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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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「最後の元老」の責任/『元老 西園寺公望』(伊藤之雄)

元老西園寺公望―古希からの挑戦 (文春新書)

元老西園寺公望―古希からの挑戦 (文春新書)

最後の元老・西園寺公望の伝記です。『山県有朋』を読んだ際にも感じたので須賀、日本近代史上、元老として特に大きな足跡を残したと言えるのは、山県とこの西園寺*1でしょう。その2人の歩みについて知ることは、元老という非公式的な制度を理解するのに欠かせないとの思いで、引き続き同じ著者の本を紐解きました。
やはり一番の感想は、彼が近代日本とともに生きた存在だったということです。岩倉具視に目をかけられ、近衛文麿への失望を強めながら世を去っていったわけで、その時代に起きたほとんどの出来事について「その時、西園寺公はこう言った/こうだった」と紹介できるというのは、単純な言い方ですけどすごいことですよね。同時代的にも何よりそこが、元老としてのパワーの源泉の一つだったとは言えると思います。
また、その元老としての力の振るい方も印象的でした。東京から適度に離れた静岡の興津に起居し、常日頃は来訪者や政治秘書らから情報を得る。そして内閣が倒れるなどした場合には参内して、天皇に次期首相を奉答する。また本心は国際協調にありながらも、陸軍などにも色よい態度を示しながら「公平な調停者」の立場を保ち、個別の案件で譲歩しつつではありま須賀、首相や内大臣宮内大臣、枢密院議長といった人事では発言権を確保する―。そうしたスタイルで、日本の政治全体に睨みをきかせようとしたのです。
ただ一方で、「調停者として日本の政治を支え」る元老たらんとするバランス感覚が、時に彼に毅然とした態度を取らせなかったり、その言動が節操に欠いた保身的な態度に映る*2面はあったでしょう。いざという時に調停者として振る舞うために、そうでない時には伝家の宝刀は抜かずにおく(=やたらと敵は作らない)、という戦略だったとしても、その「いざという時」はいつ来るのか。そもそも同時代において、それを明確に認識することが可能なのか。数十年後に生きる私たちは、その直接的な転換点の一つが満州事変への対処であったことを知っていま須賀、じゃあ当時の唯一の元老は、朝鮮軍の無断越境を黙認しないという自らの意志を反映させることで、不拡大方針に導くことができたのか。
厳しい言い方をすれば、伝家の宝刀を抜くタイミングを待ち続けた挙げ句、気付かぬうちにその刀が錆びてしまったようにも見えます。事実、時代が下るごとに政治の中心地から離れたところにいる西園寺は情報に疎くなり、力を失っていきます。これは、生の政治からスタンス的にも物理的にも一定の距離を取り、「公平さ」を演じようとした*3ことの代償でもあるのでしょう。
彼の先達であった伊藤博文や、元老として協力した山県と比べて格段に難しい時代を生きた西園寺に、ここまで言うのは酷だったかもしれません。それでも、こうやって彼の足跡を振り返っていくと、『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動』のこの一節を思い出さざるを得ませんでした。

ニーメラー牧師は…何千何万という私のような人間を代弁して、こう語られました。「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた」と。

やはり厳しいことを書きすぎていると自分でも思うので須賀、彼は首相奏薦権を保ち得た「最後の元老」だったわけです。

*1:伊藤博文は、元老としてというより伊藤博文として重要な人物

*2:昭和天皇張作霖爆殺事件に関して田中義一首相を叱責した際も、自ら元老に準ずる立場を与えた牧野伸顕内大臣に対して梯子を外すかのような言動を取っていました。著者はそれをバランス感覚の発露として、先に引用したような言葉で擁護していましたが、私はそのように好意的には受け止められませんでした

*3:西園寺自身、それがために「冷淡な性格」を自任してさえいました