- 作者: 加地伸行
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1990/10
- メディア: 新書
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祖先にまつわるシャーマニズムから言わば演繹的に体系を構築していったのが孔子であり、また、漢代の中央集権体制に食い込まんと、言ってしまえば解釈面のこじつけや「原典」の捏造を通じてある種帰納的に理論化されていった歴史もあるという対照は興味深かったです。さらに、儒教の中央集権体制への「適合」―儒教的に言えば、「孝」の「忠」への接続―という苦し紛れの理屈がまかり通った背景を王朝の家産性に求めている点も、現代の北朝鮮の体制について示唆する点も大きく、個人的には面白かったです。
ただ一方で、「中国人はそもそも現実的・即物的な発想を持っている」というような、中国人や「東北アジア人」に対する本質主義的な理解が非常に目に付き、読みながらげんなりしてしまったのも事実です。もちろん、筆者は「東北アジア人」の範疇に日本人も含めて議論していますし、また先述したような性質を善悪でもって捉えようとはしていない点で、それらは最近はびこっている「特亜の連中はどうしようもない」といった類いの人種差別的偏見とは内容的に異なっているので須賀、「○○人はこんな奴ら」というレッテル貼りは、そうした悪意的な差別と発想法的にはそう変わらないと言わざるを得ません。まあ、この本がそういう「国民性論」に片足を突っ込んでしまっている背景には、「東北アジア」諸国の経済的成功と儒教を結びつける出版当時の議論があるらしいことは後書きで明らかになってくるんですけどねww
何にせよ、著者が指摘するように日本では儒教と仏教の混淆が進んでいるだけに、今私が感覚的に「儒教的」とみなしているようなものは儒教全体から見ると何であるのか、知らないことばかりだったのが最も印象的でした。欲を言えば、華夷秩序とかについても読みたかったですけど。