- 作者: 木宮正史
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2012/04/01
- メディア: 単行本
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その中で、南北が経済や軍事、外交などで体制間の実績を競いながら、その自他に関する認識の中で特定の戦略を選択し、相手への出方も決めていったという指摘も興味深いので須賀、その議論を進めるなら、もう少し(太字にした)自他への認識の部分に言及があってもよかったのではないかとは感じました。これは多分に印象論でもありま生姜、この本を読む限りにおいては、極端に言えば「北君」と「南君」が学校の通知表の各科目で競い合っているかのような雰囲気すら感じられて、当然それらが有益な指標であることには反対しませんが、例えば「修好国数」という指標がやや唐突な感じで「科目」として出てきてしまい、それが「軍事力」や「政治的安定性」といった他の「科目」とどう有機的な関係を取り結ぶのかが見えづらかった気がするのです。しかも現実問題において、「北君」と「南君」の通知表には5段階評価ほど明確に評価が付けられるわけではそもそもなく、2人がそれを見せっこするわけでもない。どちらとは言いませんが、一方が「オール1」に近い成績なのに「オール5」だ、と言わんばかりの顔をすることがあるかもしれませんし、それを受けたもう一方が「オール5はないだろうけど3ぐらいなんだろう」と判断するかもしれません。体制の実績を競っているなら、その「見せ方」についてももうちょっと読みたかったです。
さて、最後の部分では、なぜ南北の政治経済的な状況にこれほどまでに差がついてしまったかということに関する分析がなされています。属した同盟関係の違い、世界経済への対応や統一戦略などでの選択の相違、そもそも選択を行う際の柔軟性が挙げられており、こうして現代史を振り返っていくと、なるほどなあと頷かされます。個人的に感慨深かったのは選択の柔軟性という部分で、そもそも特定のイデオロギーなどによって国民を動員する全体主義は教条化しやすいというのは言えましょうし、とどのつまりはその正統性を金日成という個人に求めざるを得ない国家で、著者の言うとおり「伝統」「遺訓」が重大な意味を持ち、二進も三進もいかなくなってしまうというのはむしろ自然ですらある気がします。代が替って変化を求めているように見える金正恩政権がまさに今、亡父の一周忌と「強盛大国」の締め切りに合わせるかの如く、その父の「遺訓」としてミサイルだか何だかの発射を強行しようと粘っていることは、その重要な証左でしょう。