かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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この前機会があったので、「花を売る乙女」という映画を見てきました。どこの国の映画かは検索すれば出てきますよw
革命歌劇」の名の如く、映画というよりはミュージカルのような作りで、演出も過剰だったのが相当気になりましたが、もっと気になったのはストーリーの部分でした。もっとこう、貧しい兄弟たちの抗日革命闘争!!みたいなのが見られると思っていたらさにあらず、2時間以上にわたる上映時間のほとんどは、土地を持たない貧しさゆえに、不幸に不幸を重ねた家族の物語だったのでした。
あっけにとられた頭で推測したところでは、朝鮮半島にあるとされる「恨」の観念と何かしら関係があるのかもしれません。「恨」というのは「ハン」と読むので須賀、しぶとく恨むという意味ではなく、伝統的には「不幸にあって自省する心境」というような意味だったようです。もしこの観念が彼らの心のどこかに響くものであるなら、度重なる不幸にくじけず生きる主人公には共感が集まるのでしょう。そしてそんな彼女が最後にパルチザンの兄と再会し、革命運動に身を捧げるようになることで、たとえ暮らしぶりが改善しなくても、長い長い尺を使って語られた彼女の深い「恨」は、強い「革命への情熱」に昇華されるということになるのでしょうか。
それがイデオロギー的な思惑としてどこまであるにせよ、ここで共産主義と「恨」の間には一筋縄ではいかない関係がありそうだ、ということに気が付きます。どういうことかというと、「恨」は前述の通り、本来は他人への怨恨ではなく自らに向けられたものです、だそうです。一方の共産主義では、「資本主義段階での労働者は、地主や資本家、さらには帝国主義国家などによって搾取されている!そいつらが悪いんだ!」と叫ぶわけです。実際映画にも、日帝と地主、資本家がやり玉に挙がるシーンが出てきます。そうやって不幸にある人に、誰のせいで不幸なのか、誰が悪いのかを「教育」することを標榜する共産主義は、どこまで「恨の文化」と整合的なのでしょうか? 「恨」の自省を外に向かわせることで、それを「解消」してしまう方向に作用する、言わば「恨」を「恨み」にしてしまう共産主義が、「恨の文化」とどう折り合いをつけてきたのかこないのか*1、話は大分それましたが興味深いですね。
ちなみにこの議論は「恨の文化」の存在を前提とする、ややもすれば国民性論的な話になりかねない怖さも持っていま須賀、南北問わず文化消費のシーンで多くみられる現象だとすれば*2、その消費パターンを考える上で意味があると思っています。
最後に言うと、主人公のホン・ヨンヒはかつて、金正日の愛人の一人だったそうです。

*1:共産主義の立場からすればただ、「恨」とか言ってないでこっちに来いというスタンスなのかもしれませんし

*2:そういう指摘も多いようですし