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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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戦前日本と伴走した内大臣の苦悩/『牧野伸顕日記』『回顧録』

 

牧野伸顕日記

牧野伸顕日記

 
回顧録(上) (中公文庫プレミアム)

回顧録(上) (中公文庫プレミアム)

 
回顧録(下) (中公文庫プレミアム)

回顧録(下) (中公文庫プレミアム)

 

内大臣などとして昭和初期の宮中を支えた牧野伸顕の日記と、晩年の回顧録です。

ここでは「内大臣」という肩書きを用いて紹介しましたが、結構いろんな紹介の仕方ができる人物です。維新の三傑大久保利通の二男であり、それぞれ首相を経験した吉田茂の義理の父であり、麻生太郎の曽祖父にもあたります。本人の実績で言うと、パリ講和会議の実質的な中心人物、とも呼べるでしょう。

ただここで「内大臣」と紹介したのは、私がこの人物に寄せる関心によっています。割拠的で権力が分散した明治憲法下の政治体制で、それを統合する役割を担っていたのは元老だと言ってよいで生姜、主に生物学的な理由で*1元老制度が機能しなくなっていく中、後継首相推薦にも関与するなど、その機能を縮小しながらも代替することになったのが内大臣たる牧野伸顕でした。『回顧録』では、出生から西園寺公望とともに参加したパリ講和会議までを扱っており、また『日記』は、その西園寺と連携しながら宮中を切り盛りした宮内大臣内大臣時代のものですので、この二つでもって、彼の公職人生をほぼカバーしています(昭和天皇との間に続いた信頼関係から、終戦に至る最終過程でも一役買った、と言われていま須賀、その時期のことは直接出てきません)。

ここで彼の90年近い人生*2の事績を振り返ることは流石にしませんが、そこでの登場人物たちを見ていくと、彼が二つの系譜の中で経験を積み、人脈を築いてきたことがわかります。一つは、後に「国際協調派」と言われる伊藤博文*3西園寺公望に連なる系譜です。彼らはいずれも若くして海外に学び、それぞれ首相と閣僚などといった関係で一緒に仕事をし、政界内で議会政治や特に英米との協調を重んじる勢力とみなされていきます。昭和に入ると、宮中における「牧野グループ」は「君側の奸」であるとして軍の一部などから批判を受け、5・15事件と2・26事件の両方で命を狙われることにもつながっていってしまいます。

伊藤ー西園寺ときたら政友会つながりで原敬が連想されがちで須賀、実際牧野と原も近い間柄で、原が暗殺されたその日に2人は会談することになっていました。政党人としての経歴はありませんが、宮中入り前は牧野自身が首相候補とみなされていたこともあり、政府の首班となった原と違った立場で、その路線を守ろうという意図が西園寺にあったように思えます。

もう一つは、彼自身の出自である薩摩閥です。特に宮中にある人間として、特定の政治勢力に肩入れしているとみなされることを警戒していたことは日記からもよく伝わってきま須賀、実際に彼の近くにいたのは薩摩藩ゆかりの人たちであったことは否定できません。酒が弱かった(と自称する)牧野は、酒乱でおなじみの黒田清隆とは首相秘書官を務めながらも縁が薄かったようで須賀、森有礼とはこれまた暗殺前日に会っていますし、元老・松方正義とは密に連絡を取りあい、山本権兵衛を高く評価して元老に加えるべきと主張し、旧主である島津家の家政にも参画しています。また、彼自身はさほど高い評価を与えていませんが、薩摩出身の政党政治家・床次竹二郎がよく訪れてきていたのも、明示されてはいませんがそうした縁によるものに見えます。

西園寺が山本権兵衛を元老ないしそれに準じる立場とすることを認めなかったのには、一つは薩摩閥の影響への懸念があったと指摘されます。牧野についても、自身がどう自己規定していようと、(本人は不本意だったで生姜)少なからずの周囲の見方は「大久保利通に連なる薩摩系の大物」だったのではないでしょうか(実際、「長州閥の陰謀」について告げ口をしに来る人がいたりします)。

ただそれは、一概に悪いこととも言いにくいでしょう。先ほども少し述べましたが、内大臣の重要な機能に、次期首相への大命降下の過程に関与することが挙げられます。これを果たすためには、その時々の政治情勢や有力政治家の人物や能力などについて知っていなければならない*4わけで、この二つのルートはそのための重要なツールでもあったはずです。その効能は否めないでしょう。

この後継首相推薦については、『日記』に示唆深いやり取りが残されています。元老は死んでいき、その補充は西園寺が許さない。だから内大臣が出ては来るので須賀、後継首相を選ぶ仕組みをどう整えていくかは、この期間を通じて西園寺と牧野らがずっと話し合ってきたことでありました。ある時、「後継首相推薦は枢密院が行うべき」との意見に対し、牧野内大臣はこのように答えています。「それも一案だろうが、現在の世論における枢密院の評判はどうか(枢密院は評判が悪く、公正な判断をする機関と見做されないだろう)」。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

何度か挙げているこの本によると、枢密院が次の首相を推薦する、という案はかつて伊藤博文が模索したものでありましたが、それが実現しないまま枢密院が公平な組織とみなされなくなり、その案も採用されないままとなってしまいました。大日本帝国憲法下の政治がうまく機能しなくなったのには、政府の首班を選ぶ公式な仕組みすら確立されず、また各アクターの分断化が進んだことに要因があると私は考えています。その意味では、この時の牧野の嘆息めいた返答には、大日本帝国の政治権力を統合する仕組みを欠く中で、君側を守らなければならないことへの苦悩が滲み出ているように感じられました。

最後に一つだけ。『日記』には、昭和天皇の長男である明仁が生まれた日のことも記されています。喜びの気持ちを短歌にもしていて、その歌も日記に書きつけられています。その赤ん坊が皇位を継ぎ、さらに30年余の時を経て明日、退位の日を迎えます。牧野伸顕が人生を過ごした期間も波乱万丈でしたが、明仁天皇がこれまで歩んだ時代もそれに負けないくらい、変化に富んだものだったと思います。大昔のように思える時代も、人と人が関わり合い、影響を与え合いながら紡がれてきたもので、その縁は今にも伝わっているー。漠然とながら、そんなことを感じながらページをめくっていました。

 

いつもありがとうございます。

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*1:生物学的事情に成り行きを委ねるという(西園寺の)判断は政治的なものだったで生姜

*2:彼の父を伴って島津久光が上京する前年に生まれ、婿である吉田茂が首相を務めている間に亡くなっています。まさに戦前日本とともに生きた人でありました

*3:まあこの人は初期の明治政府において大久保利通の下で働いてきたわけで須賀

*4:事実、晩年の西園寺は「人を知らない」ことを理由に次期首相推薦を断るようになっていきます