かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

グーグル、ロングテールWeb2.0、ブログ、ウィキペディアSNSといった「ウェブ時代」のキーワードを取り上げながら、これらの新現象を生み出した変化の核心と、それに基づく今後の展望を論じた本です。そもそもビジネス云々といった分野に疎く、またこうしてはてなで(!)ブログを書いていながらもこうした変化にも疎い私としては非常にいい勉強をさせてもらったというのが第一で須賀、その一方で常にイライラしながら読み進めざるを得なかったというのも正直なところです。
まず全体的に議論がやや技術決定論的に過ぎる気がします。「ウェブ時代」への技術的大変化という奔流には誰もあがらうことができない、問題はそこにどう適応するかだ、といった認識はやはり一面的と言わざるを得ないでしょう。
またそれにも増して鼻についたのは、「これまで」―「古い企業組織・経営者」―「エスタブリッシュメントへの固執」と「いま・これから」―「新しい企業組織・経営者」―「脱エスタブリッシュメント・鋭敏に時代を見る眼」との鮮やか過ぎる二項対立とレッテル貼り、そして後者の異質性の非常な強調でした。この本のほとんどすべての議論を通じてこの枠組みは堅持され、また「(ネット世界は)これまで見たことのある何ものにも似ていない」と、その異質性・断絶性を煽り立てます。なるほどこれはグーテンベルク以来の歴史的な大変化であり、私がそのことを十分認識していないだけなのかもしれない。ただ、この二つを何から何まで違うものだと、その一面のみから主張することが十分なことだとは思えないのです。
議論の中で著者は、「ネット世界」においては「リアル世界」ではそれを集めるコストの方が大きくなるため無視される小さな利益を、「不特定多数無限大」の人から集めることでビジネスが成立しうることを、「ネット世界」の特徴としてあげているので須賀、これはまさしく資本主義黎明期にベンジャミン・フランクリンが言った「時は金なり」ですし、オープンソースのところで出てくる「『全体』を意識せずに行なう『個』の行為が『全体』の価値を創造する」という議論も、アダム・スミスの「神の見えざる手」に代表される古典的な経済学と非常に親和性の高い議論です。このような「ネット世界」の論理やビジネス、そしてメンタリティーと資本主義的なそれとの連続性*1を鑑みれば、この本のように「これまで」との異質性のみを強調するのでは不十分なのではないでしょうか。著者が本当に「『お互い理解しあうことのない二つの別世界』が生まれてしまうことを懸念」するのならなおさらのことです。
まぁケチをつけるのはこのくらいにしておいて(藁)最後に一つ考えさせられたことを挙げるならば、今後インターネットというものは、どのような方向で使われ、そして作用していくことになるのでしょうか? 「世界政府っていうのが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルでつくろう。それがグーグル開発陣のミッションなんだよね」。これはこの本の中で紹介されていた、グーグルに勤める人の発言です。そして著者が「ネット時代の三大法則」の一つ目に掲げているのは「神の視点*2からの世界理解」です。後者に関しては技術決定論に基づく傲慢、と言えるにしても、ITの分野に精通し、またその第一線で活躍している人たちのメンタリティーの中に、インターネットを通じたある種の「統合」へのベクトルがあることは間違いないようです。
一方でまたこの大変化の中で、何かを表現し、広く発信していくことが一握りの人たちの手から解放され、著者の言葉を借りれば「総表現社会」とでも呼べるような状況が起こってきているのも事実です。このような「分散」あるいは「多様化」へのベクトルは、ブログなどによる表現・発信活動にのみ見られるものではないでしょう。
この二つの相反する(少なくとも一見そう見える)ベクトルが、「ネット世界」の中でどのように止揚されていくのか、興味を持って見ていきたいと思っています。

*1:個人的な感想を交えて言えば、「ネット世界」は資本主義の申し子なのではないかという気もしています

*2:全体を俯瞰する視点、という意味で使われています