『敗戦後論』は、日本の戦後や戦争にまつわる責任の問題を論じる上で無視できない本でしょう。世界大戦に敗れ、米国の軍事力によって平和憲法を強制された「ねじれ」を抱えたままでは、アジア諸国に有効な謝罪をし、和解を進めることもできない。まずは「無駄死にした」自国の死者たちに向き合い、その弔いから考えてはどうかー。『敗戦後論』での主張は概ねこんなところかと思いま須賀、これはリベラルとされる論者*1からも「戦争加害者でありながら自国の死者の弔いを優先させるとは何事か!」といった種類の批判を招くなど、「論争の書」となったのでした。
後の文章で著者も述べているように、「まず自国民の弔いを」の意味は、それを「優先させるべきだ」ということではなく「その問題に先にけりをつけるべきだ」という趣旨であり、先に紹介したような批判は的を射ていない、との指摘は理解できました。ただ、それでもうまく呑み込めない部分があるのも事実です。
著者は、フッサールらの現象学を度々参照していることからもわかるように、語り手である自分の肚の中をはっきりさせて、明確化させた視点で問題に対することを目指しています。「二重人格」という言葉を使って「ねじれ」状態を論じていることからもそう言えるで生姜、この主体が一人格としての個人ではなく、さまざまな体験や記憶を持つ人々の集合体(「日本社会」や「日本国」)である場合、果たしてそこにこだわることにどのくらい意味があるのかなと思ってしまいました。
先に「アジア諸国に有効な謝罪をする」と述べたのは、「首相が謝っても大臣が真逆の言動をとるようなことを繰り返しても謝罪と受け取られない」という主張を指しているので須賀、では社会全体で先んじて自国の死者と向き合うことができれば、本当にそうした「反動的」言動はなくなるのか、いやいや、そもそも最早社会全体でそれを共有するって何なんだ、そこは現実問題として非常に気になります。まあ結論部分はかなりもやっとした話ではあり、冒頭のような批判を呼んだのもそれ故だったりもしそうですので、「現実問題として…」と言ってしまうと厳しいところもあるで生姜、敗戦後の日本に埋め込まれた「ねじれ」をありありと抉った論考であったことは間違いないと思います。
『戦後入門』は、日本の戦後を論じるために、第一次世界大戦から語り起こした大作です。連合国側が第二次世界大戦を2つの陣営の対決として語ったのは、自らを大義に基づく存在であるかのように糊塗するためであったという見方や、原爆製造の難しさからその後の社会構造を予言する*2ジョージ・オーウェルの「あなたと原爆」についてなど、興味深い指摘や知見が数多く紹介されていました。ただ一方で、戦後版「顕教・密教」論など、やや理論枠組先行で、実態の説明にはそぐわないのかなというものも近年についてはあった気がします。
この2冊は、自分の中で「読む順番」が来たので読んだ本なので須賀、奇しくもその直前、著者がお亡くなりになるということがありました。「戦後」を長らく考えてきた著者からすれば、まさにその「戦後」が剥げ落ちてきた数年だったでしょう。
「情報過多」とも言われる今の時代。インプットはともかく、どのようなアウトプットができているか、もっと言えば、リツイートボタンを押すだけでない地声でのアウトプットがどのくらいできているかと考えると、そら寒くなることがあります。その結論云々以上に、まず自らの足場から思考を重ねていく著者の姿勢を鑑に、この先の時代と向かい合っていきたいと思わされました。
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