かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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「雑観記事」のコメント捏造は氷山の一角?

共同通信が談話捏造 次長処分
社団法人共同通信社(東京)が昨年10月、国内の新聞社などに配信したサッカー試合の記事に、記者が取材していない架空の観客の談話が加えられていたことが1日、わかった。談話は、東京新聞など4紙が試合翌日の朝刊で掲載した。
共同通信や関係者によると、昨年10月8日にさいたま市であったサッカー日本代表の国際親善試合「キリンチャレンジカップ」の原稿に、社内で原稿を監修する運動部デスク(次長)が、取材に基づかない談話を書き加えたという。
記事には「日本代表ユニホームを着て声援を送った20代の女性」が登場。「ブラジル大会ではベスト4だって狙えそう」との談話が紹介されている。同社によると、女性は次長の「知人」で「以前聞いた話を当日聞いたコメントのように仕立てた」という。
社内の「捏造(ねつぞう)があった」との指摘で調査委員会が事実を調べた。次長は「締め切りが迫っていたので加筆した」と説明したという。同社は10月26日付で運動部長と次長の2人を厳重注意処分とし、次長を編集局以外の部署へ異動。運動部員の大幅な人事異動もした。
談話は東京新聞福井新聞神戸新聞山陰中央新報の4紙が9日付の朝刊で掲載した。共同は翌10日夜、「事実関係に誤りがあったので削除して訂正します」との趣旨の訂正記事を配信。4紙には編集局幹部が電話で「あたかも観客席で(コメントを)取ったというのは間違いです」という説明をしたという。
4紙はいずれも、訂正記事を掲載していない。山陰中央新報社(松江市)によると、共同から「デスクがコメントを加筆した」などと電話で説明があった。同紙は「どういう経緯か、わからない」として訂正記事の掲載を見送った。共同側に調査を求めたが、その後、回答はないという。
神戸新聞は「紙面で出すような重大な事実関係の誤認ではないと判断した」、東京新聞は「訂正について強い要請があったとは記憶していない」という。福井新聞は「調査の正式な文書はなかった」としている。
共同の運動部長は記事掲載後、同部員全員にあてたメールで「加盟社に実害を与えるような誤報ではありませんが、重大な問題として、削除訂正とわび訂(おわび訂正)で筋を通しました」と説明していた。
共同通信は、国内外のニュースを取材し、全国の新聞社やNHKに記事を配信する通信社。加盟社は56社で国内最大。(羽賀和紀、五十嵐大介
    ◇
共同通信の三土(みつち)正司・総務局次長の話 不適切ではあるが、捏造(ねつぞう)とは思っていない。誤った所があったので速やかに訂正し、おわびも配信した。訂正を載せる必要があるかを判断するのは、加盟紙がすることで、悩ましい。
(8月2日、朝日新聞)

その場で起こっていないことを起こったと書くのは、ジャーナリズムの最も基本的な倫理に反することであり、論外としか言いようがありません。しかし、記者4年目になる私がこの第一報を目にした時、反射的に「ある種起こるべくして起こった不祥事」「明るみに出るのは恐らく氷山の一角だろう」といった感想を抱かざるを得ませんでした。
こういう談話が紹介される記事は「雑観」などと呼ばれ、今回のように大きなスポーツイベントへの「市民の熱狂」や、殺人などの事件が起こった場合の「おびえる周辺住民の様子」、被災地置き去りの政争への「被災者の憤り」といったものを、街中やスタジアム、避難所などにいる市井の人々にインタビューして紹介するものです。これは、必ず特定の人に話を聞かなければならないわけではない*1ため、その談話の内容に関する検証可能性は低くなります。それは、もし「菅首相は3日、記者団の問いかけに対し「本当は明日にでも辞めたい。後継は被災地選出で経験も豊富な小沢一郎さんしかいないと思う」と述べた」という事実と異なる談話がどこかの新聞に載れば、途端に首相周辺から抗議が来るで生姜、「ブラジル大会ではベスト4だって狙えそう」と述べた「日本代表ユニホームを着て声援を送った20代の女性」*2が存在しないことを証明することは至難の業だ、というようなことです。その意味では、記事にある通り内部からの告発がなければ、ほぼ発覚しえないとも言えるでしょう。
そしてもう一つは、こうした「雑観」が往々にして「お決まりのコメント」で満たされる傾向があることです。スポーツでの熱狂や事件におびえる市民、政治への被災者の不満といった先述の例では、どれも程度は違えど、一定の傾向性が働きやすいと言えます。記者は現場に赴く時、当然ながら一定の問題意識や仮説を持ってその場に臨みます。それに基づいて質問をすれば、答えにも一定の方向性が生まれます。中立公正な神の視点なんて存在しない以上、これはやむを得からざることです。もっと言えば、私のわずかな経験則に基づけば、現場の記者とやり取りをする内勤のデスクは、一定の筋書きに沿った「お話」を求める傾向がより強くなります。もちろん経験を積んだ記者が座る場所なので須賀、現場でない場所で、記者の原稿を完成品に仕上げることを責務とする立場上、「すんなりいく話」を求めるのでしょうか。具体的に言えば、殺人事件現場周辺で「特に理由はないけど、オレは被害者のことが気に食わなかったので殺されてせいせいする」「誰が殺されようがぶっちゃけ興味ないです」や、サッカースタジアムのスタンドで「日本とか嫌いなので早く負けてほしい」「まあさっきの得点もまぐれでしょ」といったコメントを聞いてきたとしても、「話としての収まりが悪い」ため、それらが記事になることはほぼないと言っていいでしょう。ここまで露骨なものはありませんが、私も「空気の読めない」雑観で怒られることは間々あります。
つまりこれまでの話をまとめると、こうした雑観記事では、話の収まりのよい談話が好まれ、かつ談話に関する事実関係の検証可能性も低い。それっぽいコメントをでっちあげやすい環境と、そうするインセンティブがあるわけで、それが最初述べたような感想を抱いた理由です。
繰り返しま須賀、嘘をついたり意図的に事実と異なる認識を読者に与えるような記事を書くことは報道人として論外です。ただ、よくありがちな収まりのいい雑観記事というのも曲がり角というか、読む方も書く方もうんざりなんじゃないのかなあ*3、そういうある種偽善的な「お行儀のよさ」が既存のマスメディアが嫌われる要因の一つなんじゃないのかなあ、と、愚痴を交えて述べ立ててみた次第であります。
あ、念のため言っておくと、これは特定の社の問題としてではなく、業界全体の話として一般論的に論じたつもりです。

*1:例えば「菅首相コメント」は世界に一人しかいない日本国内閣総理大臣たる菅直人氏のコメントでなくてはなりませんし、ある殺人事件の遺族の思いを聞く場合も、その取材対象者の絶対数は限定されます

*2:このように、その女性の名前を聞き、記事化することが必ずしも求められないのもミソです

*3:少なくとも私はうんざりである!