- 作者: J.J.ルソー,桑原武夫,前川貞次郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1954/12/25
- メディア: 文庫
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- 18世紀半ば(ルソーの現代)
この本が著された時期ですので、これは当たり前でしょう(笑) ベネツィアでの自身の経験や置かれた境遇、グロチウス・モンテスキュー・マキャベリらの(程度は異なれ)彼に先行する議論などを踏まえた、十分に「当時代的な」著作であることを指しています。もちろんこれは「普遍性がない」と馬鹿にしているのではなくて、むしろ個別の時代の刻印がない抽象論は逆に気味が悪い*1とすら感じます。論証の仕方、特にその自明の前提としている公理のようなものが(少なくとも私とは)異なっていることがあるように思えたのも、お互いの当時代性と捉えてよいでしょうか。
- 18世紀末、あるいは20世紀初頭まで(ルソーの未来、私の過去)
これはかなり「エロい」読み方なので生姜、著者がこの本が出された以降のことを予言ないしは予測しているようにも読める箇所がいくつかあります。
…国家の存続している間に時として激しい時期があり、その時にはある種の発症…と同じ作用を、革命が人民に対して及ぼし…国家は内乱によって焼かれながらも、いわばその灰の中からよみがえり、死の腕から出て、若さの力を取り戻すことがある…
これはまるで著者の死後間もなく、フランスで起こることを示唆しているように読めませんか? あるいは、ロシアの人民は市民化するほど成熟していないのにそれを押し付けられたため、かえってその機会が失われてしまい「ロシアの臣下ないし隣人のタタール人が、ロシア人の主人とな」ることになるだろうという予言は、帝政ロシアの近代化から社会主義革命までの経過の説明として今読んでも、支離滅裂とは笑えないでしょう。「ルソーは予言者で、『社会契約論』はその予言の書である」などと主張するつもりは毛頭ありませんが、著者が信じるところの立論が史実とリンクしていく様は確かに、魔力的ですらあると評せるかもしれません。
最後の一つは文脈的に牽強付会ではあるんで須賀、どんなもんでしょうか? 「私はなんとなく、いつかこの小島(コルシカ島)がヨーロッパを驚かすであろうとする予感がする」
- 21世紀初頭(私の現代)
『社会契約論』は言わば、近代という人類史を画する一時代の聖典のように扱われてきた書物ですので、そのまま「近代」にしようかとも思ったので須賀、ここは「今、これを書いている」という当時代性を重視してみました。多分ここが一番スタンダードな話になると思いま須賀(笑)、たまたま少し政治学関連の本をかじれば『一般意志2.0』(東浩紀)、『多数決を疑う』(坂井豊貴)のような、近年出版されたルソー関連のベストセラーに行き当たるという言わば「犬も歩けばルソーに当たる」的状況は、まさに今、近代を支えてきた国民国家や多数決に基づく民主主義などの制度が曲がり角を迎えている証左なのではないかと思います。そういう時代だからこそ、「近代の聖典」が時に批判的に参照され、読み替えられている。そんな気がしますし、それに耐え得るという点においては、先ほど使った「当時代的」という言葉よりも「通時代的」(要は普遍的)などの方がふさわしいのかもしれませんね。
最後に一つだけ引用を。
自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。
有名な一節だそうで須賀、これが「主人たる者も『主人』という関係性(あるいはそれをつくる上位の価値)拘束されている」ということへのルソーの観察眼を示しているとするなら、「SMのSはサービスのS」という『亭主元気でマゾがいい! 1』(六反りょう)の格率(?)も、少なくともこのスパンにおいて妥当するものなのかもしれません。
*1:ここで『自発的隷従論』(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)を挙げるのは不適切でしょうか?