- 作者: 若槻礼次郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1983/10
- メディア: 文庫
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回顧録では、その人生の軌跡が淡々と平明に振り返られています。その中で一番強く感じたのは、彼は「切れ者」「能吏」といった種類の人物であって、恐らく「リーダー」タイプではなかったのだろうということです。論理的に話し、事務をこなして、例えば蔵相を兼務する桂首相を大蔵次官として支えるといった局面では力を発揮するので須賀、首相としては、野党党首に真っ黒に近いグレーのような(嘘っぽい)口約束*2をしたり、局面に必要な柔軟さや毅然とした態度を欠いていたりという言動が見受けられます。まあリーダーの器であるかどうかは資質の問題も大きいと思うので須賀、満州事変発生時の首相が原敬や加藤高明、浜口雄幸であったらどう対処しただろうか、ということは考えざるを得ませんでした。
やはり一方、とても頭のいい人だったのは間違いないようです。さらに言えば、彼自身がこの回顧録を自分が単身上京して受験に成功したことから語り起こしていることからも、自分の勉学における優秀さとそれによる成功が彼自身の重要なアイデンティティだった、という風にも見えました。憲政会・民政党の盟友であった浜口との対比でも、このような評が残っています。
「おれはその(頭の)方では若槻にゆずるが、国政に任じ、上下朝野に対して信念を持って殉ずる方は自分の方が一日の長がある」(浜口)
「頭の方は若槻さん、あまり頭がよいとスタビリティーが少ないというか、鈍重さとねばりが少ない向きがあり、両者合わせて一人前になるのでしょう」(ロンドン会議時の海軍次官・山梨勝之進)
(いずれも『歴史と名将』より)
1945年6月。徹底抗戦を決定した御前会議の後、重臣会議が開かれました。「国力判断として戦争は不可能」と報告された後、会議の決定を聞いた若槻はこう発言したといいます。「統帥部も国力判断を了承しているなら、その上でなお抗戦するという結論はどういう意味なのか」。軍部を忖度してか、すでに終戦を模索していた鈴木貫太郎首相は机を叩いて怒り、「それでだめなら死あるのみだ」と答えたそうで須賀、こういう理詰めなところも、また今風に言えば、見ようによってはちょっとKYなところも、若槻礼次郎らしいなあと感じさせるエピソードでした。
最後に、本の編集面で一言。『明治・大正・昭和政界秘史』というメインタイトルが、どこかの自称事情通が書いた怪しげな暴露本のように見えて、どうも好きになれません。個別具体的な記述の信憑性の議論は措いても、この本は貴重な証言を多く含む首相経験者の回顧録なわけです。最初の刊行時は『古風庵回顧録』がメインタイトルで、『明治・大正・昭和政界秘史』は従だったのであれば、そのままにしておけばよかったように思います。あと、解説は資料の引用が冗長すぎますかね。せっかく本文が平明なのに、多くの人に読んでもらうための努力を欠いた編集だと思います。