- 作者: 岩波書店辞典編集部
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2016/03/19
- メディア: 新書
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しかも、それゆえにてんでバラバラな情報が散在しているのかといえばさにあらず。(1)マクドナルドの「マック(Mc)」、オマリーの「オ(O')」、ビンラディンの「ビン」など、父親の名前を少し変えた父称を名乗る場合*1や、それに由来する姓が広く見られる。(2)人の移動の少なかった中世の農村などではほとんどの人が姓を持たず、彼らは都市化と近代国家化が進んでから姓を持つようになった(その際に父称を姓とする人も多かった)。(3)特に上の子が夭折した場合に、超自然的な存在が生まれた子をさらっていかないように(=死なずに成長するように)それらの目を引かないような縁起の悪い名前を付ける―などなど、国や民族・言語集団を超えて共通する歴史や慣行も少なからずあり、それを一般化するのがこの本の目的ではないで生姜、興味をそそられる点ではあります。
私が人名に関心を持つようになった最大のきっかけは、自分(と細君)が一人の人間の名前を付けたことだったと思います。当時は、そして今もその責任の大きさに高揚を含んだプレッシャーのようなものを感じるので須賀、アフリカの名付けについて紹介したあるエッセーは、そうした気負いめいたものを上手く「中和」してくれた気がします。
アフリカ人の名前の大きな特徴の一つに、名は体を表さないということがある。われわれはついつい、名にあやかってとか、名は体を表すと考えがちであるが、アフリカ人は自分の名前は自分とは関係ないことを知っている。それはお父さんやお母さんの考えであって、自分とは関係ないことなのだ。
他の村人の揶揄に対する父親の心情(「彼らを放っておけ」)や、妻の行いを暗に責めるメッセージ(「それら*2は腹の中で死ぬ」)を子供の名前にする例もある、という日本語での名付けの感覚からすればかなり極端な話に続く一節なので、やや表現が強いで須賀、この指摘は一面の真理を衝いていると感じました。私は長男の名前について、名付けた人間としての自信は持っていま須賀、当の本人はこれぐらいの認識でもいいのかな、と思っていたりもします。