- 作者: 丸山眞男
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 2006/09/01
- メディア: 単行本
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私のお目当ては序盤の「ファシズム」論的な部分にあり、いくつかの論文は(レビューを書く下準備の意味も込めて)2回読んだりもした*1ので須賀、彼が戦後に提示した仮説の世界観はやはり痛快なほどの迫力を持っているように思えました。すべてがオリジナルのアイデアではないで生姜、「抑圧の委譲」「善を欲してしかもつねに悪を為す」「既成事実への屈服」など、現代日本社会を生きてきた私にとっても非常に思うところのある概念を駆使し、戦前の日本に流れていたのはどんな空気だったのかを説明しようとしています。
その中でやはり興味を持ったのは、思想史の学問的手法についてです。以前のレビューでも言ったことの繰り返しになるので多弁になるのは避けたいので須賀、何を以て特定の言説を思想史の特定の場所に位置づけるのか。ナチスに対するドイツ内部の市民のスタンスを紹介した『彼等は自由だと思っていた』(ミルトン・メイヤー)が丸山の論文の中にも登場しま須賀、大衆的動員をあれほどなしえたように見える*2ナチズムに対する市民の述懐は、ナチズムやその拡大の精神構造、ひいては思想史的位置づけを考える上で非常に重要と言えるでしょう。その辺りの思想史の手法的な部分は、丸山の議論を見ていく上でも学んでおきたいものです。
ここからはややありがちな丸山論になりま生姜、さっき述べた「迫力ある議論」の基底にあるのは、やはり西欧個人主義の理想であり、ともすればやや単線的な進歩発展主義であることも感じさせられました。用語の問題をも含むので深入りは避けたいので須賀、戦前日本をファシズムとみなす議論は、独伊のそれとの相違の大きさから、結論ありきと攻め込まれやすいという部分もあるでしょう。しかしその一方で、彼の提示した問題意識は「日本人には日本人ならではの美徳がある。毛唐連中のマネをする必要はない!」と開き直っていれば済むものではないということは、繰り返しながら述べておきたいと思います。
そしてもう一個。やはりこれも言われているように、収録されている論文はかなりジャーナリスティックでもあり、彼が生き、論じた時代を感じさせるものでもあります*3。特に「軍国主義者の精神形態」は東京裁判での被告人たちの発言が分析の対象になっており、これはリアルタイムで読んでいれば(もちろんそうでなくとも)面白いこと請け合いだったのではないでしょうか。やはり時を隔てた今、丸山真男のファシズム論として読まれるのは最初に挙げた「超国家主義の論理と心理」など、時事性が薄く、話が包括的なものなのかもしれませんが*4、そうでない論文も歴史の一場面における論考として興味深かったです。個人的な告白をすれば、アメリカのマッカーシズムがファシズムと関連付けて論じられていたのは、言われてみれば尤もながら新鮮でもありました。しかし丸山自身は、この時事性にこんな意味合いを見出しています。
とくに最近の論議で私に気になるのは、意識的歪曲からと無智からとを問わず、戦後歴史過程の複雑な屈折や、個々の人々の多岐な歩み方を、粗雑な段階区分や「動向」の名でぬりつぶすたぐいの「戦後思想」論からして、いつの間にか、戦後についての、十分な吟味を欠いたイメージが沈澱し、新たな「戦後神話」が生れていることである。…(中略)…こうした神話(たとえば戦後民主主義を「占領民主主義」の名において一括して「虚妄」とする言説)は、戦争と戦争直後の精神的空気を直接に経験しない世代の増加とともに、存外無批判的に受容される可能性がある。こうした過去の忘却の上に生い立つ、戦後思想史の神話化を防ぐ一つの方法は、戦後にさまざまの領域で発言した知識人ができるだけ多く、自らの過去の言説を、資料として社会の眼にさらすことであろう。
これは増補版への後記として1964年につけられた文章の一節です。この後に例の「戦後民主主義の『虚妄』に賭ける」が出てくるわけなんで須賀、まさに戦後民主主義を支えた日本国憲法に対する「押しつけ憲法」論が広がっているのが、他ならぬ今の日本社会であるわけです。