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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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多元的な明治憲法体制の「奥の院」/『枢密院』(望月雅士)

【目次】

 

待望の枢密院概説書

明治憲法体制下で天皇の諮問機関として存在した枢密院とその歴史についてまとめた本です。当時の多元的な政治体制について、特に公式の制度ではない元老の果たした役割には以前から関心があり、いくつか本も読んできたので須賀、

canarykanariiya.hatenadiary.jp

枢密院に関する初学者向けの本がなかなかなく、個人的にも待望の一冊でした。

政党内閣への牽制

簡単に振り返ると、枢密院は明治憲法発布が迫る時期、政府と議会が対立した際に天皇が政治的責任を負わないために、その諮問機関として伊藤博文の発案で設置されました。当初からその存在意義が問われる組織体で、主に山県有朋の影響下で徐々にルールや慣行が出来てはきたものの、日本国憲法施行前に廃止されるまで、それらが安定的に運用されてきたとは言えないでしょう。「枢密院vs政府」「枢密院vs議会」など、立ち位置や運用が流動的な組織の周りでは縄張り争いが絶えないというのは、会社組織でも同じだと思います(遠い目)。

その枢密院は、政党内閣の時代には伊東巳代治・金子堅太郎といった明治憲法起草に関わった伊藤チルドレンたちが「憲法の番人」を自認し、内閣の施策を牽制し、官僚機構内の文官任用を抑制する役割を演じていきます。牽制どころか、若槻礼次郎内閣に至っては枢密院によって倒れたことはよく知られています。

もちろん政党側はこれに反発し、民主的正統性*1のない枢密院の改革・廃止論も幾度か持ち上がりま須賀、ここが当時の政党政治の悪いところで、枢密院により批判的だった憲政会→民政党*2も、政友会内閣を倒すためなら枢密院を利用しようとします。ロンドン海軍軍縮条約で野党・政友会が「統帥権干犯」を叫んで内閣を攻撃したことといい、「多元的な政治制度の中で健全な政党政治の慣行を確立させていく」ことより、「与党で総選挙を打てば大抵勝つ以上、手段を問わずにとにかく相手を引きずり下ろして大命降下を待つ」という姿勢が政党政治自体を掘り崩していったという一例がここにも現れています。

軍部に抗し得なかった理由は

一方で、軍部の政治的影響力が増す中で自称「憲法の番人」として政府の歯止めになれたかというとそうではなく、せいぜい天皇臨席の本会議で懸念を示して政府に警告を発する(それを天皇に聞いてもらう)場、といった認識が顧問官の間でも広まっていたことが本書で示されています。今の価値観から言えば「邪魔しなくていいもの(民主的傾向)を邪魔して、いざという時に歯止め役を果たせなかった」とも見える成り行きではありま須賀、枢密院の反対で実際に内閣を倒してしまったことが枢密院側のトラウマにもなっていたらしいことが指摘されています。また、これは私の想像を含みま須賀、伊藤・山県・松方ら「維新の元勲」や伊東・金子らの「憲法起草者」といったカリスマたちが去った後の枢密院は、民主的正統性がないからこそ、時に好戦的な1930年代の世論に抗し得なかったのかもしれません。この辺りの分析がさらにあれば、もっとよい議論になったろうと思います。

「補助輪役」を誰が担うべきだったか

枢密院改革論は当時も度々持ち上がっていました。乱暴に大別すると「顧問官の人選を変えればよくなる」という人の議論と、「枢密院制度自体を変える必要がある」という制度の議論があったようです。通読した感想としては、最初の位置付けや制度設計がしっかりしていないから、その時々の人たち(典型的には山県)が自分の都合がいいような運用をしてしまったのだろうと感じます。

さらには、天皇の諮問機関たる枢密院とは別に、非公式に国策の総合調整や次期首相選定を続ける元老という人たちがいたわけです。伊藤は、この元老の機能を枢密院に移していく構想を抱いていたとされま須賀、確かにその両者は(人的にはある程度重なっていたとは言え)併存している必要はなかったと思います。そもそも最初はともかく、天皇が政治的責任を負わないという前提で内閣・議会を両輪とした政治運用が安定化してくれば(今の日本がそうであるように)両方不要なわけです。実際の枢密院が憲法に定めのある堅固な機関として、敗戦・改憲によって国家の在り方が大きく変わるまで存在し続けたことを考えると、将来的な自走を見据えた補助輪のような存在として、生物学的なリミットのある人間がその役割を担っておいた方がマシだったのかも、という見方もできるかもしれません・・・もちろんそれが最善だという趣旨ではないで須賀。

*1:顧問官人事は首相の上奏となっていたが、事実上枢密院議長=山県の意向で決まってきた

*2:若槻も民政党