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金正恩体制の今後を考えるための3視点/『リムジンガン 第6号―北朝鮮内部からの通信』(責任編集・石丸次郎)

リムジンガン 第6号(2012年2月)―北朝鮮内部からの通信

リムジンガン 第6号(2012年2月)―北朝鮮内部からの通信

前号もここでご紹介させていただきました、北朝鮮内部のジャーナリストらの手による報告の第6号です。
金正日総書記死去後初めてのアコム刊行ということで、もちろんそれに関する緊急特集も組まれているので須賀、分量的にはそこまで裂かれておらず、国内での携帯電話などITの普及状況や「市場」経済の展開、覚醒剤の蔓延といったテーマでさまざまな内情が紹介されている本、と述べた方が正確でしょう。
先日飲み屋で思いついたので須賀、金正恩体制の今後を論じる場合、主に相互に作用しあう三つのレイヤーでの議論が可能であるように思います。それぞれ「国際社会」、「国内社会」、「宮廷内」とでも呼べるでしょうか。「国際社会」というのは、言うまでもなく北朝鮮という国を取り巻く国際環境に関する議論で、具体的には、外交関係をうまくマネジメントしてアメリカなどから「体制の保障」あるいはそれに近いものを引き出せるか、あるいはイラクリビアのような末路をたどるか、ということでして、その点で言えば決してバラ色の未来は見えないものの、各種報道にある通り米朝での協議が進む現在は、一定の小康状態だとは評価できるでしょう。
「宮廷内」とは、まさに北朝鮮という国家の中枢で権力者たちがどう振る舞うか、という問題です。現在は一般的に、「摂政張成沢を中心とした集団指導体制とみなされているようで須賀、その枠組みから外された権力者がそれに挑んでくる可能性はないのか、あるいは体制内の誰かが金正恩を食いものにしてしまうなんてことはないのか、兄である「おれたちの正男」はどうなったのか…つまり、金正恩が党や軍を掌握できるのか、そんな問題意識です。最近読んだ中では、『父・金正日と私 金正男独占告白』(五味洋治)とか、『金正日の料理人』(藤本健二)とかいった世界のお話でもあると思うんで須賀、正直言ってこれについて述べることは、この国家の特に中枢部分における情報の閉鎖性を考えると容易ならざることと言わざるを得ません。
最後に回した「国内社会」は、ざっくり言うとその中間にある北朝鮮の人々の暮らす世界です。前号以外でご紹介したものとすれば『密閉国家に生きる』(バーバラ・デミック)とか『クロッシング』あたりになるので生姜、前号を挙げた点からもお分かりの通り、私の知る限りにおいてこのシリーズは、北朝鮮をこのレイヤーで議論する上での一級資料と言ってもいいのではないかと思います。なに玄人ぶってるんだって?まあ知っている範囲で物事を評することは必要なことですし、むしろ人間はそうすることしかできないんじゃないですか?ww
その意味において、「国内での商売や人の移動への締め付けが厳しくなっているのは金正恩の指示と広く信じられている」という北朝鮮女性の証言は、横に伸びることで上からの圧力をいなしてきた風船(「国内社会」)を、新たに横からも締めつけることになるのではないかという懸念を生みます*1し、今年に入り100万人が合法的に携帯電話を手にするようになったという報告は、この国が最早、これまでイメージされてきたような完全な情報鎖国ではなくなっている/なくなっていくだろうことを象徴的にも示すものだと思います。
繰り返しになりま須賀、「宮廷内」に劣らず外部と遮断された「国内社会」における、こうした動きを詳報する仕事は、まさにジャーナリズムの成し得る極めて貴重なそれであると言えるでしょう。次号に何かを望むとすれば、金正恩体制が「国内社会」をどう仕切り始めているのか、その続報を期待しま須賀、多分そんなこと頼まなくったってそうした内容になるのでしょう。
毎度北朝鮮ネタだと延々とやってしまいます。今回は先日思いついた「金正恩体制の存続を占う3レイヤー」というコンセプトを無理やりレビューに盛り込もうとしたため、こんなことになってしまいました(笑) もちろんこの3層は相互に影響し合っていて、例えば脱北者や食糧支援などの人道問題は主に「国内社会」と「国際社会」、金正男の今後については「宮廷内」と「国際社会」、まさに金正恩体制が国民を締めつけているとか、デノミで混乱を招いた幹部が処刑されたってホント?的な話は「宮廷内」と「国内社会」にそれぞれ関わってくる話なんだろうと思います。この整理の仕方の精緻さや有用性については全然まだまだつめていかねばならないと思っていま須賀、せっかく思いついたのでご笑覧いただきたいと、まあそう思ったという次第です。

*1:そうなるとどうなるか…という金正日死去時にも用いたたとえ話のつもりです