【目次】
「ええじゃないか」から朝鮮人虐殺まで
近代日本において民衆が大規模な暴力に訴えた事例を紐解きながら、その時代について、そして暴力そのもののありようにまで迫った本です。具体的には、前史としての近世の一揆や打ちこわし、明治初期の新政反対一揆、秩父事件、日露講和条約に反対する日比谷焼き打ち事件、そして関東大震災後の朝鮮人虐殺、を論じています。
当時の世相や当事者の認識など、事件の顛末を追うだけでない内在的な理解が目指されていてとても興味深かったで須賀、議論のポイントは大きく二つあったように思います。
国家による暴力独占とその例外
まずは、先述の打ちこわしから時代が下るに従って、国家が暴力の正当性を独占していく点です。明治初年の新政反対一揆や西南戦争の鎮圧を経て、人々は明治政府を暴力で倒すことはできないことを悟り、暴力を軍隊や警察が独占することを(イヤイヤであっても)認めるようになります。秩父事件の主導者もそのことは理解していたわけで須賀、その「国家による暴力独占」の例外を国家自らが作ったのが関東大震災後でした。その顛末も述べられていま須賀、「流言を信じた一部民間人による暴走」では片付けられないような、醜悪なメカニズムが描き出されています。この問題に対する現・東京都知事の言動が何を意味するのかも、浮かび上がってくることでしょう。
暴力を振るう人間のありように迫る
二つ目は、権力への対抗と被差別者への迫害の混在です。強者たる政府への反抗でありながら、かつて被差別部落にあった人々への迫害も起こった新政反対一揆と、植民地・朝鮮半島出身者を虐殺し続ける過程で、日頃から口うるさい警察署への焼き打ち寸前まで至った震災後の悲劇。これらを併せ考えることで、「窮鼠猫を噛む」と「弱い者いじめ」が矛盾なく共存し発露し得る、暴力というものの特質も明らかになってくるように思えます。
人間という存在のありように迫ることも歴史を学ぶ醍醐味なのだとすると、この本は簡潔かつ平易にその領域に導いてくれる好著だと思います。