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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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いわゆる『古風庵回顧録』/『明治・大正・昭和政界秘史』(若槻礼次郎)

明治・大正・昭和政界秘史 (講談社学術文庫)

明治・大正・昭和政界秘史 (講談社学術文庫)

金融恐慌と満州事変発生時に二度首相を務め、その間にロンドン軍縮会議の首席全権にもなった若槻礼次郎回顧録です。彼は松江の貧しい足軽の家に生まれながらも、勉学で頭角を現し帝大法科を首席で卒業。大蔵省でも出世を重ね、桂太郎に従う形で政党政治家となります。首相を辞めて第一線を退いた後も、上席の重臣として後継首相推薦などに関与、終戦後には米国からも「戦前日本を代表する平和主義者」と称されました*1
回顧録では、その人生の軌跡が淡々と平明に振り返られています。その中で一番強く感じたのは、彼は「切れ者」「能吏」といった種類の人物であって、恐らく「リーダー」タイプではなかったのだろうということです。論理的に話し、事務をこなして、例えば蔵相を兼務する桂首相を大蔵次官として支えるといった局面では力を発揮するので須賀、首相としては、野党党首に真っ黒に近いグレーのような(嘘っぽい)口約束*2をしたり、局面に必要な柔軟さや毅然とした態度を欠いていたりという言動が見受けられます。まあリーダーの器であるかどうかは資質の問題も大きいと思うので須賀、満州事変発生時の首相が原敬加藤高明浜口雄幸であったらどう対処しただろうか、ということは考えざるを得ませんでした。
やはり一方、とても頭のいい人だったのは間違いないようです。さらに言えば、彼自身がこの回顧録を自分が単身上京して受験に成功したことから語り起こしていることからも、自分の勉学における優秀さとそれによる成功が彼自身の重要なアイデンティティだった、という風にも見えました。憲政会・民政党の盟友であった浜口との対比でも、このような評が残っています。

「おれはその(頭の)方では若槻にゆずるが、国政に任じ、上下朝野に対して信念を持って殉ずる方は自分の方が一日の長がある」(浜口)
「頭の方は若槻さん、あまり頭がよいとスタビリティーが少ないというか、鈍重さとねばりが少ない向きがあり、両者合わせて一人前になるのでしょう」(ロンドン会議時の海軍次官・山梨勝之進)
(いずれも『歴史と名将』より)

1945年6月。徹底抗戦を決定した御前会議の後、重臣会議が開かれました。「国力判断として戦争は不可能」と報告された後、会議の決定を聞いた若槻はこう発言したといいます。「統帥部も国力判断を了承しているなら、その上でなお抗戦するという結論はどういう意味なのか」。軍部を忖度してか、すでに終戦を模索していた鈴木貫太郎首相は机を叩いて怒り、「それでだめなら死あるのみだ」と答えたそうで須賀、こういう理詰めなところも、また今風に言えば、見ようによってはちょっとKYなところも、若槻礼次郎らしいなあと感じさせるエピソードでした。
 
最後に、本の編集面で一言。『明治・大正・昭和政界秘史』というメインタイトルが、どこかの自称事情通が書いた怪しげな暴露本のように見えて、どうも好きになれません。個別具体的な記述の信憑性の議論は措いても、この本は貴重な証言を多く含む首相経験者の回顧録なわけです。最初の刊行時は『古風庵回顧録』がメインタイトルで、『明治・大正・昭和政界秘史』は従だったのであれば、そのままにしておけばよかったように思います。あと、解説は資料の引用が冗長すぎますかね。せっかく本文が平明なのに、多くの人に読んでもらうための努力を欠いた編集だと思います。

*1:1948年に東京裁判の首席検事キーナンのパーティーに招かれています。ちなみに他の参加者は岡田啓介、米内光政、宇垣一成

*2:議会がスキャンダル合戦となり収拾がつかなくなった時に、辞職をにおわせて「政争中止」の合意にありついたことを指します。これは同僚の浜口雄幸にも咎められています