かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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「麒麟がくる」最終回/やっぱりにおう光秀=天海説/創作にも根拠を求めた名作

【目次】

 

www.nhk.or.jp

魔法が解けたような信長の表情

ついに日本の歴史上、最も有名な裏切り劇に辿り着きました。

演出は想像以上に淡々としたものでした。明智光秀が実際に本能寺の境内に斬り込むこともありませんでしたし、織田信長も「十兵衛に一言、物申してやろう」と駆け出すことはありませんでした。非情に矢や鉄砲を撃ち込んでいったことも、十兵衛の気持ちの表れなのでしょう。

「十兵衛ならば是非もなし」。最も信頼していた最後の「同志」までが自分のもとを去っていったことへの悲しさがよく表現されていましたが、もう一つ、印象的なシーンがありました。最初に矢が刺さってからの信長はいつもの顔つきで、ハイになって戦闘を楽しんでいるかのような雰囲気すらありましたが、自害を決心した途端、魔法が解けたように表情筋が緩んで、かつての穏やかな顔に戻ったんですよね。この期に及んで昔を取り戻しても覆水盆に返らずなわけで須賀、十兵衛の行動に救いがあったとしたらそれなのかもしれない、なんてことを考えていました。

最後に出てきた「四国説」

最終回ですので、全体の感想も交えてオチをつけようと思います。冒頭に、本能寺の変の原因として近年注目を浴びている「四国説」が登場し、朝廷・足利義昭徳川家康・怨恨…と、有名な説は大体網羅されることになりました。長宗我部元親は光秀を通じて信長と誼を通じており、元親の嫡男は信長の偏諱を受けて「信親」と名乗るほどだったので須賀、両者が敵対関係に陥ったことが、間に立っていた光秀の立場を悪くした、というのが四国説で須賀、案の定というかさすがというか、触れてきましたね。

「創作にも根拠を求める」姿勢

何度か述べては来ましたが、本作は「創作にも根拠を求める」という姿勢がかなり強かったように感じます。そもそもドラマですし、しかも前半生が謎に包まれた人物を主役に仕立て上げたわけですから、史実と見做されていることだけでお話を展開していくわけにはいきません。それでも創作をする際に、信憑性はともかく何らか根拠となるものを参照し、あくまでそれっぽくフィクションを構成していく。その一つ一つの積み重ねが、この物語をリアルにしていったのだと思います。

やっぱり光秀=天海説

それは結末についても言えることです。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

でも触れましたが、明智光秀山崎の戦いで死んでおらず、後に天海と名乗って徳川家康の側近となり、100歳上の長寿を保った、という有名な説があります。その当否はここでは論じませんが、十兵衛が菊丸を通じて家康に渡した書状、そして「共に手を携えて」という言葉は、光秀=天海説を踏まえたものと見るのが自然でしょう。その意味で本作らしいラストシーンだったと思います。

不測の事態を乗り越えた名作

直前のキャストの差し替えやコロナ禍による放送休止と、不測の事態の続いた大河ドラマでしたが、本当に毎週楽しみに見続けることができました。本作をリアルタイムで見られたことは幸せだったと思います。制作に関わった皆さん、そして日曜夜を「麒麟がくる」最優先で回してくれた家族の皆に感謝したいです。