かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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ドラゴンボール・セルの吸収シーンを思い出した/『性食考』(赤坂憲雄)、『異類婚姻譚』(本谷有希子)

 

性食考

性食考

  • 作者:赤坂 憲雄
  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: 単行本
 
異類婚姻譚 (講談社文庫)

異類婚姻譚 (講談社文庫)

  • 作者:本谷 有希子
  • 発売日: 2018/10/16
  • メディア: ペーパーバック
 

友人との読書会のお題でした。『性食考』に異類婚姻譚についての分析もあり、一緒に読んでみましたが毛色はかなり違った印象です。

『性食考』は、古今東西の神話や昔話を紐解きながら、性(sex)と食べることの関連について思索を巡らせています。それがどの程度成功しているかについては、参加したメンバーの中でも意見が分かれましたが、性も食も他者との交流・混合である点、それぞれ種と個体の再生産に関わっている点などに起因する共通性は、感覚的にも理解できる気がします。

読みながら思い出したのは、昔、ドラゴンボールのアニメでセルが人造人間17号・18号を吸収するシーンのことでした。番組の協力を見ていた居間には他の家族もいて、なぜだかよくないものを見ているような、恥ずかしい気持ちになったのでした。吸収はセルにとっての食と言え、そこに卑猥な何かを感じたのだとすれば、この本の議論と重なってくるところがあるでしょう。

 

異類婚姻譚』は、リアルな描写とSF的急展開のマッチが魅力的な作品を収録しています。著者の劇団での経験が生きている、という指摘には納得させられました。そのストーリーや「喩え」から何を読み取るかはそれぞれの捉え方なのかなと思いま須賀、全体を通じて「これでいいんだろうか」「この日々から抜け出したい」といった日常に対する鬱憤というか、破壊衝動的なものを感じました。恐らくそれは、私自身が何度か襲われたことのある感覚なんですけどね。他の著作にも通じる部分があるそうなので、ぜひ読んでみたいです。

今回は特に、自分一人では手に取らなかったろう本と出会うことができ、複数人で読むことの良さを実感しました。

「麒麟がくる」二十三話/信長・秀吉・光秀の揃い踏み

www.nhk.or.jp

明智光秀織田信長を上洛させることに失敗し、失意のうちに京へ、そして越前に戻ります。将軍・足利義輝の非業の死まで扱われるのかと思っていましたが、次回のようですね。

派手な動きのない回でしたが、信長・光秀・木下藤吉郎豊臣秀吉)が一堂に会したシーンは印象的でした。秀吉の「人に入り込む上手さ」が出ていた演技だと思います。次回の展開に期待です。

 

 

 

小惑星の衝突で死ぬ確率は散歩43キロ分と同じ/『もうダメかもー死ぬ確率の統計学』(マイケル・ブラストランドなど)

 

不慮の出来事から生活習慣まで、人命に関わる様々なリスクを指標化して表現しつつ、一方でその意味するところを考える本です。2013年にイギリスの出版社から世に出され、邦訳版が話題となっているようです。

イギリスで1日を過ごし、事件や事故などの外的要因によって死亡する確率である100万分の1を「1マイクロモート」とすると、43キロの散歩と45キロのサイクリング、鉄道と民間航空機による1万2000キロの移動で死亡する確率がこの1マイクロモートに相当するそうです。スカイダイビング1回は10マイクロモート、同国での1度の出産で120マイクロモート、第二次世界大戦でイギリス空軍の爆撃機に1度乗り込むと25000マイクロモート、シエラレオネの乳児死亡率を換算すると119000マイクロモート(イギリスで不慮の死を遂げる確率の326年分!)、そして小惑星の衝突による死亡は、生涯を通じて1マイクロモート…などと著者は計算しています。

また、平均余命を30分減らすリスクを「1マイクロライフ」と定義すると、タバコ2本・ハンバーガー1個・2時間座りっぱなしで1マイクロライフを消費し、中強度の運動は最初の20分が2マイクロライフの、以後40分は1マイクロライフの「貯金」になるのだそうです。

ただ、この本を通じて著者たちが伝えたいのは、そうした数字の羅列ではありません。その数字と同じくらい、「それをどう見るか」が重要であることを何度も強調しています。これらは「知識に基づく合理的な賭けオッズにすぎない」もので、「世間でリスクと呼ばれている尺度は個人の価値観や各自のフレーミングの問題に違いない」。これがあくまで平均の話であることを踏まえた上で、どんな行動に伴うどの程度のリスクを引き受け、あるいは回避していくかは、自分が決めていくことなのだと思います。

 

イギリス人らしい、と言うのか私にはわかりませんが、ユーモアあふれる書き振りで面白く読み進められる半面、饒舌だなあという印象も強かったです。あと、邦訳のタイトルがいかりや長介みたいになっているのもちょっともったいない気がしました。

 

 

 

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『ペスト』(カミュ)/分断でなく連帯のために

 

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

1947年に発表されたこの小説には、新型コロナウイルスの世界的流行を受け、再び注目が集まるようになりました。作品に描かれたパンデミックの様相が、2020年に世界各地で起こったこととよく似ているとされたことが大きいようで須賀、よく言われるように、この著作の主題は必ずしも「疫病」ではないようです。

アルジェリアのオラン市を突如襲ったペスト。市は封鎖され、毎日多くの人が病に倒れる中で、防疫のため自発的に立ち上がった人々の闘いや来歴、心の機微を描写していきます。もともと社会の連帯や共同の希望とは縁遠かった登場人物までもがその活動に身を投じ、いつしか市全体にもある種共通の感覚が生まれるようになってくる様子、そしてそれが解かれる時、結局は「自分たちの力でどうにでもなることだけを求めた」人たちがそれを手にするという不条理な一面。そんな結末を突きつけられても、読み手に「人のためにリスクを背負っても報われないならタダ乗りしたい」と思わせない、むしろ共同の価値や理想のために力を尽くすことの価値を感じさせてくれる点は、著者・カミュの信念の表れであり、その力なのだと思います。

表現・論旨ともにモヤっとした感じになってしまいましたが、この新潮文庫版の巻末にある訳者の解説が非常に優れていました(あまり小説を読む方ではありませんが、巻末の解説としてこれ以上のものはお目にかかったことがないです)。本編を通読された上で、是非こちらも読んでみてください。

 

少なくとも日本では、「コロナ禍が人々や社会を分断した」という声が多く聞かれます。もっと大きな話をすれば、国家間においても、感染拡大に対する責任の押し付け合いが繰り広げられています。思うにそれは、通信手段の発展・多様化も相まって人から人への感染がクローズアップされることで、「同じ敵」と闘う同士でありながら相互不信が高まりがちであること、そして不幸にして罹った場合の致死率の違いなどから、脅威への認識に落差があることーなどによるのではないでしょうか*1

それでも私たちは、この小説の登場人物達よりも長い期間、一つの都市ではなく全世界で、この見えない敵と闘っていかねばなりません。その時に市民一人ひとりがウイルスに対して、さらには自分たちの社会に対してどんな振る舞いを重ねていくか。それは誰かに言われたり、命令されたからということではなく、自分の頭で考え、自発的に取り組んでいくことなのだろうと思います。

 

 

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*1:そもそもオラン市をペストが襲ったというのはフィクションなんですけどね

『古代史講義』『古代史講義 戦乱編』/「排仏派」でなかった物部氏、「薬子の変」とはもう呼ばない?

 

 歴史講義シリーズの古代編2冊をまとめて。

www.chikumashobo.co.jp

邪馬台国の時代から奥州藤原氏まで、テーマごと&戦乱ごとに15編ずつが収められています。ここで全てを紹介することはできませんが、蘇我氏に敗れた物部氏が「排仏派」であったとは考えにくいこと、その蘇我氏乙巳の変で「滅んだ」わけではない*1こと、摂関はあくまで天皇制の補佐であり、思われていたほど自由に権力を行使できたわけではないこと、そして受領の人事もそこまで恣意的にはなし得なかったこと、最近は「薬子の変」という呼称は使われなくなってきている*2ことなど、かつての通説やイメージと異なるものも含め、最新の研究成果が数多く掲載されています。

印象的だったのは、戦乱編を中心とした史料の読み解き方についてです。過去の出来事を書き残すという行為、そして書き残された書物自体が非常に限られていた時代においては、その書き手がどのような意図や認識を持って歴史を編んでいったかが非常に重要な意味を帯びてきます。滅び去った側が歴史を書き残していることは稀ですので、現代の我々がアクセスできるのは、往々にして「勝者の歴史」であるわけです。

ただ、「勝者の歴史」の全てが勝者による創作や誇張であるわけではなく、さらに言えば、彼らが改変行為に及んだ(として)こと自体からも、一定の史実を導き出すことができるはずでもあります。近現代史において「自由主義史観」を名乗る人々が、「勝者の歴史」を指弾しながら陰謀論を展開しているのを稀に見かけま須賀、多くの場合それも、まず方法論として極端だと言わざるを得ません。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

編者は前書きで、「地味な史料批判の手続きがふくまれるかもしれないが、歴史学がふまえなくてはならない学問的営為までを紹介しようとしている」と述べています。そこで言うところの「地味な史料批判」ー「勝者の歴史」の中から、どこを信じてどこを割り引いて、その編集の意図をどう捉えるかーこそが、古代史に限らない「歴史学の醍醐味」であり、歴史を読み解いていく上のリテラシーなのだと実感しました。

 

 

 

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*1:その辺の事情は少女漫画としての『日出処の天子』、など… - かぶとむしアル中でも触れましたね

*2:平城上皇の主体性を重視するようになってきている

「麒麟がくる」二十二話/「勝手に改元」を将軍が根に持つ理由/細川ガラシャ初登場

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越前で雌伏の時を過ごしていた明智光秀が、将軍・足利義輝の求めに応じて上京することで、再び戦国時代の激動へ身を投じていくーそんな回でした。放送休止を挟んでの再出発としてはいい感じでしたね。

足利義輝はかなり気力を失ってしまった様子でしたが、史実ではこの頃も、武田信玄vs上杉謙信など、各地の有力大名同士の争いを調停することで将軍の権威を高めようと努力を重ねていました。また、剣豪としても知られていますね。「信長の野望将星録」をやり込んだ身からすると、あの「斬鉄剣」の衝撃は忘れられません(笑) その辺の話は、どうやら次回出てくることになりそうです。

ドラマにあるように、永禄への改元時に(朽木谷にいたとはいえ)これを知らされていなかったというのも事実のようです。中華圏ないしその思想を受容した世界では、元号を定め、改めることは「時を支配する」ことを意味し、皇帝にとって非常に重要な行為であるとされています。それゆえ戦国時代には、「勝手に元号を定める」「改元をあえて無視する」といった事態もみられたそうです。その辺はこの本で紹介されています。

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確かに日本において、その「名義人」は天皇であり続けたわけで須賀、支配者性を示す行為から慣例に反する形で排除され、しかもその相談を自分と敵対する三好長慶が受けていたとすれば、そりゃあ怒りますよね。義輝がドラマのような「拗ね方」をしていたかは分かりませんが、改元の重大性はよく描かれていたと思います。

光秀絡みで言えば、娘のたまについてでしょう。彼女は長じて細川藤孝の長男・忠興と結婚することになります。現代では、細川ガラシャとして知られる人物です。その彼女が、赤子ながら将来の義父となる藤孝に懐いていたという筋書きは、ピンと来た人にはたまらない伏線ですね。まあ、赤ちゃんがじっと一つのものを見つめるのはそんなに珍しいことではないんですけどね(笑)

 

 

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『考古学講義』(北條芳隆編)・『新版 日本人になった祖先たち』(篠田謙一)/いい意味で教科書を書き換える成果に期待

 

考古学講義 (ちくま新書)

考古学講義 (ちくま新書)

 

今さらシリーズの評判を聞きつけ、大人買いして読んでみました。

www.chikumashobo.co.jp

この『考古学講義』の各論文では、縄文時代のクリやダイズ栽培や、紀元前8世紀が有力視されつつある弥生時代の開始年代、青銅器・玉製品・鉄器・鏡といった出土品みる弥生・古墳時代、そして一大論争を巻き起こした騎馬民族征服説といった様々なテーマについて、現在の研究の到達点を紹介しています。詳述は避けま須賀、2つのポイントに着目したいと思います。

一つは、先ほど挙げた様々な出土品の状況などが、当時の交易の展開や畿内政権の形成について多くのことを示唆していそうだということです。古くは縄文時代から、日本列島の内外で多元的な交易ネットワークが機能してきました。北部九州から大陸へ、あるいは山陰、北陸などへ至る日本海ルートはその典型例でしたが、4世紀頃には畿内の政治権力が対外ルートを掌握し*1、各地の有力者たちは「盟主」たる畿内政権を通じて舶来品の玉製品や鏡を貰い受け、前方後円墳を築くようになっていったようです。本当にひとまとめにして言えば、そんな青写真が描けそうです。

もう一つは、考古学と他の学問分野との「連携」の進展です。放射性炭素年代測定や気候変動と絡めた分析、そして出土した古人骨の遺伝子解析が進んだことで、それらの合わせ技で多くのことが分かるようになってきました。

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

  • 作者:篠田 謙一
  • 発売日: 2019/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

こちらが、その分子人類学の近年の知見をまとめた本です。著者によると、アフリカから南アジアを経て東南アジアから流入した人々と、中東経由で北寄りに向かい、北から日本列島にやってきた人々が縄文人の基層をなし、そこに東アジアに広がる遺伝子の型を持つ農耕民が混じり合ったーというのが、現時点であり得そうなストーリーなのだそうです。

その意味では、在来の「縄文人」と渡来した「弥生人」が混じり合ったとする二重構造説は全く的外れではなさそうで須賀、アイヌの人々がオホーツク文化を担った北方の集団の遺伝的影響を受けていることなど、(日本列島という括りで言えば)周辺に位置する集団と近隣他地域の交流を見落としている点は問題だと指摘しています。

こちらも広範な議論が展開されていて、なかなか全体の論旨を紹介することはできませんが、同じ著者の別の本のレビューや、外部の記事もありましたので載せておきます。後者は記事体広告で須賀、図表がイメージを掴みやすかったので貼りました。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

mycode.jp

こうした分子人類学と考古学の成果を重ね合わせると、一つの遺跡にまつわる歴史がより立体的に立ち現れます。偶然で生姜、2冊ともに弥生時代の青谷上寺地遺跡(鳥取県)について言及しています。『考古学講義』では、出土品などから北陸などの産品を取りまとめて朝鮮半島直接交易する一大拠点として紹介されており、『日本人になった祖先たち』では、「北部九州から離れているにもかかわらず」弥生時代になって日本列島にもたらされた遺伝子の系統を持つ人骨が多かった、とされています。後者は分析前の仮説とは異なる結果だったようで須賀、これらの見解を並べてみれば、一つの整合的なストーリーを描くことはそう難しくありませんし、恒常的な交易関係が遺伝的な交流にまで達したことをも想像させます。

特に分子人類学の側では、今も急速に研究が進展しているそうです。考古学と言えば「ゴッドハンド」の捏造事件を忘れることはできませんが、これからは各学問分野の相互作用の中で、いい意味で「教科書が書き換えられる」ことを期待したいです。

 

 

 

 

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*1:世界遺産になった「沖ノ島」祭祀も畿内政権の関与があったとされます