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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル)

 

井上陽水英訳詞集

井上陽水英訳詞集

 

英語を母語とする日本文学研究者が、井上陽水の歌詞を英訳した本です。50曲の英訳が収録されていま須賀、それのみならず英訳完成に至るまでの作詞者と英訳者のやりとりや、詩を外国語に訳す場合の心構えのような話も豊富で、楽しく読み進めることができました。ここでは、具体的な曲や訳を挙げながら、「翻訳のポイント」をおさらいしてみたいと思います。

まずは主語などの構文です。何が主語なのかしばしば明示されない言語から、それが明確な言語に訳すのはそもそも大変な作業で須賀、この人の歌詞であればなおさらでしょう。「氷の世界」は、日本で初めてミリオンセラーとなったアルバムの主題曲として知られていま須賀、「歌詞が意味不明(多義的)」という評価がされがちでもあります。3番(と言えばいいのでしょうか?)の冒頭に、「人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな だけど出来ない理由は やっぱりただ自分が怖いだけなんだな」という部分があります。私はてっきり「人を傷つけてみたいという衝動に駆られるが、そんな自分のことが恐ろしいので踏み切ることができない」と解釈していたので須賀、英訳では「but the reason I can’t—I know—is cause I’m too scared」となっていました。私の理解ほど意味を限定せずに、もっと広く「自分自身が怖いと感じている」という訳になっています。

「東へ西へ」も初期の有名な曲で須賀、大混雑で「寿司詰め」状態の電車で「満員 いつも満員 床に倒れた老婆が笑う」というシーンは、床に倒れた老婆が「いつも満員だ」と呟きながら笑っているように訳されていました(私の脳裏では、倒れた老婆は無言でニヒルな笑いを浮かべていました。「満員 いつも満員」は歌い手による状況説明と理解していました)。

次は時制です。ここはあまり意識してこなかったので須賀、「夢の中へ」は「はっきりと時制を指す言葉がない」ですし、「ジェラシー」も途中から過去の浜辺の話が急にスライスしてくる。言われてみればそうかなあと感じましたが、そのことに訳者がより敏感であったのは、「時のラインをまずナビゲートする」ことに優れた英語を母語としているからという側面はあるのかもしれません。

そして3つ目は、音韻や語呂、言い回しです。「北京 ベルリン ダブリン リベリア」や「美人 アリラン ガムラン ラザニア」はもう直訳せざるを得ないで生姜、それでは作詞者の意図は十分には伝わりません。逆に前述の「氷の世界」では、「軽い嘘」を「white lie」と訳していて、歌詞の世界観に合致した「白」をうまく混ぜ込めています。この辺はもう、拾えるものもあれば拾えないものもあるということに尽きるのでしょう。「歌詞が持つ具象と感性を提示するために、ここは妥協をしようということを常にやっていくのが翻訳文学だ」という指摘は、個別の英訳を見ながら非常に腑に落ちました。そう言えば、意外にも50曲の中には出てきませんが、「リバーサイドホテル」の「金属のメタル」は訳者ならどう料理したでしょうか?

あれこれ印象論を書き立ててしまいましたが、このように歌詞から立ち現れてくる世界が多義的であること、様々なものやことを思い浮かべながら楽しめることが、井上陽水の曲の素敵なところだと思います。訳者が注目していた「動物による寓話」というところで言っても、カブトムシについてもカナリアについても、私は訳者と違うストーリーや含意で解釈していました。訳者の言うとおり、特に英語に訳するということは「一定の解釈に基づいて意味を定める」ことに近そうで須賀、「ロバート・キャンベルの見た陽水の曲」の世界を、味わい深く楽しむことができたと思います。そもそも、自分でも意外なほどに、これまで歌詞全体が持つ世界観や含意を気にしていなかったかもしれません。

 

確か「UNDER THE SUN」というアルバムの歌詞カードの最後あたりに、「自分の作った歌の歌詞の意味は説明する気がない。自分から出てきたという意味では自分の歌と排泄物は同じであって、自分で自分の排泄物について解説しないように、歌詞についても解説しないのだ」と書いてあったのを思い出しました。この本のみならず、最近は自分の曲の歌詞の意味や制作エピソードを自ら語ることが増えている*1ように思います。「UNDER THE SUN」の頃から、どんな心境の変化があったのかは少し興味があります。

 

 

いつもありがとうございます。

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*1:先ほどの「アジアの純真」の冒頭は、共作者の奥田民生が送ってきたデモテープのハミングが「北京 ベルリン…」と聞こえたからそういう歌詞にした、のだそうです