさもあって通読してみました。
韓非子の主張を一言でいえば、「信賞必罰」です。人は利で動く。だから君主は、法を厳格に適用して賞罰を徹底し、それを通じて臣下を操縦していく術を駆使すべきだ。そうすれば国は治り、富強になるー。ざっくり言うと、そんなところでしょうか。
法の予測可能性*1を重視する、臣下の言行一致を試すなど、ある種非常に科学的な議論が展開されていました。
一方で、彼以前の中国古典上のエピソード(三皇五帝や孔子など)を韓非子流に論じる、というのが醍醐味である*2反面、それをどう解釈・評価するかの「予測可能性」はもう一つだったのかなという気がしています。それは私の読み方が浅いということでもあるで生姜、最初に述べたように、後世の人が勝手に?書き足したとみられる箇所が少なからずあることとも関係しているのでしょう。事実、研究者は「この章はいつもの韓非子の主張と違う」といったことから真贋を検討しているそうです。
さて、最後に、今の日本の状況と絡めて一つだけ。
韓非子は、統治者は利を求める民の選好を掌握して、その力を制御せよと度々論じます。当時の中国と今の日本では、統治者が統治者たる所以が大きく異なっているとはいえ、社会状況を一定の範囲内に制御する必要性*3は変わっていません。
そこで、コロナウイルスの蔓延をめぐる日本政府の対応です。それが何割なのかはともかく、公衆衛生上の理由から、市民の物理的な移動・人との接触を大きく減らす必要がある状況であることは疑いありません。であるとするなら、いきなり学校を閉めるとか、警棒を持った警官が「外出自粛要請」をするといった剥き出しの権力行使にばかり頼るのではなく、市民の「利」に応える政策こそが必要なのではないでしょうか?
この状況下で長距離の通勤をしたい、夜中に飲食店を開けたいとは望んでいなくても、そうせざるを得ない事情を抱えている人は多くいます。そのジレンマを解消するための動機付けや環境整備をすること、在宅勤務に切り替え、店を閉めるための「利」を提供することこそが政治の役割なのだと思います。「自粛と補償はセットだろ」と叫ばれるようになって久しいで須賀、未だにそれが十分に実現していないのが現状です。このままで、韓非子流に言えば「国が治まる」のでしょうか?