そんな中思っていたんですけど、ストレステストの件で特に顕著に表れたのは、ここのところの菅内閣(というより菅首相の)の意思決定がまさに官僚主義の対極にあるということではないでしょうか。官僚主義というのは「形式的」「硬直的」「融通が利かない」というネガティブなイメージで語られることが専らで須賀、その分裏を返せば「一貫性を重んじる」という側面もある*1わけで、その部分の欠如が大きな混乱を生んでいるように見えます。
そしてもう一つ気になるのは、菅首相のこうした言動が明らかになるたびに「市民運動家の菅さんに戻った」なんてセリフが出てくることです。私は市民運動家時代の彼を知りませんし、「市民運動家のハビトゥス」なるもの(があるとすればそれ)を知悉しているわけでもありません。だからそう思うというだけのことなのかもしれませんが、彼の「政治家らしからぬ」言動を見つける度に「市民運動家的だ」と解釈しようとするのは、一種の思考停止のような気がしてならないのです。彼は1980年から10期衆議院議員を務め、人生のほぼ半分の期間、胸に議員バッジをつけています。そして昨年、ついに内閣総理大臣にまで上りつめました。完全なる「永田町のアウトサイダー」とみなすべきなのかどうか、かなり直感的な議論で須賀、疑問に思っています。
*1:これは官僚機構に嘘や矛盾はない、という意味ではなく、たとえ屁理屈や悪習であっても少なくとも外見上、そうしたロジックを重んじる傾向があるという指摘です