かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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『日本人の法意識』(川島武宜)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

言わば「鹿鳴館的な西洋化」の一環として、ヨーロッパから民法などの法典を移入した日本において、そこに生きる人々の法に関する意識はそもそもどうであって、またどのように展開していったのかということについて、事例と理論を織り交ぜながら論じた本です。
そもそもが1967年の本であり、「法意識」の展開を、「『文字の次元における法』の近代性と、『行動の次元(法の機能)における法』の前近代性とのずれ」と捉え、その近代化が進展する過程であるとやや単線的にみなしていたり、今見ると手垢のまみれた「ステレオタイプ的日本人論」っぽさが拭えなかったりと、半世紀近く前の議論であるということは踏まえる必要があるで生姜、そもそも半世紀後に「手垢のまみれた国民性論だ」と指摘することは、著者への批判にはならない可能性が十分ありますし*1、その上でも、「なるほど、そうかもしれない」と思わせるような法への態度が随所に登場します。もっと言えば、この議論から学ぶべきは、先述の「行動の次元における法」の重要性という視点であり、以下のような著者の指摘は、先日の衆院選で大勝した政党が「家族は、互いに助け合わなければならない」などという憲法草案を掲げている(草案の内容自体へのコメントはこちら)現在にも、十分通用するのではないでしょうか。

…法律のしろうとは、法律さえ作れば、何でもすぐ世の中は変わってしまうと思いがちである(たとえば、「親に孝行せよ」という規定を民法の中に書けば日本中の人々が親孝行になる、というような考えがつい近年まで大まじめに主張されていた)。だが、法律を作っても、それが現実に行われるだけの地盤が社会の中にない場合は、法律というものは現実にはわずかしか、時には全く、「行われない」―社会生活を規制するという機能を果たさない―のである。

*1:当時の著者にとって、それは「ステレオタイプへの便乗」であったか、それとも「新たな認知枠組みの理論化・提示」であったか。それこそ簡単に白黒つけられる問題ではないで生姜、その点には注意が必要です